きみの手を離した夜に

自分なりに考えての決断だった。
灯世と一緒にいたい気持ちと、足を引っ張りたくない気持ちとを天秤にかけて。それなりに長い間悩んだと思う。

「ごめん」

ぽつりと呟き、灯世の部屋に手紙と彼の家と部屋の合鍵を残した。来ることに慣れた彼の部屋をもう一度ぐるりと眺める。途中、ドアの横で壁に背中を預けている有さんと目が合った。

「本当にいいのか」
「うん。有さん今日はごめんね」
「謝られる理由はないが、俺は灯世が納得するとは思えない」
「……そうかな」
「それと、お前自身もこの決断をまだ落とし込めていないんじゃないか」
「あはは……鋭いというか、私が分かりやすいだけか」

誤魔化すように笑って、置いた手紙に視線を落とし指を滑らせる。リアルタイムで確認ができるSNSで送る勇気もなければ、面と向かって伝える勇気もなく……一言だけ手紙に残し別れを告げることにした。数日間仕事で家を空けている今日この日に。
我ながらずるいとは思っている。けれど対峙してしまったらやっと決めた気持ちも揺らいでしまう気がして、会わない方法を選択した。鍵を有さんに預けることもあり、軽く事情は話したけれど。
……まあ、彼の言う通りではある。灯世のことは好きだし、なんなら将来まで思い描いていた。ただ私がもしも仕事する上で足を引っ張ることがあるのなら、身を引いた方がいい。そう思っただけだ。

「じゃあ、お邪魔しました」
「本当に行くのか」
「なんか、有さんにしては珍しいね。こうして引き留めてくれるなんて」
「別に……残された灯世がどう思うか考えただけだ」
「……灯世の手を煩わせるな、なんて言われてた頃が懐かしい。大丈夫だよ、私と付き合う前に戻るだけだから」

「ありがとう」と口にすれば有さんは少し顔を顰めて「いや、」と目を伏せた。
彼は灯世のことをとても大切にしている。直接口にしていたわけではないけれど言葉の節々にずっとそう感じていた。だからこそ、私の選択した行動によって灯世が傷つくことを懸念しているのだろう。
それでも無理やり引き留めることはせずにドアの外まで来てくれた有さんから見送られ、長い付き合いだったこの部屋を後にした。



あの日は本当にたまたま、その場に居合わせてしまった。灯世と付き合ってはいたものの、彼や有さんの仕事内容もカフェをしていることしか知らなくて。
……単なる、偶然だった。

『どうしよう、うちの犬逃げちゃった』
「えっ、メロちゃん!?」
『そう……散歩してたらクラクションの音に驚いた拍子にリード外れて』
「待って、こうしてるうちにもパニックなってるかも。一緒に探すよ」

仕事帰り何かを探している様子の友達とばったり出くわし、話を聞いた。路地裏を見たり、道路を見たり、物の影を見たりとしていたがまだ見つからないようで。実家で飼っている犬を思い出し、黙ってはいられないと一緒に探すことにした。

「私ここから向こう探すから、一回家に帰ってみたら? もしかしたらいるかもしれないし」
『いいの?』
「うん。因みにどんなところにいそう?」
『前も一度逃げたことがあって、その時は路地に入ったとこの物陰に隠れてた……。でもあまり無理しないで、大丈夫だから。いたらすぐ連絡するね』
「わかった」

友達と分かれて道路脇の植栽や、自販機の陰、路地にも入ってみたが簡単には見つからない。そう思っていた矢先、路地にある箱の上で小さく動いている何かがいた。
先程も入っていったところ野良猫だったが、薄暗いためこちらも近くで見てみないことには判別がつかない。

「メロちゃーん?」

大きな声で怖がらせないように、抜き足差し足でゆっくりと近付いた。ギリギリ姿が見えそうなところまで近づくとぴょんと飛び降りて私の横を駆け抜け大通りへ逃げてしまった。

「……猫か」

スマートウォッチを確認するもまだ友達からの連絡は入っていなさそうだ。もう少しで家につくと思うけど……道中にはいなかったのかな。
私も次の場所探すため大通りへ出ようと踵を返せば、目の前の光を遮るように何かが上から降ってきた。え、と思う間もなく私は襟元を絞めあげられる。

