学生時代女子の間では、綾戸くんの思わせぶりな態度をめぐる浮ついた噂が絶えなかった。それだけ聞けば軽薄な人なのかという印象を受けたが、実際に言葉を交わせばそんな様子は見受けられなかった。むしろ穏やかで優しい、そんな人柄で。もしかしたら、そんなところが噂に繋がったのかもしれないけれど。
とは言え、私は他愛のない話をする程度のクラスメイトで。それ以上彼のことを深く知る機会も訪れないまま卒業した。
……まさか数年の時を経てその彼に好意を寄せるとは、当時の私からは想像もできなかった。
*
一週間の仕事の疲れがチャラになるくらい今年の映画もよかったと、余韻に浸りながらスクリーンを後にした。
毎回見ているシリーズの映画を今回はレイトショーで鑑賞すると決めていて。公開して少し時間が経った今、比較的人も少なくゆっくり観ることができた。
限定のキーホルダーも買えたし、帰ってゆっくりパンフを見ようと足早に出口へ向かうと後ろから声が聞こえた気がした。……が、自分ではないと気に留めず進むともう一度「あの、落としましたよ」という男性の声がはっきりと耳に入る。
「え、私ですか」
慌てて振り向きそう口にすれば、きれいなピンクがかった髪の男性が立っていた。「これ、違います?」と差し出されている彼の指先には、私が落としたであろうステッカーが挟まれている。
一旦スマホのポケットに挟んでいたはずのそれを確認すると綺麗に抜け落ちていて。「あの、拾ってくれてありがとうございました」と受け取り顔を上げれば、どこか覚えのある男性だった。記憶を手繰り寄せ、高校の同級生である綾戸くんのことを思い出した。
「あの、もしかして」
「ちょっと待って、今思い出すところ」
「……口に出すのは普通に失礼じゃない?」
「ごめんごめん。思い出した、高校の時の」
彼がさらりと私の名前を口にしたことに少し驚いた。本当に覚えていたんだと。
綾戸くんは何かと人気があったし、女子の間でも噂が絶えなかったから印象に残っているのは当然だとして。片やなんの変哲もないただのクラスメイトである自分を覚えていてくれたことがなんだか嬉しかった。
「すごい、覚えてると思わなかった」
「それこそ俺に失礼じゃない?」
「あはは、それもそうか。綾戸くんも映画見終わったところ?」
「そ。で、帰ろうとしたらそれ落としたの見えて声かけたって感じ」
「本当にありがとう……」
シリーズもののこの映画は子供から大人まで幅広い年齢層をターゲットにしているとはいえ、ステッカーを見られたのは少し恥ずかしい。なんだかいたたまれず何食わぬ顔で鞄にしまおうとすれば、彼の視線はそちらに注がれた。
「それ、少し前に俺も観たよ」
「え!? 綾戸くんもこういうの観るんだ」
「映画好きでさ、いろんなの観てるけどそれも面白かった」
「面白かったよねー! 私はずっと感情振り回されてた」
「うん、なんか想像できる。……ね、これから時間空いてる?」
「え、うん、まあ明日は休みだし」
「ここで立ち話も邪魔になるし、ちょっと移動しない?」
何も考えずに頷いてしまったけれど。綾戸くんの選ぶ場所はおしゃれなところなのではと思えば少し気が引ける。私にはそこらへんのカフェや居酒屋くらいがちょうどいいから……。
そんな私の雰囲気を汲み取ってくれたのか「無理にとは言わないからそんな悩まないでよ」なんて言ってくれた。
「なんか……綾戸くんっておしゃれなバーとかクラブに行きそうなイメージだから躊躇っちゃって」
「なーに、勝手なそのイメージ。大丈夫、知り合いっていうか俺も働いてるところだから」
「えっそうなの!?」
「って、懐かしさから軽く声かけちゃったけど。下心はないし、気が進まないならまたいつか縁があったらって感じで」
下心だなんて単語が出てきて思わず笑ってしまった。今の綾戸くんの印象からはあまりにも無縁だったから。
「なに、俺おかしなこと言った?」
「ううん、下心なんて綾戸くんと縁遠そうな言葉が出てきたから笑っちゃっただけ」
「でもそういう油断はよくないから。ちゃんと警戒心ももって」
「はーい」
困ったように窘める綾戸くんがお母さんみたいで、学生の頃とは随分印象が違う。
そんな彼にここで会ったのも何かの縁だと思い、職場でもあるバーへと案内してもらった。
*
ドアを開けた綾戸くんから促され先に足を踏み入れた。ほんのり暗い照明に、心地良いBGMが流れていて、友達に誘われなければ絶対に来ないであろうおしゃれな空間が広がっていた。あまりじろじろと見るのも失礼かと思い、さっと店内を見渡したがやはり落ち着いた雰囲気だった。
ちらりと彼を見上げればどこかに視線を向け頷いていて。その理由を聞けるわけもなく首をかしげていると、一人の店員さんが近づいてきて緊張から背筋が伸びた。
「いらっしゃい〜って、恋くんやんか。隣にもかわええ人おるねぇ」
「高校の同級生、たまたま映画の帰りに会って」
「そうなんや」
「こっちは樋宮、見ての通り仕事仲間」
「どーも、ゆっくりしてってなぁ」
「ハイ……ども……」
「俺らあっちに座らせてもらうから」
「はあい」
綾戸くんから案内されたのはカウンターから遠い席で。私の好みを聞き、ドリンクの注文なんかも全て担ってくれた。ちょっと申し訳ないほどに、すごく気を遣ってくれている様子が伺える。
「はい、チャイナブルー。甘いのがいいんだよね」
「うん、ありがと。……なんか私の知ってるのと違う。めっちゃ綺麗、写真撮っていい?」
「どうぞ。俺のも一緒に撮る?」
「いいの? お言葉に甘えて」
「どーぞ」
間接照明の柔らかい光だからか、おしゃれなカクテルがよく映える。写真を撮り終わり、お疲れ様と口をつければさっぱりとした甘さが広がった。アルコールもあまり感じなくていくらでも飲めそう。……とはいえ、どちらかと言えば弱い方だからそこまで飲めないけれど。
