「――はっ、はっ、」
喉が焼ききれそうに熱い。足も限界、心臓も悲鳴を上げている。
でも一秒でも止まったら。
「い゛っ、」
『つーかまえた』
「……っ、――っ、」
髪を掴まれそのまま地面に打ち付けられ全身に痛みが走る。それと同時に上半身が灼ける様に熱い。声が出ない、冷たい、熱い、息が、できない。
『そうそう、すぐに九番目も一緒にな』
――きっと、あの人のことだ。
意識を失う最期、視界に映ったのは。
約束したあの人の姿ではなく、ごくたまに護衛として来ていたその人の歪んだ笑顔だった。
*
「今日は僕が護衛させていただきますね」
「……どうも」
初めて会ったのはちょうど一年前の今頃。友達と行く旅行に護衛だなんて体のいい名目であてがわれた。私からしてみれば監視の方が言葉としてはしっくりくるのだけれど。
「今回は姿を見せないようにしますので。気にしないで……というのは難しいと思いますが」
事情を知ってか知らずか、優しく笑う彼は元々の性格なのだろうか。組織だとか裏社会だなんて言葉が全く似合わない、そんな人だった。
その言葉の通り、最初に顔を合わせただけで旅行が終わるその時まで姿を見せることはなくて。次に顔を合わせたのは友達と解散してからの護衛が終わる時だった。さらりと挨拶を交わしたのみで、それ以上話すこともなくそのまま別れた。
それから誰かと遠出をする時、一人で出歩くなんて時は、相手の家が雇っているという護衛もとい監視が度々つけられることになった。ほとんどが最初に来てくれたその人だったけれど、たまに別の人が護衛についていて。その中でもごくたまに来る中性的な顔立ちの人は、話し方は軽いのにぞっとするほどの圧があった。
*
今回は出張で北の方にある会社へ訪問することになり、例にもれず護衛をつけられることになった。ラッキーなことに、いつもの優しい護衛さんで。柄にもなく胸が弾んだ。……喜んだらきっとこの人は護衛から外される、だから雇い主もとい婚約者の前では絶対顔には出さないけれど。
移動している車の中で、運転席の彼にバックミラー越しに話しかけた。
「……はーやんなるよね。会社の出張ですら一人で行かせてもらえない」
「一人で出かけたい?」
「それはそう。でも私もあなたもGPSもあるし、行動はどうせ筒抜けでしょ」
溜め息をついて口をへの字にする私をちらりと見て、彼は酷く穏やかな笑みを返した。
「望むなら、少しの間であればなんとかできるけど?」
「……冗談でしょ。バレたとき怖いから、いいや」
「ふふ、それもそうだね」
そう言っていつも通り話を切り上げられたが、その声音には不思議となんとかなるかもと思わせてくれる心強さがあった。
初めて護衛をつけられてから半年をかけ、少しずつ、本当に少しずつ言っても大丈夫なラインを探って。一年が経つ今、この優しい護衛さんには心を許すようになっていた。こんな愚痴を零せるくらいには。
だけどもう一人の中性的な護衛さんには――絶対にこんなことは言えない。話したこと全てが雇い主に伝わってしまっていたから。まあ、実験で口にしたのはどうでもいいことばかりではあったけれど。
夜の仕事終わり、ご飯を食べてあとはホテルに行って寝るだけ……だったはずなのに。彼は通常の道から少し迂回したところを走っていた。
「もしかして、海に寄ってくれるの?」
「さっき見たいって言ってたから」
「やった、嬉しい。でもいいのかな」
「十五分程度なら、聞かれたとしても渋滞に巻き込まれたことにもできるからね。もちろん秘密で」
大したことではないというように涼しい顔でそう口にする彼に甘え、月明かりだけの砂浜にたった二人で足を踏み入れた。まだ夜は肌寒い時期なのもあり、人通りはまるでなく静かな波の音だけが空気に馴染んでいる。
束の間ではあるけれど、久しぶりに婚約者の目を気にすることなく自由に大きく息を吸い込んだ。潮の香りは夏みたいにべたついていなくて、さらりと肌を撫でていく。
「……きれい」
何かに引っ張られるかのように、ヒールが砂に沈むのも気にせず波打ち際に向かって歩いた。
