言葉の温度に触れる

「じゃあ般若の面でもつけて歩けばいいの!?」
「そうは言っていない。それとあんたの危機感の薄さはまた別の話だろう」
「危機感ちゃんとあるよ! あるし……」

どういうわけか昔から一人で歩いていると変な人に声をかけられることが多い。平均にも届いていない身長のせいなのか、こいつなら大丈夫だろうという雰囲気が出ているのか。有からは「危機感をもて、隙を見せるな」と耳にタコができるほど言われていた。
彼はそう言うが、別に私だって無防備なわけではない。一人で歩く時はイヤホンをせずに周りを気にして歩くし、酔っぱらう時は必ず有がいるときだけと決めている。
余談だが酔って眠くなり彼におんぶされている私を見て「コアラみたいだな」と言った灯世さんの言葉は、少し恨めしくて頭に残っているけれど。彼のことだ、きっと他意はないのだろう。
……本題に戻るが、それでも有には危うく見えるようで今もまたこうして叱られていた。



仕事で有に会えないまま二週間が経った。もう一週間くらいはかかると言っていたから、彼の家に行くこともかなわない。友達もよりによって今日は仕事で、図らずも予定のない休日になってしまった。でも逆に考えればこんな日は滅多にないのだから、自堕落に過ごそう。そう決めたはいいが、冷蔵庫が空っぽだったことをすっかり忘れていた。
仕方なく駅前まで買い出しに出ると、不意に声をかけられて。『すみません』というその声に、私は反射的に生返事をしてしまった。

『ここってどっちに向かって行けばいいかわかりますか?』
「え、あーここ……」

やってしまった、と思ったが返事をした手前無視することはできず彼の手元を覗き込んだ。
地図アプリが指している場所は、まあ私でもなんとなくわかる場所ではある。というか地図アプリがあるなら自分で行ってほしいのだけれど。

『急にすみません、上京したばかりでわからなくて……。近くまで行ったらナビ終了しちゃうし充電もなくなりそうで』
「わあ、ほんとだ。……まあよくありますよね」

話しかけてきた二十歳そこそこであろう男性は、困ったように首元に手をあて申し訳なさそうにそう口にした。そして近くまで一緒に行ってほしいと道のど真ん中で頭を下げられ、なんだか私も居心地が悪い。
だからと言って一緒に行ったところで確実に到着できるとも言い切れない。
どうこの場を離れようか悩んでいると『あっち見てましたよね? お礼はあとでします』と、私の返事も聞かず強引に手首を掴んで歩き出した。
「ちょ、ちょっと、」口をついて出たのはそれだけで。踏ん張ろうとしても、引っ張られるその力に抵抗することはかなわなかった。やばい、どうしよう。周囲を見ても助けてくれそうな人はいない。本当にどうしよう。

『あれ? どしたん、その人知り合い?』
「……え?」

突然目の前に現れた爽やかを体現したようなその男性は、全くの見ず知らずの人だった。
もしかして助け船? と思いながら首を横に振れば、『そっか』と地図アプリの彼へと視線を向ける。

『困りごとなら俺も一緒に行くけど?』
『え、いや、大丈夫です……』

まずいと思ったのかすぐに私の手首を離し、頭を下げながらそそくさとこの場を後にした。『もう少し"知り合いの振り"してた方がいいんじゃない?』との提案を受け、ついて来られても困るしと促されるまま反対方向へと足を進めた。
少し歩いてから後ろを振り返るも先ほどの地図アプリの人はもういない。助けてくれた爽やかさんへお礼を伝えれば『いーよ』と笑って答えてくれた。

「だからもう大丈……」
『そうだね。じゃあさ、ちょっと付き合ってよ』
「え?」
『助けたお礼、もらいたいな』

待って、二段構えとは聞いてない。普通にいい人じゃなかったのか、この爽やかさん。なにかお礼として逃げ切れるもの……なにか、何かないか。まさかこんなことになるなんてと、思いがけぬことに頭が回らない。
断る理由を探しているうちに『じゃあ、いいってことで』と爽やかさんに押し切られそうになる。……その瞬間、肩をくっと後ろへ引かれ聞き覚えのある声が降ってきた。