「美味しー! 一週間の疲れが映画とお酒で癒される」
「それはよかった。昼はカフェもやってるからそっちの方が入りやすいかもね」
「あれ、そういえばイケメンが沢山いるカフェバーがあるって友達が言ってた気が……もしかしてここ?」
「働いている身としてそこで頷きづらいけど、まあ候補ではあるんじゃない」
「へえー、納得」
「そこは納得するんだ」
それからお酒を飲みながら色んな話をした。先ほど見た映画の話から始まり、懐かしい学生の頃の話や、職場に顔を出す猫が可愛いなんて他愛のない話まで。綾戸くんが聞き上手なのか、話し上手なのか、はたまたどちらも兼ね備えているからか。その空間で気まずい瞬間なんかひとつもなくて、随分と話してしまった気がする。
久しぶりに飲んだお酒のせいもあり、心地よくふわふわした気分だ。
「……と、少しのつもりが結構話しちゃったね。もうこんな時間か」
「んーほんとだぁ。へへ、あっという間だったねぇ」
「ちなみに家はどこ?」
「えっとーここから四駅……ちがう三駅かな、あはっ」
「あーうん、送ってくわ。さすがに」
あーめっちゃ気分がいい。杯数にしたら二杯か三杯しか飲んでないはずだけど、私にとっては結構飲んだ方かも。綾戸くんは促すのが上手だし、でも嫌な飲み方じゃなくて。心地良く酔わせてくれた。
それでも自分一人で帰れるくらいの理性は残っているつもりだ。駅まで行ければもう家に着いたも同然。さすがにそこまで迷惑かけるわけにはいかない。
「まかせて、一人で帰れるから、まかせて」
「ここまで信用できなさそうな言葉ある?」
そう言って綾戸くんは眉を下げて呆れたように首を横に振った。
言われるほどひどくないと思うんだけど。意識もあるし記憶もあるし、ただ少し愉快になっているだけ。あとは軽くふらつくかもしれないけれど、帰るだけならなんの問題もない。
「なら俺が送ってこか〜」
「アンタは余計ダメでしょ。いいからほら、下げるもの持ったら戻ってきなさい」
「さすがの俺も明星には任せらんないかも」
「ミカ姉も恋くんも酷いわぁ」
「……て、ことで立てる? ゆっくり準備してて」
「ん、まかせて」
いつものように立つと多分ふらつくから、テーブルに手をついてゆっくり立ち上がる。
……眠いしちょっと頭痛いか。でもまあこれくらいなら全然我慢できるくらいだからいいけど。
上着を着て荷物をまとめていれば、戻ってきた綾戸くんから声をかけられる。「準備できた? じゃあ行こうか」と出口へ向かう彼に、お会計のことを聞けば大丈夫だとあっさり流されてしまった。
「やー、だめだめ。私も……」
「そもそも俺が誘ったんだし、払わせてよ」
「また来てな〜」
お店のドアを開けた綾戸くんに促され、ゆっくりとした足取りで外に出た。エレベーターで一階に降り、外へ出た途端冷えた風が表面の熱をさらっていく。ずきりと痛んだこめかみにこっそり指を押し付けるといくらかマシになった。
まだ人が多く行き交う中で、彼は私の歩くスピードに合わせてくれていて。もう一度お会計のことと一人で帰れるという話を切り出したいけれど、タイミングがつかめない。ちらりと彼の方を覗こうととよそ見をした瞬間、何かに躓き視界が傾いた。
「ぅわっ」
「あぶな……っセーフ」
ぶ、無事だった……。
道のど真ん中で転びそうになり心臓がひゅっとした。驚きから動けずにいると、不意に頭の上から「大丈夫そ?」という彼の声でこわばっていた体がふっと緩む。それと同時に間近に感じるムスクのような香りに、私を支えるその腕に、せわしない鼓動が耳の奥に響いた。
「ごめん」と無意識に掴んだ彼の服を離し、体勢を整える。綾戸くんから離れても私の心臓は落ち着くことを知らず、煩いままで。転びそうになったせいなのか、それとも彼のせいなのか。わからないそれを誤魔化すように、私は口を開いた。
「あ、ありがと。ここで転んでたらはずかしくておきあがれなかった」
「おおげさ……でもないか。結構道のど真ん中だし」
「しかも最近太ったから……もうぜんぶはずかしいごめん」
「いや全然。それより、足捻ったりしてない?」
「ダイジョブ……」
私に怪我がないかを確認して、綾戸くんと並んでまた駅に向かって歩みを進めた。
駆け足で動く鼓動を落ち着かせるためにこっそり深呼吸をする。無理やりきっかけをつくりたくてぴたりと足を止めると、彼はすぐに気がついて「どしたー?」と口にした。
「やっぱり迷惑かけるからひとりでかえるよ。よいもさめてきたし」
「たった今転びそうになった人がなーに言ってんの。せめて電車に乗るとこまでは見届けさせてよ」
「う……ぐうの音もでない……。じゃ、じゃあさっきのお会計、すこしでも受けとってほしくて」
「うーん、そこは本当に気にしないでほしいんだけど。どうしてもっていうなら、カフェにも遊びに来てよ。一人でも友達とでも」
「え、逆にそれでいいの?」
「いーよ。来づらいなら俺のシフト入ってるか聞いてくれればいいし」
そう言って彼はスマホを取り出し「はい、連絡先」と当然のように私へQRコードの画面を向けた。私も慌ててポケットから取り出し、カメラで読み込み連絡先を追加する。そして私から彼にスタンプを送り、連絡先を交換することができた。
新しく登録する人が久しくいなかったこの画面へと追加された彼のアイコンが、ひどく新鮮に感じられて自然と頬が緩む。
「へへ……」
「なあに、その笑い」
「久しぶりにともだちできたなあって」
「ならもう少し嬉しそうに笑ってくれる?」
「ごめんなさーい」
彼の「ほら行くよ」の声につられ、結局断ることができず彼の後をついて行った。
「……遅延ね」