『丁度いい、しゃべるなよ』

声をあげたくても首元を絞められているため声を出せない。
苦しい、なに、誰。殺される?
私は無意識に目の前の腕を噛み、男の小さな悲鳴とともに首元が緩まる。解放されたもののすぐに走り出せず咳き込んでいると、目の前の男はズボンのポケットから棒のようなものを取り出した。

『大人しく人質になればいいものを……っ』

やばい。
振り上げた腕からとっさに頭を守るように手をかざし固く目をつむる。

「怪我はないか」
「え、」

瞬間、耳慣れた声に目を開ければ視界に入ったのは灯世の姿で。男が振り下ろした棒は彼の腕によって受けられていた。
待って、結構な勢いだったよね。灯世の腕は大丈夫なの、ていうかなんでこんなところに。
半ばパニックになり何も言葉が出てこない私に一言「大丈夫だ」と彼は呟きながら、腕で受けていた棒を反対側の手で掴むとそのまま引っ張った。さっきの男の人の力が嘘なんじゃないかって思うくらい簡単に地面へと転がるのが少しだけ見えて。何をしたかは灯世の背中で隠れてよくわからなかったが、私が呆けている間に先ほどの人は拘束されていた。

「奴は問題なく捕えた。そちらは……そうかわかった」

灯世はそのままの状態で誰かと話しているようだ。僅かな足の隙間から血走った目でこちらを睨むその男は『お前さえいなければ……覚えたからな』と口にするもすぐ灯世に絞め上げられる。
お陰で男の顔は見えなくなった。……が、先ほどの言葉に心臓がばくばくと鼓膜を刺激し伝染するように全身が震える。事態を飲み込めず混乱しているこの状況で、再度自分へかけられた声に現実だと思い知らされたからかもしれない。

「……あ」

そんな中、スマホの通知音と共にスマートウォッチが振動する。一呼吸おいて確認すれば『メロ見つかったよ! ありがとう』というメッセージだった。
見つかってほっとしたが、正直自分の身に起きた状況が状況なのですぐに返信もできない。

「……か、」
「えっ」
「大丈夫か」
「あ、うん、大丈夫……っていうか灯世、血がっ」
「俺のものではないから心配ない」

灯世の服に付着した血らしきものに気づきはっとした。自分のものではないと口にしたから少し安心したものの、なにか危険を伴うことをしているのだろうかと別の心配がわきあがる。

「でも、だって、さっき私のことかばった時の腕も」
「気にするな、お前に怪我がないならそれでいい。……あぁ、そこをおりたところだ」

彼がまたここにいる誰とでもない人と会話をした瞬間、どこからともなく現れたのは有さんだった。大きな音を立てるわけでもなく、上から落ちてきた……というよりは降りてきた彼に心底驚いた。

「有、俺はまだ帰れないから彼女を俺の部屋まで送ってもらえるか」
「わかった」
「え、灯世は」
「終わったら俺もすぐに帰る。話すこともあるから部屋で待っててほしい」

必要なことだけ言い残すと、彼は捕えた男を抱え路地の奥へと消えてしまった。
怒涛のような展開に呆然としていると「立てるか」と有さんが私へ問いかける。しかし思いもよらないことに腰が抜けたのかうまく足に力が入れられない。

「あ……はは、ごめん、もう少し待ってくれる? 腰抜けたみたいで」
「無理に笑わなくていい。だが、ここに長居はできない」

有さんは私に背を向け「悪いが少しの間我慢してくれ」と。そう言った次の瞬間、ふわりとおしりが浮く。決して体重が軽いわけではないのに、彼は立てない私を事もなげに背負い歩き出した。

「や、大丈夫! もう少しで歩けるから!」
「さっきも言ったがあそこに長居はできない。恥ずかしいのなら顔を伏せていればいい」
「……わかった。ごめん、ありがとう」
「灯世に頼まれたことをしてるだけだ、気にするな」

これ以上言ったところできっと彼も譲らない。私は諦めて彼の言葉に甘え、灯世の部屋までその背中に揺られることにした。



「ただいま」

帰宅してからただ黙っているだけでは落ち着かず。歩けるようになってからはシャワーを浴びたり、友達に連絡を返したりして待っていればドアの開く音とともに灯世の声が聞こえてきて。彼が部屋に入ってきたと同時に駆け寄った。