「失礼ですがお知り合いの方ですか?」
「き、城瀬さん」
「今日は彼女と待ち合わせていたのですが、見当たらなくて探してたんです。なにかありましたか」

爽やかさんは突然現れた城瀬さんを見上げると、あからさまに表情を変え適当な言葉で濁し踵を返した。その姿が見えなくなり、ようやく肩の力が抜ける。私は城瀬さんの方を振り向き改めてお礼を伝えた。
困ったように見えたから、という城瀬さんに事のいきさつを伝えれば少し驚いたような顔をして指先を顎に添えた。……なんかすごい絵になるな。

「……それ、もしかしたら二人は協力関係だったかもしれませんね」
「え? どういうことですか」
「一人目に絡まれてるところを二人目が助ける、という犯罪の手口があるんです。憶測ではあるのですが、あまりにもタイミングが良すぎたので」
「え、えー……なにも信用できない」
「そう思ってた方がいいかもしれませんね。有は……仕事か」

もしかして有にバレるのではと少し身構えたが、続けて口にしたのは「じゃあ、俺が家まで送りますよ」という提案だった。
流石にプライベートのことで仕事中に連絡はとらないよね。よかったと、密かに胸をなでおろした。

「や、でもまだ買い物終わってないから大丈夫です。そこまで迷惑はかけられません」
「俺は用事が終わって帰るだけなので。もしさっきの人に付けられても困るでしょうから」

「ね?」と笑う城瀬さんの言葉を否定できるわけもなく、安心した私はその言葉に甘えることにした。



ピンポンと高いチャイムの音が鳴る。バタバタと玄関の鍵を開けると三週間振りの彼の姿があった。

「久しぶりだな」
「仕事お疲れ。入って入って」
「あぁ、邪魔する」

私の横を通った彼からは優しい樹木ような香りがする。仕事が終わってすぐシャワーを浴びて来たのだろうか。
有から連絡があったのはほんの数時間前のことだった。今家にいるか、とメッセージが来て。私はうきうきで返事をし、今に至る。
彼の背中へと抱き着けば、身体を捻り「どうした」と私の頭に軽く手を置いた。「ううん、何でもない。ソファーに座ってて」なんて彼に会えた嬉しさを誤魔化し、コーヒーを淹れるためキッチンへ向かった。

「ありがとう」
「いーえ」

コーヒーとカフェラテが入ったマグカップを並べ有の隣へと腰をおろした。服越しにとはいえ、久しぶりに感じる彼の体温に嬉しさがにじむ。
彼は持ってきてた袋から、いつもの煙草とコンビニで買ったであろう新発売のスイーツを取り出して目の前に並べた。どれも私が気になっていたもので、スイーツと有の顔を交互に見れば「好きなものを選べ。全部食べてもいい」と口にした。

「えー、一緒に食べようよ」
「それでも構わない」
「やった。ありがとね」

どれにしようかな。……この生チョコ餅何個か入ってるし有と半分こしよう。
封を切ってピックを刺し、ひとつを口に放り込むと口いっぱいに甘さが広がった。口に入ったまま、言葉にならない言葉で喜びをあらわす。もう一つをピックに刺し、有の口元へもっていけば当たり前のように口を開いた。

「美味いな」
「ね! めっちゃ美味しい」

有が買ってきたものは美味しいものしかないから「次は何食べよっかなー」なんてあれこれ目移りしていると、有は突然静かな声で私の名前を呼んだ。

「仕事で会えなかった間、あんたのことが少し耳に入った」
「ん?」

私のこと……とは何だろうか。え、なにかあったっけ。知らないうちにやらかした? 有の部屋には忘れ物を取りに一度入っただけで、一瞬ベッドに寝転んだけどちゃんと整えて帰ってきたし。恩田さんにも会わなかった。
有と会えなかった三週間を思い出そうとしても、仕事して遊んで自堕落な生活をしていたことしか思い浮かばない。

「城瀬から」
「あ」
「心当たりがあるようだが」
「いやその、違うくて」

あまり変わらないけれど、これは少し怒っている表情だ。なんとなくわかる。
怒られるくらいなら、かばってもらったお礼と一緒に口止め料も渡しておけばよかったかもしれない。きっと城瀬さんは受け取らないだろうけど。

「なにが違うんだ。結果がどうであれ、危険には変わりないだろう」
「この前はうっかり返事しちゃって……道端で頭下げられたら他の人の目もあるし気まずいじゃん」
「じゃああんたが困っていたとき、その他の人は助けてくれたのか」
「それは……」