電光掲示板の表示を見て綾戸くんはそう呟いた。ここに来てまさかの遅延、もう帰るだけだと思ったのに。彼はとりあえず座ろうかと端の方にあるベンチを指さした。
寒いけどまだ抜け切れないお酒で体の中はぽかぽかしている。座れたことと、仕事の疲れも相まってか襲ってくる睡魔に抗うことができない。
……もう少し、起きてないと……。
何かを話している綾戸くんの声が心地よくて、遠のく声と共に意識を手放した。
…
……うるさい、電車の音? なんか寒い気がする。
「……っ、やば」
目を開ければまだ駅のホームで。微睡む意識から電車の音で現実へと引き戻され慌てて姿勢を正した。
彼はといえば「おー、急に目覚めた」なんてスマホ片手に笑っているが、私はよだれの心配や今の時間が気になってそれどころではない。どれくらい寝てしまったんだろう。っていうか、寄りかかってたりなんかしてないよね……。
「なんかよく寝てたから、終電前に起こせばいいかなーと思って。少しすっきりした?」
「や、なんかもう本当にごめん。寄りかかってたら申し訳ない……」
綾戸くんは真顔で自分の肩を指さし「うん。見て、よだれ」なんて言うものだから驚いて凝視した。……が、そんなものは見当たらなくて。改めて彼を見上げれば「うそ」と言って笑っていた。その揶揄いだって、こちらとしては冷や汗ものだ。久しぶりに会った同級生の服によだれつけたなんてことになったら最悪だよ。でも見たところ本当に嘘だったようで安心する。
「〜っ、やめてよ!」
「ごめんごめん。でもがっつり寄りかかってたわけじゃないから安心して」
がっつりではない……ということは少しは寄りかかってしまっていたのだろうか。あまり突っ込むと自分が恥ずかしさに耐えられなさそうだったので、申し訳ないけれどそれ以上聞くのをやめることにした。
「頭痛も少しはマシになった? 気のせいだったらいいんだけど」
「え、うん。さっきよりは……って、言ってたっけ」
「いや、エレベーター降りた後こめかみぐりぐりしてたから」
「なんか名探偵みたいだね」
「それ褒めてる?」
褒めているつもりだったので「もちろん」と伝えたが、彼はそう思わなかったのか少々不本意そうな顔をしている。本当に、ただよく人を観察しているんだなあと思っただけなのだけれど。
そうしていると私が乗る電車のアナウンスが流れて来た。そろそろだね、と立ち上がる綾戸くんに続いて私も腰を上げる。自分と同じように休みの前日の夜を満喫してきたであろう人たちの後ろに続いて並んだ。
「じゃあ俺は見送ったら帰るけど。家に着いたらちゃんと連絡入れといて。返せな……じゃない、返せるから」
「え、いいよ寝てたら全然返さなくても。生存報告でしょ」
「……うん、まあそんな感じ。起きてたら返すし、ここまで付き合わせちゃったから念のため」
「あはは、案外過保護」
「優しいだけですけど」
「自分で言ってる」
そんなことを話しているうちに、私が乗る電車が到着する。「じゃあ」と手を振って乗り込めば、綾戸くんは発車するまでそこで見守ってくれていた。
少し寝たおかげで酔いもいくらか醒めたからか、ふらつくことなく帰宅できた。
そういえば連絡入れといてって言われてたっけ。
別れ際の言葉を思い出しLIMEを開けば一番上には見慣れないアイコンがあって。タップして『ついたよ。今日はありがとね、面白かった』と一緒にゆるいスタンプを送ると、数分も経たないうちに返事がきた。
『無事帰れたようで安心したわ。俺も酔っぱらったとこ見て愉快だなーって思ってたよ』
『どこか失礼さを感じる』
『なにも悪い意図なんてないよ。いい時間だった』
それから少しのやり取りをして、おやすみと連絡を切り上げた。
……いい時間だった、か。そんなに長い時間でもなかったし、最初はちょっと緊張もしていたけれど。お酒で酔ったこともあってか、気が付けば私もいつも通り話せていた。
楽しかった気持ちをそのままにベッドへと横になってからふと思い出したのが、彼は思わせぶりな態度をとるというあの噂。数年越しの再会で彼と一対一で話をしたからか、妙に腑に落ちた気がして。私はそのまま眠りについた。
*
それから彼の言葉をきっかけに、お昼のカフェにお邪魔することが多くなった。
最初は綾戸くんのいる日を確認して顔を出していたが、一度ランチを食べてみるとおしゃれだし美味しいしで全部食べてみたいと料理目当てで行くようになっていった。……とはいえ、行くのは一週間か二週間に一度くらいの頻度なのだけれど。
綾戸くんがいる日でも彼は仕事中のため私からは話しかけないようにしていて。話したとしても交わすのはほんの一言二言程度だから、それ以上の特別なやり取りは何もない。
仕事でミスして落ち込んだから来たとか、最近あった良いこととか、そんな日常の些細なことを話すだけ。……でもまたそれが私にとってはちょっとした楽しみでもあった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、制服姿初めて見たかも〜。ちょい久しぶりやね」
「今週から新メニュー出ると綾戸くんから聞いたので来ちゃいました」
「せやね、ぜひ食べてってなぁ」
今日は仕事で外出の予定があったため、その帰りに少し遅めのランチでお邪魔した。一緒に来た職場の後輩くんはここが初めてなようで「彼女も好きそうだな」なんて呟きながら静かに視線を巡らせている。
席に案内してもらい、いつものように注文をお願いすると樋宮さんは「少々お待ちください」とキッチンへと入っていった。
「お疲れ、今日の仕事の九割は終わったね」
『もー話長引いたからお腹鳴りそうでしたよ。……ってか、ここめっちゃいい感じの雰囲気ですね』
「わかる、しかも雰囲気だけじゃなくご飯も美味しいから楽しみにしてて」