このまま海に攫われてしまったらどんなに気持ちがいいのだろう。楽になるのだろう。そんな思考がよぎるも、もう一人の私が嘲笑った。だってそうなったら、護衛を果たせなかった彼もきっとただでは済まないだろうから。
仮初めの自由でしか息継ぎのできない、この生活が死ぬまで続くなんて――。
そう思った瞬間、すぐ後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「着替え、持ってくればよかったね」
暗い沼へ引きずり込まれそうになったその時、隣に並んだ彼がそう口にして笑った。「……いいよ、入るつもりはないし」と伝えれば、私の考えが見透かされているかのように彼は目を細めすぐに話題を変える。
「そういえば、写真は撮らなくていいの?」
「あ、」
そう言われ反射的にポケットに入っているスマホへと手を伸ばすも、何も取り出さずに後ろで手を結んだ。
「だって今は渋滞に巻き込まれてるんでしょ」
「……ふっ。そっか、そうだね」
「うん、だから、いらないよ」
認めたくもない婚約者も、この檻の中にいるような生活も。……この半年で密やかに満ちていった彼への気持ちもそうだ。どうせ叶う望みがないのなら、全てこの夜の海に飲み込まれてしまったらいいのに。
――そんな私の暗い願いを知る由もなく、彼はただ静かに同じ海を見つめていた。
・
・
・
「こっちはもう寝るだけだよ、ホテルの写真送るね、そっちはもう寝てるかな……と」
会社指定のホテルに着いて、支度を整えてから婚約者に写真を一枚送った。
GPSでどこにいるかも全部把握しているくせに、定期的に写真を送らないと機嫌を損ねるから面倒くさい。ただ今よりもさらに自由が少なくなるのは避けたいから、こうして思ってもいない一言をつけて写真を送っている。
「じゃあ、いつも通り僕は近くにいるから。また明日の朝」
婚約者に連絡したのを見届けた彼はすぐに部屋を出ようとしたが「……待って」と、背中のシャツを掴んだ。
あの真っ暗な海を見てから、どうにも気持ちが落ち着かない。束の間の自由を得たからなのかはわからないけれど。迫りくるタイムリミットと拘束されているこの時間に押し潰されてしまいそうな漠然とした不安が心を覆っていた。とっくに諦めはついていると思っていたのに。
「どうしたの?」
「えっと……なんだろ、ごめん。もう少しいてほしい、かも」
「……ん、大丈夫だよ」
私はどんな顔をしていたのか。ドアを閉めて、私の肩へと手を置いた彼は何かを察したように表情を和らげた。
私をベッドに座らせ「ちょっとだけ待ってて」と、そう言い残して一度部屋を出て行く。間もなく戻って来た彼はふたつの缶を持っていて。プルタブを起こす静かな金属音が響き、私の手へと握らされたそれは温かい飲み物だった。
ひとくち含むとじわりと体の中へと染み渡る。少しだけ、息ができた気がした。
「どう、落ち着いた?」
「……うん、ありがとう」
彼は椅子に腰かけ、私を急かすわけでもなければ話を促すわけでもなく。こちらの呼吸が整うのを見守るように待ってくれていた。
「ごめんね、なんか。……急にしんどくなっちゃって」
「そっか。でもね、きみが謝ることなんてないんだよ」
「……優しいね」
そう口にすれば、彼は肯定も否定もせずに眉尻を下げた。
困ったような、照れたような、それでいて自身を否定しているような。その表情から私の言葉をどう受け取ったのかはわからなくて、缶の縁を指でなぞった。
「――さっき、ありがとね」
「ん?」
「海でさ、名前呼んでくれたじゃん。あのとき、このまま海に飲み込まれてもいいなって……思ってた」
束の間ではあったけれど、地元から離れた出張先であの暗い海に自由を感じたせいなのか。ずっと張り詰めていた糸が、そこでぷつりと切れてしまったのかもしれない。
「……護衛さんならもう知ってると思うけど、私には時間がなくてさ」
お父さんが資金繰りに困り、よくないところで借金をしてしまった。担保代わりに相手の息子の婚約者にと指定されて、そこに私の意志なんてなかったの。この時代、そんなことがまかり通ってしまうことに驚いたけど。
