研磨と自然消滅した話*

今、彼はどう思っているのだろう。私のことを一ミリでも思い出してくれている日はあるのだろうか。……こうなることは必然だったのかもしれない。と、未練がましくも彼の連絡先が消えたスマホを見てそう思った。



ひとつ年下の研磨とは高校の頃に鉄朗を通じ知り合い、ゲーム好きが高じて付き合いだした。夢中でゲームしてもお互い怒りもしないし、寧ろそれについて深く話せるのが楽しかった。勿論恋人らしいこともしていたし、彼の隣は居心地がよくて。また彼も同じく心を許してくれているように見えたから、卒業してもこのまま一緒にいるだろうと疑いもしなかった。…私は。

高校卒業後、縁があって働き始めた職場が兎に角忙しいところで。最初の一年目は仕事を覚える期間で、研磨も高校生だったからよかったものの、それを過ぎた頃には一人前に仕事が振られ休みなどお構いなく納期に振り回されるようになった。

その頃には研磨も大学生をしながら配信者として活動していたり、会社を立ち上げたりと忙しそうにしていて生活リズムが私とは逆転していた。思えばそれが終わりの始まりだったのかもしれない。


研磨からは殆ど業務的な連絡ばかりで、どうでもいいようなメッセージは私から。だけどお互い忙しくなるにつれて、配信の邪魔してはいけないという気持ちもあり自ずと連絡をすることが減っていって。社会人になって四年が過ぎる頃には最後の連絡が一ヶ月も前、二ヶ月も前と、繰り返し延びていった。


最後に会ったのはお正月に研磨の家へ二泊三日で泊まりに行った時。
その間はいつも数時間配信しているところを早く切り上げて私との時間をつくってくれた。

『…?配信もう終わったの?』
『お正月だしね。…○○と一緒だし』
『ふふ、嬉しい。ありがとう』
『別に、おれがそうしたいだけ』
『それが嬉しいの』
『…○○、』

髪を耳にかけて唇を落とせばそれの合図で。肌を重ね彼の熱を感じ、会う時間が少なくなってもやっぱり好きだと確認した。頬をなぞる彼の手も、珍しく余裕のない彼の瞳も、貪るように重ねた唇も、自分へ向けられた行為全てが愛おしかった。



…あれからもう半年以上。彼とのトーク画面は下へ下へと押し込まれていて。このまま自然消滅するのではないだろうか、もしくはもう付き合ってる関係性とは言えないのではと虚しさを覚える。
そんな中でも彼の声が聴きたくて。KODZUKENチャンネルは配信時間が合えば明日の準備をしながら、ウトウトしながらBGMのように流している。
今日も残業から帰宅すると既に配信が始まっていて、家事をしたりお風呂に入りながら流していた。

"顔出しの予定ありますか?"
『大盛ぬっこさんスパチャありがと。顔出し?うーん今のところは考えてないかな』
"ご飯沢山食べてゆっくり休んでください"
『ハスキーさんスパチャありがと。そうだね、ちゃんと休む時は休むよ』

厳選してるとはいえ、沢山のスパチャを読む研磨。
ずっと隣にいたのに、学生の頃は離れることなんて考えられなかったのに。彼の声が聴きたくて見ているが、その画面に映る彼を見てその存在がとても遠く感じた。

『もう二回くらいやったら終わろうかな』

そう話している研磨の配信を流しながら眠りについた。

* * *

「え、転勤…ですか?」
「そう。地方に会社を立ち上げたことは知ってるよね?」
「はい」
「そこで技術の指導者が足りなくてね。○○さんにお願いしたいんだけどどうかな」

出社するなり上司から呼ばれ、突然転勤の話が浮かび上がった。聞けば転勤先は東北の雪国で、一・二年ほどで今の職場に戻っては来れるとのこと。ただ海を渡るわけではないが、簡単にこちらへ来れる距離ではなくなってしまう。不意に研磨のことが頭を過り、すぐに返事ができなかった。

「出来れば来月には行ってもらいたいんだけど、今すぐにとは言わないから二・三日考えてみてくれるかな」
「…はい」

一日仕事が手につかないまま、その日は帰宅した。一人になってゆっくり考えたが、現時点で殆ど会えていないのだから私が転勤したところで何も変わらないのでは。今では自然消滅と言ってもいいほど連絡も取ってないし、物理的な距離も出来れば私も研磨に対してきっぱりと諦めがついてこの中途半端な気持ちにも関係にも区切りをつけられるだろう。決めた。

「…転勤しよう」

次の日転勤の意向を伝えると喜んで手続きを進めると言ってくれた上司。
転勤前一週間は引っ越しの準備や移動でお休みをくれるらしい。しかし転勤日まで時間がない私は、意向を伝えたその日から引き継ぎや荷物をまとめる準備に追われた。


気づけばあっという間にその日は迫っていて、部屋の中にどんどん段ボールが増えていく。

「…あっ!!」

やばい、と思った時にはもう遅かった。明日引越しだというのに画面がバキバキになったスマホ。バックアップいつしたっけ、なんて思いながらそれを眺め溜息をつく。

その日のうちに急いでショップへ向かい、新しい機種を購入。ついでに迷惑電話が多くなっていたので電話番号も変えてもらった。全ての引き継ぎは一時間以上かかるとのことで、断り帰宅。
…疲れた、アプリ入れ直さないと。
電話帳は引っ張り出せたので、最初に連絡用のアプリを入れた。同期しないと、と思いながらもまっさらなトーク画面を見つめる。