『先輩お店の回し者ですか?』
「あはは、そうかも」
仕事の話をたまに交えつつ雑談をしていると「お待たせしました」とお皿がテーブルに置かれた。樋宮さんではないその声に顔を上げれば、綾戸くんが立っていて。新メニューを教えてくれたお礼を直接伝えることができると、思わず頬が緩んだ。
「早速来てくれたんだ」
「うん、新メニューのこと教えてくれてありがとう」
「どういたしまして。今回のは特に好きそうだなと思ったから」
「もう見た目から好き」
「キッチンの人に伝えとくよ。お連れの方も、ごゆっくりどうぞ」
『ども』
綾戸くんが離れたあと、いただきますと新メニューのパスタに舌鼓を打った。美味しいランチのおかげでもう半日分の英気を養うことができ、軽やかな足取りで職場へ戻ることができた。
*
「……この後?」
「そ、ランチの後なにか予定あるかなって」
あれからまた何度目かのカフェに来た。今日はおひとり様で、ピークを過ぎ丁度落ち着いた時間。本を読みながら日替わりランチをを頬張ってたところにセットのデザートを持ってきてくれたのは彼だった。
制服姿のままこそっと小さい声でこの後の予定を尋ねられ、珍しいその問いかけに一瞬固まる。
「えっと、特に何もないから本屋とかゲーセンふらっと寄って帰るだけだけど」
「じゃあそれ、俺も一緒に行っていい?」
「綾戸くんも一緒に?」
「そ、俺も一緒に」
「大丈夫だけど、映画とかは今日予定してなくて」
「いーよ、夕方から別件で仕事入ってるからそれまで。もう少しで上がりだから食べ終わったらそのまま待っててくれる?」
「そうなんだ。それなら時間的に丁度いいかもね、わかった」
「ありがと。じゃ、またあとで」
手短に話して綾戸くんはカウンターの方へと戻っていった。
わかった、とは言ったものの内心は少し、いや結構動揺していた。短い時間とはいえ綾戸くんと一緒にどこかへ行くだなんて、あの酔っぱらった日以来だから緊張するかも。
その後は小説の文字を目で追っても頭には入ってこなくて。外の景色を眺めながらランチを平らげた。
先に会計を済ませ、食後のカフェラテを飲みながら待っていると「お待たせ」なんて声をかけられる。スマホを伏せて見上げれば、仕事着から私服へと着替えた綾戸くんが迎えに来てくれて。近づいた彼からふわりと香るシトラスに、なんだか少しドキリとした。
「お会計済ませてるからすぐ出られるよ」
「いつも来てくれてるお礼にって、たまにはかっこつけさせてくれてもよくない?」
「あはは。今日は流石にないかなと思ったけど、バーの時の一件があったからね。先に済ませててよかった」
スマホと本を鞄にしまい席を立つ。カウンターのところで「お疲れー」と店員さんに声をかける彼に続き「ごちそうさまでした」と伝えて後を追った。
カフェを後にしエレベーターで下まで降りれば、当たり前だけど外は明るい。前に会ったのは夜中だったからか、今この時間綾戸くんの隣を歩いているのはなんだか少し新鮮に感じる。
暗いところで見る彼と、明るいところで見る彼は同じはずなのに少し違って。堂々と隣を歩くのもなんとなく憚られ、話しながらも一歩斜め後ろを歩いていた。
「……と、ごめん。歩くの速かった?」
「え、ううん大丈夫」
逆に気を遣わせてしまったかもと思いおずおずと彼の横に並べば「合わせられてるつもりだったけど、速かったら遠慮なく言って」と口にした。こんな風に言ってくれる彼氏今までにいたかな、いやいなかったわ。
前に一度飲んだ日に身をもって感じたことだけれど、彼は言葉にしていない些細なことも当たり前のように拾ってくれる。そしてその親切さには一切重みが感じられず、押し付けがましくない。……綾戸くんって結構すごい人なのでは。
「で、これから行くのは本屋さん?」
「うん。すぐ近くにあるんだけど、ちょっとほしい本があって」
「へえ、普段どんなの読むの」
「海外の著者の本とか、ミステリーとか、たまにファンタジーも」
「いいね。今度おすすめ教えてよ」
「私が持ってるのでよければ」
さり気なく本を貸す約束をしてしまった。……まあ、社交辞令かもしれないけれど。なんて、最近読んだ本の話をしながら歩いているとあっという間についてしまった。
目当てのものは決まっていたが、やはりディスプレイされているものがあるとどうしても気になってしまう。「俺も気になる本あるから、ゆっくりでいいよ」という言葉に甘え、ふらふらと歩いて手に取っては眺めを繰り返し、もう一冊追加で購入した。
綾戸くんは自分の気になる本を眺めていたり、時たま本を手に取る私のところに来てみたり、付かず離れずの距離感でいてくれて。気を遣うこともなく、それが妙に心地よかった。
「えっと、綾戸くんはどこか寄りたい場所とかある?」
「今は特に思い浮かばないかも」
「私の行きたい場所だけだとつまんないかなって」
「全然。最初はさ、俺のバーに来てくれたじゃん。だから次はきみが普段何気なく行くところを知りたいなと思って。それに俺、結構ゲームは好きだし」
「……綾戸くんさ、人たらしって言われるでしょ」
「なに急に。どうかな、優しいとは言われるけど」
「また自分で言った」
綾戸くんは優しいと言われたいのかなと、思わず笑ってしまった。まあ確かに優しさの最上級ではあるけれど。
もしこれを学生の頃からしていたのだとすれば、思わせぶりな人だと噂されていたのも納得できる。幼くはない今の私でも、それを好意だと錯覚してしまうところだったから。
……そんな風に自分へ言い聞かせる胸の奥で、無意識に膨らんだ淡い期待が理性と感情の狭間でちくりと小さな音を立てた。
…
「ちょ、待っ……ねえー、上手すぎない?」
「いーや、たまたまだよ」