……でもそれ以上に怖かったのは、警察も弁護士もあの家の名前を出した瞬間、手のひらを返されたこと。みんな言葉を濁し、私の声を聴き流すだけで――。
堰を切ったように、一度口に出したら止まらなかった。気丈に振舞っていたつもりだったけれど、いつどこでそれが崩れてしまってもおかしくはなかった。現に、今こうしてひた隠しにしていた弱音が露呈してしまっている。
……多分、相手がこの護衛さんだからだ。無理に話を聞き出そうとはせず、上辺だけの言葉もかけたりはしない、ただただ私の言葉に耳を傾けてくれるから。
「嫌すぎて、逃げたくて、お互いをよく知る期間が欲しいって二年の猶予をもらったんだけど。まあ、なんにも思い浮かばない」
「……」
「執着がすごくてさ、一人の時は毎回護衛という名の監視を付けられる始末。まあ一度相手方の脅しに使うために、私が誘拐されかけたってこともあるんだろうけどね」
どれだけ色んな方面から恨みを買ってるんだか、と思わず鼻で笑った。
「現状逃げる方法もまだ思いついてないし、タイムリミットだけが近づいてくる。それに、逃げるなら殺せって言われてるんでしょ?」
……笑っちゃうよね。と諦めにも似た声で零すと、今まで相槌だけだった彼が口を開いた。
「――笑わないよ」
「え?」
「ずっと、一人で耐えてきたんでしょ」
「……うん」
そんな言葉が返ってくるとは思わなくて、鼻の奥がツンと熱くなる。必死に飲み込もうとしても、抗うことができずにじわりと視界が歪んだ。
「嫌だって口にするのは、悪いことじゃない」
彼は椅子から立ち上がって、私の足元へとしゃがみ込み目を細めた。家でも職場でも事情が事情なだけに気持ちを吐き出すことすら叶わず、……泣いたら負けな気がして。ずっと押し込めていたからか、一度溢れ出たものを止めることができなかった。
傍にあったタオルを顔に押し当て、子供のようにしゃくり上げる。不意に頭へと触れた大きな手は、私をあやすようにゆっくりと髪をなぞった。
・
・
・
「……はは、ごめん」
「謝らなくていいって言ったでしょ」
「ん、」
涙が止まり居心地の悪くないこの沈黙の中で、ゆっくりと息をする。真っ暗な海に飲み込まれそうになったのが嘘みたいに。
ひとしきり泣いて全て吐き出したお陰か、ぐちゃぐちゃになっていた脳内が驚くほどすっきりとしている。いつ振りだったかな、こんなに泣いたのは。
……でもそのおかげで何かが吹っ切れた気がする。
このまま悩んでいても現状よくなることはない。……あんな婚約者に一生閉じ込められるのなんて死んでもごめんだ。
『嫌だって口にするのは、悪いことじゃない』
彼がそう言ってくれたから。自分なりに、抗ってみようと思う。
濡れているタオルで最後の涙を拭きとって彼の方へと向き直った。
「……本気で、抗ってみるよ」
私のその言葉に、彼の顔から今までの穏やかな笑みがすっと引いた。私の顔を覗き込んだまま、その整った眉がひそめられる。本当に私の身を案じてくれている――そんな、真剣な表情だった。勝手に、うぬぼれてしまうくらいには。
「……でも、簡単なことじゃないよ」
「わかってる。……だって、聞いちゃったんだこの前。お父さんとお母さんの会話」
過去婚約者の相手になっていた女性は、何人か行方不明になっているということを。父と母がそれを知ってどうにかできる方法がないかと調べているが……そんなの、聞かなくてもわかる。どう足掻いても、借金をつくってしまったこちらにできることなんて何もない。
「それってさ、そういうことじゃん」
「……」
「逃げられなければどちらにせよだよ。バッドエンドが少し早いか、上手く逃げられてハッピーエンドかの違い」
へらりと、我ながら頼りない笑みがこぼれた。自分へ言い聞かせるように。
……彼は何も言わずに目を伏せ、その唇は何かを言いたそうにしているけれど開かれることはなかった。多分、彼には彼自身にまとわりついている事情があるのだろう。
でも別に、最初から護衛さんに縋るつもりなんてない。
「私は逃げるけど、安心して。護衛さんのことは巻き込むつもりないから」