「おかえり」
「すまない、もう少し待っていてもらえるか。有に話がある」
「うん、わかった」

一言帰宅のあいさつをすると、灯世はすぐ隣にある有さんの部屋へ向かった。
その背中を見送り「……よかった」と声がもれる。まだ帰れないと言って別れたときからずっと不安だったから。新しい怪我も汚れもなく、無事帰ってきてくれたことに心底安心した。
少し軽くなった気持ちで私はまた彼のベッドへと腰をおろし、戻って来るのを待つことにした。

「待たせて悪かった」
「ううん、大丈夫だよ」

有さんと話が終わったのか、そう時間も経たないうちに戻ってきた。灯世はハンガーを手に取り汚れた上着をかけたその時、彼の腕を見て思わずぎょっとする。
恐らく私をかばったときに怪我をしたのだろう。白く巻かれた包帯に血の気が引いた。

「灯世その腕……ごめん、私のせいで」
「気にするな。城瀬……職場の人間が大げさなだけでただの打撲だ」
「それでも、ごめん。痛かったでしょ」
「大したことはない、お前が怪我をしなくてよかった」

灯世の腕を包帯の上から撫でるもどんな状態なのかわからない。本当に打撲だけなのか、折れていたりはしないのか。そんなことを考え申し訳なさでいっぱいになっていると、彼は優しい手つきで私の頭を撫でる。

「別に気を遣っているわけでもない。本当に大丈夫だ」
「……うん、私が心配なだけ。ありがと、庇ってくれて」
「あぁ」

灯世は下手な嘘は言わない。言葉の裏表はないとわかっているけれど、怪我をさせてしまった心苦しさは残る。ただこれ以上落ち込んでいては流石に鬱陶しいと思い、お礼の言葉を伝えて本題へと話を促した。

「灯世、そういえば話ってなに?」
「そうだな……理由はこれから説明するが、明日から約一ヵ月の間警護につかせてもらう」
「ケイゴ……警護!? て、え、私の?」
「警護といえば大げさに聞こえるが、出歩く際一人にならないようにするのが目的だ。逆恨みの可能性を考えて」

彼の口から語られたのは、自分にとってはドラマの脚本のような非現実的なものだった。仕事柄そう詳しくは話すことができないのだろうけど、今の話だけでも飲み込むのに時間がかかる。
カフェで働いているのも仕事の一環。けれど他の業務も請け負っており、そちらの遂行中にたまたま私が居合わせてしまったらしい。それを受けて職場で検討した結果、今聞いた話にまとまったそうだ。

「俺と有、あともう二人が交代でつく予定だ」

警護と聞いて肩に力が入ったが、基本的には朝の出勤時と仕事が終わったあとの帰宅時に彼らと行動を共にするということだけらしい。最長で一ヵ月、灯世の方で大丈夫だと判断したらそれよりも前に解除されるとのことだった。

「それ以外で出歩く際はできるだけ一人にならないようにしてもらえるか」
「う、うん……わかった」

さっきあの場所に居合わせなかったら、あの男に捕まらなかったら、きっとこんなことにはなっていないのに。思わぬ方向に事が大きくなっていて申し訳ない気持ちがこみ上げる。

「……ごめん」
「謝る必要も申し訳ないと思う必要もない。お前は巻き込まれただけで、完全にこちらの都合だからな」

頭に手を添え、彼の方へと引き寄せられる。まるで私の考えていることがわかっているかのように撫でるその手つきは優しい。
今の話を聞き、私になにができるだろうかと考えてもすぐには浮かばなくて。もしまた先ほどのようなことが起きたとき、太刀打ちできるものがなにもない。格闘技をやっていたわけでも鍛えていたわけでもない私には。

「なんか……色んな人に迷惑かけるなと思って」
「さっきも言ったがお前は偶然巻き込まれただけで警護も仕事のうちだから問題ない。……と、建前で言っておくが。俺としては誰かと行動を共にしてもらえると安心できる」

ずっとついてやることもできないからと、そう口にした彼の手に少し力がこもった。言葉だけでなくそこからも灯世が自分のことを想う気持ちが窺える。彼を安心させたくて「わかった、なるべく一人では行動しないよ」とそう口にすれば「そうか」と小さく笑った。

「今日はこのまま泊まって行くといい。明日休みだろう」
「いいの? ……そうする」
「俺もシャワーを浴びてくる。一緒に寝るから待っててもらえるか」
「うん、わかった。待ってるね」