結局綾戸くんの寄りたいところははぐらかされたため、本屋を出たその足で当初の予定通りゲーセンに来た。休みだからか子供から大人まで幅広い世代が楽しんでいて、この賑やかさが遊び心をくすぐる。
「色々見てもいい?」と歩きながら、ふと目に入ったのは有名なレースゲームで。お金を入れ二人でアクセルを踏み込んだ。……ものの、見事に私は敗北。たまたまとか言いながらも、コース外に落ちたりしている私とは違い鮮やかな運転捌きだった。
「次は負けない」
「へえ、次があると思っていいんだ。期待してます」
「……悔しい」
私が何気なく口にした「次」という約束にもならない言葉に、まさかそう返してくれるとは思ってもみなくてほんの少し動揺してしまった。
……彼にとって深い意味はないのだろうけれど。
「まあまあ。ほら見て、好きなんじゃないっけあのキャラクター」
「え、あ、ほんとだ!」
話題を逸らすように反対側をさした彼の指先に、まんまと視線を誘導される。その先にはいつか話をした私の好きなマスコットキャラの大きなぬいぐるみがたたずんでいた。
目当てのクレーンゲームには人がいなかったため、すぐに駆け寄ったが取れる気がしない。ラッキーな日だと数百円でとれるけど、今日はどうだろうか。
……千円だけ。そう決めてチャレンジした。
「んー……ダメだぁ!」
「結構おしかったね」
「いいとこまでいくのにね、ずるい。抱き枕にしたかったけど際限なくなっちゃうから諦める」
「じゃあこのキャラで取れそうなのあるか、他を探してみようか」
「うん、でもその前にちょっとお手洗い行ってくるね」
「はあい、ゆっくりで大丈夫だから。ここら辺で待ってます」
「ありがとう」
……とは思ったものの、ゲームセンター自体が広いからお手洗いも端までいかないとなさそうだ。ゆっくりとは言ってくれたけど、あまり待たせるのも申し訳なくてできるだけ急いで往復した。
戻るときに少し迷ってしまったが、先ほどの場所で待ってくれている綾戸くんの後ろ姿が見えてほっとする。
「ごめんお待たせ」
そう声をかければ、彼は小さく肩を揺らして振り向いた。
「まさかの反対方向」
「ちょっと迷っちゃ……って、え!」
綾戸くんの両腕に優しく抱えられていたそれは、先ほど私が取れなかったぬいぐるみで。思わず声が出てしまった。
「あはは、驚きすぎじゃない? はい、どーぞ」
「いや、取れたのがすごすぎて。この子もらってもいいの?」
「戻って来るまで取れたらラッキー、くらいな感じでやってたら取れたから」
「めっちゃ嬉しい……」
彼から渡されたぬいぐるみを抱きしめると、シトラスのような香りが鼻腔をくすぐって。それが綾戸くんの移り香だと気づいた瞬間、胸の奥がじわりと熱をもつ。
鼓動が速く動けど不自然に離すこともできず、恥ずかしさを隠すように少しの間ぬいぐるみに顔を埋めた。
「……あー楽しかった、付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ、付き合わせてくれてありがと。飲んだ時とはずいぶん違う顔も見れて楽しかったです」
「え、どこが。いつも通りだけど」
「酔っぱらってる時とはまた違う感じの愉快さかな」
そう言って綾戸くんは笑うけれど、こちらとしては観察されているようで恥ずかしい。「比べなくていいから!」と口にすれば、彼は悪びれる様子もなく「ごめんごめん」と言葉を並べた。
ふと前に視線を戻せば、いつの間にか見慣れた駅のロータリーが広がっていて。無意識に緩めていた歩幅を、改札へと続く流れに逆らうようにぴたりと止めた。もう綾戸くんの隣を歩く理由がなくなってしまうその事実に、わずかな寂しさを覚える。
彼女でもないただの友達なのに。……でも今明確にその境界線をじれったく思っている自分がいることに気がついた。
彼は私が立ち止まったと同時に正面へと回り込み、顔を覗き込むように身をかがめる。
「名残惜しくなった?」
「まあ楽しかったから、そうかも」
「はは、素直」
「……今なにか言いたいことあったんだけど、忘れちゃった」
「なら思い出したら教えてよ、LIMEでもカフェでもいいから」
「ん」
不自然だっただろうか。別に、はっきり言いたいことがあったわけではない。
ただこの時間がもう少し続いてほしいと、足を止めた言い訳がそれしか思い浮かばなかっただけだ。
けれどそんなささやかな抵抗もむなしく、彼はあっさりと「じゃあまた今度」と手を振った。今の私はそれを引き留めるような関係性でもなければ理由もなくて。……それがひどくもどかしい。
いつもの私をなぞるように「じゃあね」と口にして、人が入り乱れる改札口へと向かった。けれどその瞬間「あっ」という声が聞こえて反射的に振り向いた。
「着いたら連絡入れといて。仕事終わったらちゃんと返すから」
「まだ明るいから平気だよ、酔っぱらってもないし」
「なーんもないとこで転ぶ可能性はある」
「こ、子供じゃないんだから……。でもうん、わかった」
「じゃ、気を付けて帰れよー」
「はーい、ありがとね。綾戸くんも頑張って」
改めて彼に背を向け、人混みへと紛れながら帰路へつく。
もらったぬいぐるみを両腕で抱きしめ、連絡する理由ができた嬉しさをこっそり噛みしめた。
*
ここのところ予定が立て込んでいて、三週間振りくらいになるかもしれない。
久しぶりのAporiaにそわそわしながらも、客足が落ち着いた頃を見計らって家を出た。今日は残念ながら友達の予定が合わなくて。本をお供に何を食べようかなと浮かれた足取りで歩いていたところ、見覚えのある人が視界の端に滑り込んできた。
「そう、だよね」
気のせいかと思い視線を移したその先にいたのは間違いなく綾戸くんだった。
そしてその隣には、私の知らない女性が一緒に歩いていて。手こそ繋いではいなかったが誰が見ても恋人の距離感にしか見えない雰囲気がそこにはあった。