自分の都合で彼の命を危険に晒すなんて考えられない。
先手を打ってそう口にすれば、驚いたように一瞬目を見開いた。すぐに彼の肩の力がふっと抜け、小さく息を吐いてまた困ったように眉を下げた。固く結んでいた唇をゆっくりと解き、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
私の突飛な宣言に、何を言っても無駄だと呆れてしまったのかもしれない。
けれど、その瞳はいつも見守ってくれているものとは少し違う気がした。
「……一人で決めちゃうなんて、酷いなあ」
「え?」
「僕は、きみの護衛だよ?」
「だってそれは、婚約者に言われて」
「最初はね。でも今は、きみの"護衛さん"でいたいと思ってる」
――そんなことを言われたら、自分の都合のいいように勘違いしてしまいそうだ。
この場に似つかわしくない思考を余所に、彼は乱れている私の髪をそっと耳にかけた。目を細め、柔らかな笑みを浮かべて真っすぐに視線を合わせる。
「だから、僕も一緒に抗ってみようかな。ハッピーエンドに向けて」
「それってどういう……」
「僕も、きみと一緒なんだよね。きっと変えることは難しいって、諦めかけてたけど」
「……っ、」
「あはは、まさかここで奮い立たされるなんてね」
驚いて、すぐに言葉が出てこなかった。私と一緒……自由を奪われていることなのか、はたまた未来を諦めかけていたことを指しているのかはわからない。
……けれど、こういう時とっさに気の利いた言葉をかけられない自分が歯がゆかった。
「きっと、逃げるのはすごく難しい」
「うん」
「さっきみたいに、小手先で誤魔化せるようなものじゃない」
「……わかってる」
「その上で――覚悟はある?」
真っすぐに私を見つめる彼の目は、この先に起こりうるであろう厳しい現実を見据えながらも、強く迷いのないものだった。
……誘拐されかけたとき、正直ここであっけなく死ぬんだとも思った。でも結局、命が助かったあとも自分の生活は監獄というのがふさわしい表現で。ずっと生殺しの気分だった。
私の前に婚約してた人の話が事実なら、大人しく従っていても従わなくても結果はきっと同じ。それなら答えは――。
「――もちろん」
「……きみは強いね」
「え、なに急に。褒めてもお菓子くらいしかないけど」
「ふふ、本音だよ」
そう言って大切なものにでも触れるように優しく髪を梳くものだから、彼との間に引いていた境界線がにじんで溶けてしまいそうになる。
私はなけなしの勇気を出して、彼のその手を両手で包み込んだ。「ありがとね」今日のことも、今までのことも、言葉にならない想いもぜんぶ込めて。そう一言口にした。彼は少し驚いたあと、すぐに目元を緩め「どういたしまして」と顔を綻ばせた。
「さ、明日も仕事だし。この話の続きは今度ね」
「……うん。おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
するりと抜け出した彼の手は私の頭へぽんと置き、名残惜しくもすぐに離れてしまった。
彼が部屋を出ていくと、また静寂に包み込まれる。でも不思議と、これまでのように怖さや不安を感じることはなかった。
「……なんか、色々すっきりしたかも」
そのままベッドへと倒れこみ、彼が触れていた場所へとそっと手を当てた。まだそのぬくもりが残っているかのように、じわりと顔にまで熱が帯びていく。
こんな立場で彼への気持ちを抱えるなんておこがましい、そう思い目を逸らしていたけれど。彼の言葉を、仕草を思い出すたびに、自分で引いたその一線を飛び越えてしまいたくなる。
もし逃げ出すことが出来たら――なんて、わずかな希望をそっと秘め、眠りに落ちた。
*
それから半年、逃げだすと決めたものの、婚約者の目を盗みながらの準備は生半可なものではなかった。なんせ私は相手のバックグラウンドも、手札もなにもわからないただの一般人だから。
きっと彼がいなければ傍に護衛がついていない適当な日に夜逃げして、あっという間に捕まっていただろう。