ベッドから立ち上がった彼とぱちりと目が合えば、大丈夫だとでもいうように私の頭を優しく撫でた。……彼なりに不安を和らげようとしてくれたのかもしれない。
よくわからない状況に心配がないと言えば嘘になるけれど、彼や有さんが一緒ならきっと大丈夫なはず。……いや、大丈夫っであってほしいとそう願った。



それから仕事がある日は朝と夕方に灯世と有さん、神家さん、麻波さんが代わる代わる私に付き添ってくれていた。
初めて会った神家さんは人見知りがないのか道中色々な話をしてくれ、私が考えなくとも間がもった。……が、麻波さんは自分と同じく人見知りなのか初日から殆ど話すことはなく。私の警護をしなければならないことに怒っているのかと変な汗を流したのをはっきりと覚えている。のちにそれが通常運転で「わかりにくいが怒ってはいない」と灯世から教えてもらい安心した。
二人とも自分より結構年下に見えるし、付き添われる側ではあるけれど自分がしっかりしなければとそう思った。

「……有さん毎回ありがとね」
「仕事だから気にするな」

警護から十日ほどが経ち、今日の帰宅時は有さんが担当だった。他の仕事との兼ね合いで一週間前後、帰宅の際は彼が担当になるらしい。
……チャンスだと思った。この十日間私にもなにかできることはないかと考え、有さんにあることをお願いすることにしたから。

「あの……折り入ってお願いが」
「なんだ」
「私に簡単なものでいいから、護身術教えてください。……灯世には内緒にしてほしいんだけど」
「また、何故俺に」
「違うよ! 自分で何とかしようとか全然思ってないんだけど、覚えるいい機会だし」
「だったら灯世に教えてもらえばいいだろう」
「そうだけど……灯世に変な心配かけたくないから」
「……灯世に隠し事というのが気が進まないが。わかった」
「ありがとう」

渋々了承してくれた有さんから毎日一時間ほど護身術を教わった。動画を見ても一人では上手くできているのか、合っているのかもわからなかったのでこの上なく有難い。
少しでも自分の身は自分で守りたくて、有さんの教えてくれることに全力で耳を傾け体に覚えさせた。

それから一週間が経ったころには付け焼き刃ではあるけれど、一人で練習していた頃よりははるかに動きがマシになった気がする。有さんは運転が好きだと灯世から聞いていたので、連勤最終日に安全運転のお守りを渡すとともにお礼を伝えた。

「本当にありがとう。お陰でなんとかなりそうな気がしてきた」
「……予期しないことに遭遇した時、身体が硬直することもある。お前が無茶することを灯世は望んでいないし、無茶をするために教えたわけでもないのを肝に銘じろ」
「あはは、そうだね。約束するよ。……あの、このこと灯世には」
「灯世には言っていない」
「よかった」

せめて神家さんや麻波さんのときくらいは自分で自分の身を守りたいと、そう思っていることを勘付かれることがあれば。……間違いなく「危険なことは考えるな」と止められただろうから。有さんが約束を守ってくれていたことにほっと胸をなでおろした。



その後も代わる代わる毎日誰かが付き添ってくれ、護衛解除の話がないまま残り一週間になってしまった。

「……あんま離れて歩くんじゃねーぞ」
「え? あ、うん、わかった」

今日の担当は麻波さんで、毎日通る大きな広場の遊歩道へと足を踏み入れたときに突然そう口にした。
周りをよく見れば、昼間の天気があまりよくなかったせいか広場に人影がほとんどなかった。一般的に今は夕食を終えた頃の時間帯だから、いなくても不思議ではないけれど。

「いたっ、ご、ごめん」
「うるせー。……静かにしてろ」

離れるなと言われたため、麻波さんのすぐ後ろを歩いていた私は急に立ち止まった彼にぶつかってしまった。反射的に謝ればそれもまた静止され、彼のその声色にぴんと空気が張り詰める。
……正直に言えば、緊張するほどの異変があるのかわからない。怪しい人物も見えなければ、違和感のある音も私には聞こえなくて。ただ麻波さんの後ろでじっとしていた。