それを理解した瞬間、突然のことに心臓が掴まれたように息苦しくなって、呼吸が浅くなる。……こんな風に覗き見みたいなこと、だめだってわかっているのに。足が鉛のように重く地面へと貼りついて、彼らから目を離せずにいた。
ようやく自分の気持ちに気が付いたばかりだというのに。……あの頃、綾戸くんのことで泣いていた女の子たちの痛みを今更思い知らされるだなんて、想像もしていなかった。
雑踏の中へと紛れる二人の背中が完全に見えなくなってからは、どうやって足を動かしたのか覚えていない。顔をあげればもとより来る予定だったAporiaの前に立っていた。
つい癖で足がここへ向いてしまったが、今日は帰ろうかな。そう思った瞬間にドアが開いて「いらっしゃいませ〜」と樋宮さんが顔を出した。
「ちょうどいるなー思うて」
「あ、今忙しくないですか?」
「さっき落ち着いたとこー、あの窓際の席空いとるからゆっくりしてって」
「ありがとうございます」
明るく迎えてくれた樋宮さんを見たらなんとなく食べていこうかなという気になって。いつも通りカフェへと足を踏み入れ、先ほど案内してくれた窓際の席へと腰をおろした。
「ごめんなぁ、今日恋くんおらんねん」
「アッ、はい。来る途中それっぽい人見かけたんで、そうかなって」
「そうなんや〜、俺で良かったら呼んでな」
注文を聞いた樋宮さんはちらりと時計を見て、そう一言残しカウンターへと向かった。
間もなくしてランチセットを運んでくれ、食後を見計らいデザートの小さなパフェまで手際よく持ってきてくれた。よく見るとパフェに乗っているアイスにチョコで猫の顔が描かれている。
「ねこ、かわいい……」
「今日はゆらがご機嫌さんやから描いてくれたんよ」
それを聞きカウンターの方へ視線を向けると、こちらを見て環野さんが小さく笑っていて。ありがとうの意味を込めて小さくお辞儀をして手を振った。可愛いくて食べるのがもったいなく思えてしまう。
始めは樋宮さんだけだったものの、長く通ううちに宇京さんや環野さんともこうしたささやかなやり取りを交わすようになった。綾戸くんと話していたことから、少しずつ顔見知りとして認識してもらえたのかもしれない。
「溶けないうちに食べてな」と言われ、慌てて一枚写真を撮ってからアイスを口に含むと優しい甘さが広がる。
……一度は帰ろうと思ったが、樋宮さんに声をかけてもらってよかった。こうしてランチを食べ、ほんの少しだけ今日の記憶を嬉しさで上書きできたから。
*
『久しぶり。最近見かけないけど忙しい?』
スマホゲームをしている時に通知が入り、流れでタップしてしまったメッセージ。まさか来るとは思っていなかった綾戸くんからのものだったため動揺した。
どうしよう、既読つけちゃった。これが友達だったらこんなに焦らなくて済んだのに。
綾戸くんがいる日に行くのがどうしても気まずくて、カフェから足が遠のいて一ヵ月が経ってしまった。
別に告白したわけでも直接振られたわけでもないのに、勝手に一人で失恋してショック受けてバカみたいなんだけど。綾戸くんはきっと会ったらすぐに見抜いてしまうだろうから、気づかれたくなくてランチも我慢していた。
……でもこれ以上行かないのも逆に怪しいかな。まだちゃんと気持ちの整理もついていないけれど、切り替えるためには顔を見ることも必要かもしれない。
そう思い『今まで忙しかったけど落ち着いたよ!』と、いつも通りの自分を装い連絡を返した。
『そっか、元気そうで安心したわ』
『連絡くれたってことは限定メニューでもでた?』
『まあそんなとこ。昨日期間限定のデザート出たよ、チョコレートのやつ』
『それは嬉しい。来週行こうかな!』
『っていうのは建前で、そろそろ顔見せてくれたら嬉しいんだけど』
通知を見て、既読にしようとした指をぴたりと止める。
……多分これも期待させようとしているわけではなく、無自覚な人たらしなのだろう。
綾戸くんの言葉を受け取る度、頭をよぎるのは学生時代の噂だった。きっと彼は昔から相手のこうしてほしいを汲み取ることができて、合わせることも容易にできる人なのだろう。だからその言葉も友達としてであって、それ以上の意味なんてない。……そう自分に言い聞かせるけれど、それでも嬉しく感じる気持ちを消すことはできなかった。
『私もそろそろみんなの顔見たいな! 来週の木曜日に行くね』
『はあい、楽しみにしてる』
彼の言葉を真っすぐに受けず、みんなの顔が見たいと誤魔化すように返信した。
……またそうやって楽しみとか言うんだ、ずるいなぁ。
当日、整理のついていない自分の気持ちがバレませんように。そう祈りながらもらったぬいぐるみをひと撫でした。
*
久しぶりのランチは宇京さんが声をかけてくれ、期間限定のデザートまで案内してもらった。食事を運んできてくれた綾戸くんとも、特に緊張することなくいつも通りスムーズに話すことができて。
なにより本を読みながら落ち着いて美味しい食事ができるこの雰囲気に気持ちが和んだ。
「恋から忙しいって聞いてたけど、元気そうだね」
「やっと落ち着いて、今日は振休とれたのでのんびりします」
「そっか、それならよかった。あとこれ、ココアに浮かべてみて」
「え、アッ、いいんですか? ありがとうございます」
「ごゆっくり」
食後のココアを持ってきてくれた宇京さんは、ソーサーに猫の形をしたマシュマロを添えてくれていた。ココアにそれを浮かべ写真を一枚撮り、溶けるのを待ちながらまた小説の文字をなぞった。
「……もうこんな時間か」
なくなったカップの中身を見て時間の経過に気が付いた。そろそろ帰ろうと本を鞄にしまっているとテーブルに影が落ちる。その先を見上げれば、私服姿の綾戸くんがこの間のように立っていて。目が合うと彼は正面の空いてる椅子に腰をおろし、頬杖をついた。