逃げるために必要な身分証や資金、監視カメラの死角など。不測の事態が起きた時に向かう場所や、最終的な合流地点まで。私の思い至らない問題を次々と提示し、解決に向けてどうしたらいいのか相談に乗ってくれた。私の知識ではどうにもならない身分証の偽装などは「僕に任せて」という彼の言葉を信じて委ねていた。
……ただ、この準備もスマホでの連絡なんかもっての外で。話すのは決まって護衛に来てもらったときの車内、出張先のホテルなど。私たちは監視の目をかいくぐりながらその秘密の時間を重ねてきた。
その限られた時間の中で、彼といるときだけは私も肩の力を抜くことができた。
親や行政機関でさえも頼ることのできない私の隣にいてくれたのは彼だけで。――だからこそ、この気持ちを信頼だと誤魔化し続けることはできなかった。
……彼は私の気持ちを知ってか知らずか。時折その境界線を越えるように、指先で髪を梳いては柔らかい眼差しを向けた。なんだか彼の言葉にならない気持ちも伝わってくるような気がして。……その度に、胸の奥で小さな期待が揺れていた。
「テーマパーク?」
「うん、ここを離れる前に一緒に行きたいなと思って」
計画実行が近づいてきたある日の車内で、バックミラー越しに彼を見つめながらそう口にした。私の突拍子もない提案に護衛さんは前を向いたまま目を丸くしている。
「……」
「息抜き、したくて。だめかな」
我ながら今出す提案じゃないことはわかってる。護衛さんを困らせるだけだってことも。
……息抜きだなんて言ったが、本当はそれだけじゃない。
この先もしかしたら、なんて思いたくもないけれど。逃げると決めた以上、この先何があるかなんてわからないから。――せめて、自分の意志で彼と過ごした記憶を持っておきたかった。
「でも僕と二人ってことは実質一人で行く前提になるでしょ? 婚約者に怪しまれるリスクが……」
「でもテーマパークなら友達と一緒だとしても、護衛さんはついて来るよね? 友達には事情を話して、当日だけ協力してもらうつもりだから」
「協力?」
「うん。予めチケット買ってたけど、ドタキャンされたって形なら自然でしょ」
もちろん婚約者が駆け付けられない仕事の日に当てるつもりだし、友達には「一緒に出掛けたい人がいる」と口頭でだけ伝えて、文面には絶対に残さない。
そう伝えると、護衛さんは口を紡ぎハンドルを指先でとんとん叩いている。しばらくそうして考え込んだあと近くのコンビニに車を停めると、くるりと後ろを向いてどこか呆れたように笑った。
「……もう、きみには敵わないな」
「え?」
「いいよ。せっかくだから、楽しもうか」
「――うん!」
断られることも覚悟していた分、彼のその言葉に自然と笑みがこぼれる。そんな私につられるように、彼も目元を緩めた。
この先のことは何一つ変わってはいないけれど。彼との約束で私はまた踏ん張れるような気がした。
*
そうして迎えた当日は、計画の通りに進んだ。
友達に一芝居打ってもらい、録音した音声と共にドタキャンされたことを婚約者へ伝えた。仕事があるとわかっているうえで「チケットも買っちゃったし、あなたが来れなければ一人で行ってもいい?」とお願いをすれば、電話の向こうで黙り込む。きっとGPSでも確認しているのだろう。一呼吸おいて「俺は仕事を抜けられないから、そのまま護衛をつけるなら仕方ない」と了承をもぎとることができた。
しかし広く、かつ人の多いテーマパークだ。逃げられるかもしれないという不安もあるのだろう。護衛に代われと言われ彼にスマホを渡せば「しっかりと見張って逐一報告しろ」と言う低い声がこちらまで漏れていた。
彼の返事に納得したのか「仕事に戻る」と一方的に通話を切られ、暗い画面を見て二人で安堵した。
「……上手くいったね」
「きみの甘え方も様になってきたんじゃない?」
「あれは演技だから! もーやめてよ」
「ふふ、ごめんごめん。じゃあ、行こうか」
「そうだね」
そう口にして小さく目配せをしてくれた彼の瞳に、子供のような悪戯っぽさが滲む。
ゲートをくぐった私たちは何か特別なことをするわけでもなく、いつもの適切な距離感を保ったまま歩き出した。