「……読み通りではあるけど複数いそうだ。こっちにいる」
「え?」
「うるせーな、なめてんのか」
「ご、ごめん?」

支離滅裂なその言葉に首をかしげていると、目の前にいた麻波さんが突然私の後ろへと移動し思わず目を見張る。振り向いたときには、呻き声と共に地面へ知らない男性がうずくまっていた。
あの日の光景がフラッシュバックしてすっと背筋が冷える。でも今目の前にいるのは灯世じゃない。……私もしっかりすると決めたじゃないか。

「お前は動くな余計なことすんじゃねえ!」
「っ!」

ぴしゃりとそう言い放った麻波さんは、無駄のない動きで私の前へ戻ると同時に大きく足を振り上げる。先ほどまでは確かにいなかったのに、いつの間にか現れた二人目の男性。その人が持っている警棒のようなものを、麻波さんは足で叩き落とした。

「……ぎゃっ! いったぁ」

そちらに注意が逸れた瞬間私の足首が何かに掴まれ思い切り引っ張られる。その反動で情けなくも転んでしまった。すぐに足元を見れば最初にうずくまっていたはずの人が私の足首を掴んでいて。こちらに向けられたその鋭い視線に思わず鳥肌が立った。
どうしよう、怖い、身体が動かない。

「しつけ―なテメェはよ!」
『……っぐ』

多分、ほんの一瞬。麻波さんが私から最初の男性を足蹴りにして引き剥がしてくれるまで一瞬だったのに、ものすごく長く感じて。恐怖から身体が動かなかった。
麻波さんに引っ張られ立ち上がるも、手と足が震えて呼吸が浅くなる。

「落ち着け」
「はっ、はっ……ご、ごめ……」
「悪いことしてねーのに謝るなうぜぇ。少し離れるぞ」
「え、この人たちは」
「起き上がれないようにしてるから心配すんな。もう少しで回収される」

麻波さんに手を引かれ遊歩道を抜ける直前、目の前にまた知らない男性が現れた。……が、近くにはいないもののまだ他にも人がいるようで「三人か」と麻波さんは呟いた。『んだよガキと女じゃねーか』そう口にした目の前の男性に彼は小さく舌打ちをする。麻波さんは怯むこともなく小声でこの先のことを手短に話した。

「こいつは俺が押さえる。そしたらそのままあっちへ突っ切れ」
「麻波さんは」
「あほかお前みたいに弱くねーんだよ。付け焼き刃の護身術でなんとかしようとか余計なこと考えんなわかったか」
「は、はい……」
「……あぁ? うるせー、わかってるわ」
「え?」

捲し立てるようにそう言った直後、麻波さんはスッと視界から消えた。……その瞬間、目の前にいた男性は地面へと背中を打ち付けていて。「いけ!」と、麻波さんが叫んだのを合図に言われた方向へと走った。
多分、走ってからほんの数秒。見なければいいのに麻波さんが気になりちらりと後ろを確認した。そしたらまた別の一人が手に鋭利なものを持ってこちらに向かって来ているのが見えて。私は慌てて正面を向き夢中で走った。
麻波さんはさっきの人を押さえてるから逃げきらないと捕まる。死ぬかもしれない。どこに、いつまで逃げたらいいの。
ずっと抱えていた漠然とした不安が、今この状況により波のように押し寄せ視界を滲ませる。……泣いている余裕なんて微塵もないのに。

「頑張ったな」
「……え、」

すっと、私と追いかけて来た人の間に入った影と声。耳慣れたその声に思わず振り向いた。

「ともせ」

どこからともなく現れた彼は、流れるような動きでナイフを持った手を捻り上げそのまま叩き伏せる。灯世がその手首を踏みにじれば、呻き声と共にカランと地面に落ちる金属音が聞こえた。

「気持ちのいいものではない。目を伏せておけ」
「……うん」

言われるがままその場でうずくまり目を瞑り息を殺した。近くから、遠くから複数人の呻き声や小さな悲鳴が聞こえてきて、無意識に手に力が入る。
麻波さんたちはこうなることを予測しずっと連絡を取りあっていたのかもしれない。時折会話が噛み合わなかったのも、そう考えると納得がいく。
ほんの少しの時間をおいてから灯世は「もう大丈夫だ」と口にし、その言葉に促されるように私は恐る恐る目を開いた。わざとそうしてくれたのか視界には彼しか映らなくて。ぽろり零れたのは「灯世」の一言だった。