「ね、これから予定ある?」
「特になにも」
「じゃあさ、少し時間くれたりする? 長くはとらせないから」
「……大丈夫だよ」
「ありがと」
突然のことだったため、つい何もないだなんて正直に答えてしまった自分が恨めしい。言ってしまったからには撤回もできず、綾戸くんの誘いを了承して一緒にお店をでた。
…
「ここ、座ろっか」
他愛のない話をしながら綾戸くんが足を運んだのは広い公園の一角にあるベンチだった。
子供から年配の人まで散歩したり、走り回ったりしている。二人ではない、他の誰かの声が聞こえることに少しほっとしながらそこへと座った。
何を告げられるのか全く見当もつかなくて、先ほどの会話も全然頭に残らないほど気持ちに余裕がない。
「……緊張してる?」
「エッ」
「なにか構えるような話じゃないから。力抜きな、手痛いでしょ」
そう言われ、無意識に力が入っていたことに気がつき指先の力を解いた。
綾戸くんの考えていることはわからないのに、私の考えていることは見透かされているようで気が気でない。
ちらりと様子を窺えば、こちらを見ている彼と意図せず視線が重なる。思わず顔を逸らしそうになったが、その前に綾戸くんが口を開いた。
「……なんて、どちらかと言えば余裕ないのは俺の方かもだけど」
彼はそう言葉を漏らしたが、本当に? と、首をかしげてしまいそうになる。むしろ緊張とは無縁に見えたから。
「なんかまた失礼なこと考えてない?」
「いやいや、そんなことないよ。綾戸くんでも緊張とかするんだなと思って」
「えー、俺をなんだと思ってるの」
心外だ、とでも言うように頭を横に振って見せる。しかしその仕草からも緊張は窺えない。
綾戸くんは一度正面を向いてから、改めて私へと視線を向け口を開いた。
「……ちょうど一ヵ月くらい前、俺のこと見かけたと思うんだけど」
どきりとした。もしかしてあの時、立ち止まり固まっていたところを見られていたのだろうか。二人の背中が見えなくなるまで見ていたところも。
何か言わないと。そう思えば思うほど、焦りから言葉が出てこない。
「一応ちゃんと弁明しておこうと思って」
綾戸くんの口から出た言葉に思わず「え?」と声が漏れた。
あの日故意に覗いていたわけではないけれど。結果的にそうなってしまったのでプライベートだと注意される、もしくは彼女がいるからと宣言されるものだと思っていたから。弁明という言葉に一体なんのこと、という疑問しか浮かばなかった。
「あれ、彼女だけど彼女じゃないんだよね。レンタル彼氏って聞いたことある?」
「聞いたことはあるけど」
「つまりはそれ、俺のもう一つの仕事。彼氏に限らず友達や兄弟なんかもあって、うちでは代行って呼ばれてる。至って健全」
「……っていうか、仕事なのにそれ話してもいいこと?」
「まあ掘り下げてーとかは無理だけど、一部顧客に向けてそういう仕事も請け負ってること隠してるわけじゃないから。そこは大丈夫」
「そっか」
なるほど、と腑に落ちる思いがした。
今までの程よい距離感や配慮に満ちた言い回しは、仕事関係なく天性のものかもしれない。ただ、レンタル彼氏のような仕事をしているのであれば、彼女でもない私にまで優しく接してくれた数々の振る舞いに説明がつくような気がした。
……それと同時に胸の奥が痛むのは、あの優しさは誰にでも向けられるものだと改めて思い知らされたからかもしれない。
この話がしたかったのであれば、もう用は済んだはずだ。何か話を切り上げるための理由を探したが、突きつけられた事実に思考が妨げられる。
「で、これからが本題。先に伝えるけど、俺は多分きみが好き」
「…………え?」
一瞬……ううん、数秒だろうか。彼の口から飛び出した言葉を飲み込むことができなくて、溜めて出てきたのはたったの一文字だった。
いやでも彼のことだ、その好きも恋愛ではなく友達としての可能性もまだ拭いきれない。もし早とちりして勘違いをしたら、それこそもう立ち直れなくなる。
全て顔に出ていたのか、綾戸くんは「難しいこと考えてない?」と私の顔を覗き込んだ。その距離の近さに驚いて思わず身を引いた。
「一応補足しておくと、彼女になってほしいっていう方の好き、なんだけど」
綾戸くんは私の考えを読むかのようにそうつけ加えた。ストレートに向けられた言葉に身体の芯が熱をもつ。
それでも何故私なのかという疑問の方が大きくて、動揺から返す言葉が見つけられずにいた。
「思ったことそのまんま表情に出るじゃん。急に言われてもって顔してる」
「……うん。まあ、そうだけど」
「じゃあさ、返事はひとまず置いといて。俺の気持ち聞いてどう思ってる? 困るとか、嬉しいとか。どうかな」
「それはその……嬉しいです、」
「そっか」
自分で言っておきながら、その言葉を口にしたと同時にじわり頬が熱くなる。
それを聞いた彼は、少し目を逸らして「よかった」と小さく笑みを浮かべた。
……いつも涼し気な顔をしている綾戸くんでもそんな顔をするんだ。なんだか彼の素顔を盗み見てしまったような気がして、こそばゆい感情が胸に広がっていく。
少しの沈黙のあとに、綾戸くんはまた視線を合わせ「……なんで俺がそう思ったかって話、聞く?」と私の表情を伺いながらそう口にした。
「綾戸くんの気持ちを素直に受け取れるくらいの自信がないから。もしよければ、教えてほしいかも」
「自信もってよ、っていうと話逸れちゃうか。……俺の学生の頃のうわさ、それとなく聞いたことある?」
「……うん、まあ少し」
「上手く言えないけど、俺は今も昔も好きの境界線が結構曖昧なんだよね。嫌いじゃなきゃ好き、みたいな。恋愛とそうじゃない好意も含めて」