「あ、ねえ見て!」
「え? ちょっと待っ……」
ゲートを抜けた少し先、私の好きなマスコットキャラがちょうど出てきたところで思わず駆け出した。護衛さんは驚きながらもすぐに追いかけ、私の隣へと並んだ。
我に返ると、柄にもなくはしゃいでしまった自分が急に恥ずかしくなって、手元のスマホへと視線を落とした。
「あの……写真、撮ってほしいんだけど」
彼は不意をつかれたように小さく息が漏れ「あはは、そっか。きみにもそんな一面があるんだね」なんて、口元に手を当て堪えるように笑っている。さすがに子供っぽかったなと自覚はしているが、そんなに笑わなくても。
「久しぶりだから……仕方ないでしょ」
軽く唇を尖らせながらスマホを差し出せば、彼はそれを受け取り「ごめんごめん」なんて目元を和らげた。
「からかったわけじゃなくて。かわいいなって思っただけだよ」
「……フォローありがとう」
「あはは、本当なのに」
その言葉に少しくすぐったくなりながら、順番がきた私はマスコットキャラへ手を振りながら駆け寄った。瞬間、カメラの音がして思わず彼の方を振り返る。
「いい笑顔してたよ」
「ちょ……っ、不意打ちは変な顔してるから!」
「そんなことないよ、ね?」
そう彼が口にすれば、マスコットキャラも大きく頷いて身振り手振りで褒めてくれてるのが伝わってきた。マスコットキャラに抱き着く形でもう一枚撮ってもらうと、キャストさんが「彼氏さんも一緒にどうぞ」と手を差し出した。
思わぬ提案に、彼は困ったような表情でこちらへと振り向く。
護衛という立場を気にしているであろう彼のところへと駆け寄り袖口を掴めば、私の意図が伝わったのか諦めたように目を細めた。キャストさんへとスマホを手渡し、マスコットキャラをぎゅうと挟むようにして並んだ。
「……ふふ、護衛さんもいい笑顔」
「なんか照れるね」
二人で覗く画面には、どこにでもいるような……ごく普通の友達、あるいは恋人にも見える。婚約者との恋人ごっこよりも、よっぽど。
少しの沈黙が落ちて、彼は画面を見たまま小さく笑った。
「……でも、これは消さないと」
「ん、わかってる」
つい名残惜しさから画面をじっと見つめてしまう。何よりも残しておきたいけれど、今の状況はそれを許さない。私はゆっくりとゴミ箱の絵へ指を滑らせ、念入りに二回の削除を実行した。
婚約者には『次は一緒に行きたいね』なんて、心にもない言葉を添えてマスコットキャラとの写真を送信した。
別に、彼と一緒に写っている写真を削除したからって今の時間がなくなるわけではないから。だったらもっと彼と同じ空気を吸って、楽しい時間を共有したい。
私はスマホをポケットに押し込み「次行こう!」と数歩進んで手招きした。
・
・
・
「わぁああああーっ」
「あっはははは!」
「ん! この期間限定の味、めっちゃ美味しいね」
「……ほんとだ、あっという間に食べちゃいそう」
「ね、これきみに似合いそう」
「護衛さんも一緒に……は、つけられないよね」
「そうだね。でもきみがつけてくれたら満足かも」
「じゃあ――つけちゃおっかな」
「うん、やっぱり似合ってる」
アトラクションに乗って、食べて、買い物をして、一日を遊びつくした。目の前のものに夢中になって、こんなに笑ったのはいつぶりだろう。……もちろんこの時間を邪魔されたくないからこそ、婚約者への写真も忘れずに送っていた。
――今日という日が終わってほしくない。そう思っても、夢のような時間は容赦なく夜に溶けていった。
「あ、パレード始まった! ……きれい」
「……ん、本当にきれい」
軽快な音楽と共に電飾で飾られた乗り物が目の前をゆっくりと通り過ぎていく。こっそりと隣を覗けば、光に照らされている彼の横顔が酷く優しくて。心臓がきゅっと締め付けられた。……終わってほしくない、時間を止めたり巻き戻せたらいいのに。なんて、あまりにも非現実的なことを考えてしまう。
不意に目が合い「どうしたの?」なんて彼は私の顔を覗き込んだ。
「ううん、別に」
「言ってみてよ、今だけ」
「……なんか私、欲張りになったみたい。終わらないでーって」