「怪我はないか」
「私は平気。麻波さんは」
「心配はない、至って元気だ」
「……よかった」
「お前が思っているほどみんなやわではないから大丈夫だ」

灯世は小さく笑い、安心させるように私の頭をゆっくりと撫でた。
彼は「少しそこのベンチに座って待っていてくれ」と言い残し、先ほど麻波さんがいた方へ向かう。奥を覗けばいつの間にか有さんや神家さんもいて、警護してくれていたメンバーが全員揃っていた。
私は言われた通り近くのベンチで待っていると間もなく彼は戻ってきて。他の人はと聞けば、今日はこれで解散となったらしい。……そういうことにしてくれたのかもしれないけれど。
灯世は静かに私の隣へと腰を下ろし優しく身体を引き寄せた。寄りかかった時に鼻腔を掠めた彼の香りとその体温に酷く安堵する。
さっきと同じ場所なのに周りは嘘みたいに静かで。まるで世界からこの空間だけ切り取られたかのようだ。

「今日で警護も終わりだ、もう安心していい」
「……そっか、今日までありがとね。みんなにはもう会えない? お礼伝えたくて」
「麗は難しいだろうが、有や神家には会えるだろう」
「じゃあ麻波さんには灯世から伝えておいてくれる?」
「ああ、わかった。……今はとにかく、無事でよかった」

腰に回された灯世の手にぐっと力が入る。もしかしたら自分が思っているよりずっと心配してくれていたのかもしれない。
そう思ってくれたことが嬉しい反面、自分はなにもできなかったことが心のどこかに引っかかる。心配をかけるだけで、守ってもらうだけで、何の力にもなれなかったことが。

「灯世たちのおかげだよ。私じゃなにも役に立たなくて」
「いや、お前が麗の言う通り動いてくれたから誰も怪我をせず、滞りなく済んだ。卑下することはない」
「……うん、わかった」

それが灯世の本音だと、建前を言わないとわかっていても、やるせない気持ちが心の中へと渦巻く。もう少し自分に運動神経があれば。格闘技でもやっていたら。
考えてもきりがないのに、帰宅した後もずっと尾を引くように今日の出来事が頭の中から消えることはなかった。



有さんの手を借りて灯世の部屋から回収した物は、その日のうちに自宅へと持ち帰った。
しかし数日経っても気持ちが落ち着かず、今日もまた夜風を浴びるため結局また外へと繰り出した。どこへ行こうか考えたものの、思い浮かぶのは灯世と一緒に出かけたところばかりで。手紙を見てしらみつぶしに探されたら見つかるのも時間の問題だろう。
それ以外で……と考えたとき、自然と足が向かったのは有さんから護身術を教えてもらった海が見える公園だった。

「はあ、気持ちいい」

フェンスへと寄りかかり少し遠くを見つめれば、ひんやりとした風が頬を掠める。
灯世の仕事を知らなければこんなに悩むこともなかったかもしれない。
私は直接その仕事に関係ないけれど。もしあの時のような逆恨みで灯世が襲われたとき、一緒にいたら足手まといになるだろうとか。またあの時みたいに私のせいで灯世が怪我をしたら。場合によっては怪我で済まなかったら。一度考え始めたら止まらなかった。
だから、この選択をしたのだけれど。

「あーあ、面白いくらい未練しかない」

ぽつりと小さく呟いたその言葉は澄んだ空気に溶けていった。……はずなのに。

「なら別れる必要もないだろう」

耳慣れた声が聞こえたと同時に肩越しから伸びた両手は、私を囲いこむようにフェンスへと置かれた。少し乱れた息遣いと、ぴたりとくっついた背中から伝わる熱に心臓の音が耳の奥で大きく鳴り響く。

「……やっと見つけた」

すり、と私の頭へ頬を寄せる灯世の髪が視界にちらつく。その距離に、香りに、ぐっと体温が上昇した。
あの手紙を見て、自分勝手だって怒ってないの? どうしてここがわかったんだろう。合わせる顔なんてないのに。なんて思う反面、この状況に嬉しさを感じてしまっている自分もいて。この相容れない複数の感情を上手く表すことができず、なにも言葉にできなかった。