正直、それを聞いて「なるほど」とは素直に思えなかった。恋愛の好きと人として好きはやはり自分の中では違うものだから。
ただ彼の考えがそうなのだとしたら、私に対する「彼女になってほしいっていう方の好き」も、やっぱりどこか曖昧なものに思えてしまう。
……なんか難しい話になるのかな、これ。
「っていう前提で。学生のとき、友達だと思ってた子から結構恋愛的な意味で好意を寄せられることが多かったんだけど」
「人気だったよね、結構泣いてる子もいたけど」
「それは言わない約束」
「ご、ごめん」
「……だからこそあの日、きみと久しぶりに会ってそういう好意なしに話せたのが楽しかったんだよね。あーもっかい話したいかもって思うほどには」
彼はこちらが照れてしまうような言葉をさらりと口にする。
嬉しいはずなのに同時に不安が過るのは、綾戸くんからもらった優しさや淡い期待が誰にでも向けられるものだと知ってしまったからかもしれない。
「その後も付かず離れずの距離感が心地よくて、このまま友達としてって思ってたんだけど。でも、途中でなんか違うかもっても思ったんだよね」
「違う?」
「……俺がシフトに入ってない時もカフェに来てくれてるでしょ」
「うん、自分へのご褒美みたいなものだからね」
「そうやって俺不在の日は、明星とか揺が来たよって軽く教えてくれるわけ。そりゃあもう楽しそうに」
彼は小さく息を吐いて、きまりが悪そうに首筋に手を当てる。次の言葉を口にする前に何故かすっと視線を逸らした。
「……多分友達ならよかったねってなるんだろうけど。正直ちょいずるいな、とか思ったりして」
「ずる……、」
「ようやく自覚したかと思えばこの様でね。その後明星伝いで彼氏代行を目撃されたことを知るわ、きみが来なくなるわで。流石に焦ったかも」
「や、待って、樋宮さ……えっ」
「だから、今日はちゃんと伝えようと思ったんだよね」
「きみが好きだってこと」と、彼は目元を緩ませ柔らかい声で零した。
頭の中の情報を整理しその意味を理解した瞬間、ぐっと体温が上がるのがわかる。外は肌寒いというのに、頬が熱くなるのを止めることができない。
彼の気持ちにちゃんと触れたことと、勝手に勘違いしていたことも含め、なんだかいたたまれなくなってしまった。小さく俯いて手のひらで顔を隠し「ごめん」と伝えれば、綾戸くんは「えっ」と驚いたような声をあげる。
「ちょっと今、恥ずかしいから見ないで……」
「びっくりした。てっきり振られたのかと」
「それは違……っ」
「違うんだ、安心したわ」
綾戸くんは私の手首を掴んで下へとおろし顔を覗き込む。「隠さなくてもいいんじゃない?」なんて言葉を添えるものだから、ますます熱が引かなくて。ほんの少しの抵抗を見せようと彼の肩を押し返したが、そんな私をからかうように笑っていた。
「ねえ、このまま改めて答え聞かせてくれる?」
「い……言わなきゃだめ?」
「きみの口から聞かせてほしいなって」
最初は「余裕ない」だなんて言っていたのに、どう見ても私の方が振り回されている気がするのは気のせいだろうか。
勝手に失恋したと思い込んでいたから、急なこの展開に視線の置き所さえ見つからない。消え入りそうな声で「綾戸くんが好きです」と伝えれば、顔を綻ばせて小さく笑みを零した。
「じゃあ晴れて恋人同士ってことで」
「……っはい」
「少し、近づいてい?」
私が控えめに頷くや否や、綾戸くんの指が手に絡んで視界の殆どが彼で埋め尽くす。
息遣いひとつでさえもわかってしまいそうなこの距離に私の心臓は耐えられるだろうか。
「嫌だと思ったらしないから、そのときは言って」
「やじゃない……けど、恥ずかしくて気絶しそう」
「もう? この先何回だってするから、慣れてもらわないと」
言い終わると同時に、おでこへ柔らかいものが軽く触れた。
驚いて彼を見上げれば「思ってたのと違った?」なんて意地悪く笑っていて。図星だった私は言い返す言葉が何も見つからず「もう!」と精一杯の反撃を口にして、顔を隠すように彼の肩へと埋めた。
「ごめん、ちょい意地悪した。でもほら今はさ、結構人いるし」
「っ、言ってよ!」
「ははっ、そういうとこも俺は好きだけど」
「……綾戸くんはもう少し優しくなった方がいいよ」
「えー? 十分優しいと思います」
彼は涼しい顔で言うと、またするりと指を絡ませる。そうして手を引かれるままに立ち上がったと同時に、彼の懐へと閉じ込められた。
背中に回された腕が、ぽんぽんと子供をあやすかのように手のひらを遊ばせる。「これくらいは許されるでしょ」と耳を掠める吐息に、思考が甘く痺れた。さっきから翻弄されてばかりでなんだか悔しい。
「……綾戸くん」
「え、」
腕の中で背伸びをして、それでも届かないから彼の頬に手を添えて自分の方へと引き寄せて。ほんの一瞬、彼の頬へとリップ音をたてると目をまんまるくしていた。してやったり。
「お返し」
「それは反則じゃない? って、仕掛けた自分も真っ赤だし」
頬に手を当て、ほんのり赤に染まっている綾戸くんを見て少し満足した。「綾戸くんだって赤いじゃん」と言えば「……はあい、じゃあおあいこってことで」と少し瞼を落としはぐらかされた。
綾戸くんでもこんな可愛い顔をするんだと、新たな側面を見ることができて素直に嬉しい。そんなことを考えながら口角を緩ませていると「ね、」と彼が口にした。
「夜のシフトまで時間あるし、もし時間があればぶらっとしない?」
「うん、行きたい!」
私の前にすっと差し出された彼の手に自分の手を重ねた。それを当たり前にしてもいい関係に、たった今なったのだとじわじわと内側から嬉しさがにじんでくる。
その幸せを噛みしめるように、隣を歩く彼の横顔をこっそりと見つめた。