……悔しいけど何も言い返せない。
でもうっかりすることだってあるじゃん。それで本当に困ってる人だったら無視したら悪いし……この前のはただ運が悪かっただけなのに。

「一人目をけしかけ、もう一人が助ける振りをすることは犯罪のよくある手口だ」
「よくあるんだ」
「今回も偶然城瀬が通りかかったから無事だっただけで、次もそうとは限らない」
「……でも、私だって有が思ってるよりは気を付けてるよ」
「俺には危機感があるようには見えないが。今回だって返事をしてしまったとしても、すぐその場を立ち去ればよかっただろう」

有はすぐに判断してそうできるかもしれないし、そもそもそんな状況をつくらないと思う。
でも私は彼とは違って、うっかりもするし押しに弱い所もあるかもしれない。自分が絡まれやすいのはよくわかってるから、その中でちゃんと対処してるのに。今回はたまたま初めてのパターンだったから上手くできなかったけれど。そこまで怒られること?

「私は有じゃないからそんなにすぐ判断できないよ! じゃあなに、般若の面でもつけて歩けばいいの!?」
「そうは言っていない。それとあんたの危機感の薄さはまた別の話だろう」
「危機感ちゃんとあるよ! あるし……」

有からしてみたら、私の危機感は薄く見えるのかもしれない。でも一人でいる時は最大限気を付けてるつもりなのに、これ以上一体どうしたらいいのかわからない。
久しぶりに会ったと思ったら怒られああ言えばこう言うの繰り返しで、視界がじわりと歪んだ。

「泣くな」

涙を拭おうとしてくれたのか、彼の手が私の顔へと伸びてくる。素直に委ねる気にもなれなくて、彼の手を掴めば予想をしていなかったのか少し驚いた表情を見せた。

「私だって……私だって、好きでそうなったわけじゃない。じゃあもうどうしたらいいの」
「わかったから、手を離せ」

有の言葉に少し間をおきおずおずと手を離せば、解放された指先で涙を拭った。
正論ばかりぶつけてくる言葉とは裏腹にその指先はひどく優しくて。ぐちゃぐちゃだった思考が涙と共に少しずつ溶けていく。

「話しかけられても無視するのが一番だが、交番か駅員まで行くという手段もある」
「うん」
「一人で対処しようとするな」
「…………ごめん」

別に責めているわけじゃないと、彼は私の頭に優しく手を置いた。その流れで私の頬にかかっている髪を耳にかけ、彼の瞳へと誘導される。

「大抵は絡まれても素っ気なくすれば諦める。しかし例外もいる、今回のようにな」
「……そうかも」
「だが俺が四六時中一緒にいてやれるわけでもない」
「いてよ」
「無理だ」
「言ってみただけ」

有は呆れたように小さいため息をついて一瞬だけ視線を逸らした。
ちょっと和ませようと思って冗談言っただけじゃん。半分は本気だけど。

「俺は、あんたが俺の知らないところでなにかに巻き込まれて欲しくない」
「……うん」
「今回の件は仕方ないにしても、次からは店や交番に行くことだな」
「ん、わかった。……なんか有はさ、」
「なんだ」
「お母さんみたいだね。心配性の」

その言葉に彼は少しだけ首を傾げ「恋人の間違いだろう」とすぐに訂正した。当たり前のことを言っただけなのに、それがなんだか照れくさくて笑い声が漏れる。普段はあまり言葉にしないから少し新鮮に感じたのかもしれない。
「有」と名前を呼んで返事が返ってくる前に彼の胸へと飛び込むと、そうなることがわかっていたかのように静かに抱きすくめられて。背中に回された腕に安心感を覚える。
さっきまであんなに腹が立っていたのに、今は不思議なほど穏やかだ。

「ふふ、恋人なんだよね」
「そういったはずだが」
「いいの、私が噛みしめてるだけ」
「そうか」

もう怒られないかな、と少しだけ顔を上げれば近距離でぱちりと視線が合う。

「……できるだけ危険な目にあってほしくない」
「はあい」
「本当にわかってるのか」
「わかってるよ。もう有に心配かけないようにするから」
「そうしてくれ」

抱き着いたときに乱れた私の髪を、彼は指の背でそっと横へと流した。そのまま彼の指先は私の頬をなぞり顎へと添えられて。柔らかな熱をもった彼の伏せた瞳にそっと目を閉じれば、静かに唇が重なった。

多分これが、彼の優しさの温度なのだろう。