「こっちを、向いてくれないか」
「……」
「俺は怒ってもいないし、顔を見て話がしたい。……嫌か?」

最後にぽつりと呟いた、ほんの少し寂しさを含んだような声のトーンが珍しくて。「嫌じゃない」と思わず振り向いてしまった。

「ようやく目が合ったな」

表情はいつもとそう変わりはないけれど、灯世の髪はわずかに乱れていて額にも汗がにじんでいる。小さく笑みを浮かべる彼はどこか安堵しているようにも見えた。……私の目に補正がかかっているのかもしれないけれど。
そんな彼の顔を見た瞬間にぐちゃぐちゃな感情が込み上げて、震える声が漏れないように唇を一度強く結んだ。

「手紙を読んですぐに連絡を取ろうとしたけど繋がらなかった。……だから柄にもなく慌ててしまったが」
「っ、ご、ごめんなさ」

我慢していたのに。灯世の言葉を聞いたら、堰を切ったように溢れ出すのを止められない。
ごめんなさいと、言い終わる前に私の視界は灯世の服で覆われた。背中に回された腕に、この体温に、本当はずっと縋っていたくて。彼の背中に腕を回し服をぎゅっと掴んだ。

「落ち着いたか」
「うん、ごめん。服も、ごめん」
「問題ない」

ひとしきり泣いて、灯世から離れると彼の服にくっきりと涙の跡がついていた。自分から離れたのに灯世の顔見たら安心するなんて……自分の意志の弱さにほとほと呆れる。
でもやっぱり、ちゃんと顔を合わせて話さないといけないのかもしれない。

「灯世の顔みたら泣いちゃったんだけど、私の気持ちは手紙の通りだよ」
「……俺の足手まといになるということか」
「灯世は私のせいじゃないって言ってくれたけど、結果的に怪我させちゃったし。私が自分の身を守れるか、もしくは私がいなければ怪我しなかっただろうなと思うと」

不甲斐なくてごめんね、と彼の顔を見て伝えることができた。
灯世は表情を変えることなく私の話を聞いてくれて。何かを考えるように一度視線を逸らすも、すぐに私の名前を呼んで顔を合わせた。

「突然襲撃に見舞われて自分の身を咄嗟に守れる人はほんの一握りだろう。……仮にいたとしてもお前への感情と同じものを向けられるとも思えない」
「灯世、」
「自分の身を守るとか、不甲斐ないとか一切思う必要はない。俺と共にするのはお前であってほしいから」
「けど、灯世には怪我をしてほしくないんだよ」
「絶対とは言い切れないが、怪我をしないよう努める。……だから、俺の手を取って一緒に帰ってくれないか」

すっと、目の前に差し出された灯世の手。彼を見上げれば、その表情には少しの不安が滲んで見えた気がした。
……灯世が探しにきてくれて、共にいてほしいと言ってくれたから。少しの迷いもあったけれど、この手を取らない理由はもうなくなっていた。
控えめに手を重ねた直後、握り返してくれたその熱に心のつかえが溶けて消えてしまうほどの安心感を覚える。灯世は私を引き寄せると、おでこへと柔らかく唇を落とした。
そして先ほどよりもぐっと強く抱きしれめられまた少し、泣きそうになった。




おまけ - 後日談 -

「そういえば、灯世さぁ」
「なんだ」
「なんで私があの場所にいるってわかったの?」

ランチタイムのピークが過ぎた頃、Aporiaのカフェに灯世とご飯を食べに来ていた。
後から疑問に思ったものの忘れていて、ふと今思い出した。

「もしかしてこっそり有さんが……」
「俺は灯世には言っていない」
「わ、びっくりした」

湯気の立ったパスタをテーブルに置いて、有さんはそう否定する。

「あぁ、有からは聞いていない。神家からは聞いたが」
「えっ」
「灯世には内緒にしろと言っただろう。ただ何かあった時のために神家と麗には共有した」
「それは……それは違うじゃん!」

有さんは私の言葉を聞き流し「冷めないうちに食べろ」と言って、キッチンへ戻っていった。まさかそう捉えられるとは……なんだか少し悔しい。

「ただそのお陰で今こうして一緒にいることができているから、よかったと思っている」
「うっ、灯世……ごめんね」
「でもまあ俺の知らないお前の姿を有や神家、麗が知っていたのは少し妬けるけどな」

思わぬ発言に何も言えず目を丸くする。少し経ってその意味を理解し、じわじわと顔が熱くなったのは言うまでもない。
私はそれを誤魔化すように、目の前のパスタへと手を伸ばした。