「あはは、素直だね。……でも、わかるよ」
少しの沈黙の後、夢のようなパレードをもう一度追おうとしたその瞬間、頭の上から大きな音が降り注ぐ。そして隣の彼もまた、吸い寄せられるように夜空を彩る眩しいほどの光を見上げていた。
今日最後の一枚である花火の写真を撮って、婚約者へ送信する。これで今日の報告も終わりだとスマホを鞄の奥底に押し込め、周りが花火を見上げる中私は彼へと視線を移した。
「ねえ、護衛さん」
名前も知らない彼をそう呼べば「ん?」と首を傾げて優しく目を細めた。まっすぐ自分へ向けられたその眼差しに、今まで守っていたものがじわりと溶けそうになる。
「あなたが、私の"護衛さん"じゃなくなったら。……ひとつだけ、お願いがあるの」
「うん、言ってみて?」
「名前……護衛さんの名前、教えて」
最初の頃に一度だけ名前を尋ねたが『内緒です』と笑顔ではぐらかされたのをよく覚えている。今なら彼も何かに縛られているのがわかるから。……今回は断られないよう私なりに考えた、ずるい言い回しだった。彼は私の突飛なお願いに、目を見開いて驚いている。……どう、思っているのだろう。
彼が口を開くまでの間、パレードの音も、花火の音も、緊張からか遠くに聞こえるような気さえした。
ほんの少しの静寂のあと「……いいよ」と、どこかくすぐったそうに口元を綻ばせた。
「もう断る理由もないし、ね?」
「……っ、絶対、だからね」
重なる視線と頷いた彼を見て、私も自然と笑みがこぼれる。
もう少し、もう少しだ。この生活から抜け出すことができたら――。その時には「護衛さん」なんて呼び方も卒業しているのだろう。
彼に打ち明けたことで自分にも見えた希望を、この先の未来を、当たり前のように描きながら。夜を彩る無数の光を、私たちは静かに瞳へと映した。
*
計画当日。私は教えてもらった通り、道端にある障害物を倒し、目くらましを使い、道行く人の間をすり抜けた。
『もう観念したらいいのに』
「――はっ、はぁっ」
もうどれくらい走ったのだろう。一時的に巻いたと思っても、追手は着実に距離を縮めてきている。喉が焼ききれそうに熱い、体のあらゆるところが痛い。心臓も悲鳴を上げている。でも足を止めるわけにはいかなかった。
「い゛っ、」
『つーかまえた』
髪を掴まれそのまま地面に打ち付けられ全身に痛みが走る。馬乗りになって嘲笑うその声を私はよく知っている。油断も隙もない、もう一人の護衛だ。
彼は乱暴に頬を挟み、無理やり視線を合わせられる。
体を捩ろうとしてもその強い力で押さえつけられ、足をばたつかせるのが精一杯だ。見下ろして笑うその目は酷く冷たい。――怖い。
『ざーんねん。後悔しても遅いけど』
「――っ、後悔なんて、しない。はな、して……っ」
『はは、そりゃ勇敢なことで』
温度のない声でそう言い放ったと同時に、上半身へ冷たい異物が抵抗なく体へ沈んでいく。
「……っ、――っ!!」
『逃げようなんて思うから』
そこが灼ける様に熱くて、なのに急速に体の芯は冷えていく。声が、でない。
造作もないというようにそれを容赦なく引き抜いた。
「――っ、ぁ゛」
『そうそう、すぐに九番目も一緒にな』
声が遠くなり、衝撃と共に視界の端から溶けていく。
息ができているのか、なにも、わからない。
その中で聞こえた九番目――きっと、あの人のことだ。
・
……実行の直前、彼はいつものように柔らかく私の頭を撫でた。
その大きな手に、ぬくもりに、一体何度安心させられたのだろう。
『本当に、後戻りはできないよ』
『何のために準備してきたと思ってるの』
『ん、確認するまでもなかったね。……きみの無事を祈ってる』
『ありがとう、護衛さんも気を付けて』
『じゃあ、またあとで』
・
指一本動かせない中、最期に視界に映ったのは。……約束したあの人の姿ではない、歪んだ笑顔だった。
ごめん。またあとで、なんて約束したのに。
どうか、どうか護衛さんだけは逃げ切って。――それだけで、もう十分だから。
今までのことが頭の中を駆け巡る。幾つもの夜を抱きしめたまま、私は意識を手放した。