「…消そうかな」

同期する前にいっそのこと研磨の連絡先を消してしまおう。今のIDを少しの期間残したまま自分のIDを作り直せば、彼との連絡手段が断たれるしすぐに気づかれることもない。鉄朗に罪はないけれど彼が知っていればきっと研磨には知られてしまうので鉄朗の連絡先も一緒に。

"研磨"削除しますか?
"はい"

ボタンひとつで連絡の手段が断たれる。なんて簡単なのだろう。
電話番号も変わり、明日には引っ越す。連絡先も削除して、これでもう次に進む覚悟はできたはずなのに。彼との思い出は消えないし、長い間抱いていた好きという気持ちも簡単に忘れられるわけではない。

連絡先がわからなくなったことを、彼はいつ気づくのだろうか。一ヶ月後か半年後か、一年先なのか。…そもそも私のことを思い出してくれるのだろうか。
そんな虚しい気持ちを抱えながら、彼の連絡先が消えたスマホを眺めた。



気持ちに踏ん切りが付かなくても時間は待ってはくれない。でもそれが今の私にはよかったのかもしれないと、そう思った。

慌ただしくも引越し先は会社で借りてるアパートだったため、すんなり終えることが出来た。今までの所よりいくらか広いワンルームの部屋に段ボール箱が積まれていたが、数日かけて荷解きをして普通に生活が送れるくらいには片付いた。

車がないと不便な土地だが、会社で車をレンタルしてくれるらしく買い物にも困らない。そういう所だけは手厚いんだよなぁなんて、近場を散策しながら思った。
慣れない土地に不安も大きかったが、偶然にもこっちに嫁いできた友達もいたので少し気が楽になった。…会えるかどうかは別問題だけれど。

「これで全部、と」
「…〇〇?」
「え、涼くん?」
「久しぶりだな」

食料品の買い出しが終わって帰ろうとした時に声をかけられ振り向けば中学の同級生がそこにいて。

「なんでここに?」
「こっちに1年前くらい××って会社できたんだけど。立ち上げの時に声がかかって転職してきてさ」
「え!?私本社から指導者としてそこに転勤になったの」
「ははっ、すげー偶然。でかい会社だから関わりないとわかんないもんだな」
「ほんとに。でもこれから同じ職場になるんだし、よろしく」
「おぉ、すれ違った時無視すんなよ」
「するわけないじゃん」

何あった時にとその場で連絡先を交換し、じゃあまたねと別れた。
久しぶりとはいえ、初めての土地で小中学校が同じだった顔見知りの人に会えたのは心強い。トーク画面に新しく表示された男の人の名前が何だか新鮮だった。


『ねぇ研磨、連絡先交換しない?』
『別にいいけど…あんまり返信とかしないよ』
『全然おっけー!だけど…』
『?』
『ゲーム行き詰まった時だけは攻略法の返信お願いします』
『ふっ、何それ。いいよ、おれにわかることなら』


…それから一年くらいで付き合ったんだっけ。こんな時まで思い出すのはやっぱり研磨のことで。見慣れた名前がないのには大きな違和感が残った。


―――――…


こっちに越して来たときは初夏だったが、新しく指導者としての業務を覚えこなしているうちあっという間に雪が積もる季節になって。連絡先を削除してから半年以上、最後に彼と会ったお正月から一年以上経ってしまった。

ここの職場は本社ほど忙しくはなく、勿論納期によるが月の半分は定時で帰れることも多かった。心に余裕が出来た分、思い出すのは研磨のこと。連絡先を削除し姿を消したのは自分からだと言うのに、長年の付き合いとは厄介なもので笑ってしまうくらい心の奥に彼との記憶が染み付いたままだった。越してから研磨のチャンネルは全く見ていないのに、鮮明に思い出せる彼の声に話し方。

「…辛い」
「まぁ、分からなくもないな」
「嘘、涼くんモテるから女泣かせる側でしょ」
「お前は俺にどんな印象を…」

彼は失礼だな、という顔をしている。涼くんとは時々こうやってサシ飲みする仲になった。関係の無い部署だからこそ話せることや、今までの事を知らないからこそ研磨に未練たらたらな私の話を偶にうんうんと聞いてくれる。

「もう連絡したらいいじゃん、あっちの方が待ってるかもよ?」
「それは無い…し、連絡できたら苦労しないって」
「いくらあっさりしてるとはいえ、好きな相手が蒸発したら不安になるけどね」

言い方、とは思ったが研磨がそう思ってくれていたならどんなに嬉しいか。

「それに有名な配信者、だっけ?だとしても相応しいかっていうのを決めるのはお前だけじゃないだろ」
「え?」
「相手にだって選択する権利はあるでしょ」
「…ド正論やめてくれませんかね」

…ぐうの音も出ない。ただそれを言われても、やっぱりこれでよかったのかもしれないと思う気持ちもあって。
大学生になった彼は自分の生きたい道を着々と切り開き、プロゲーマーやYoutuber、株式トレーダーに、取締役なんて肩書きまで付いた。それについて自分が彼に釣り合う人間では無い、と勝手に劣等感を抱えていたのも事実。これをきっかけに研磨に相応しい人が現れたら、とも思っていた。…それはそれで胸を抉られるほど辛いし、暫く立ち直れないけど。

「…ハイスペ女子だったらこんなに悩まないのに…」
「そうかな。そのままの〇〇だからいいと思うんだけど」


『○○って隠し事下手だよね』
『え、そんなに顔に出てる?研磨見習ってポーカーフェイスの練習するね』
『えー…○○はそのままでいいよ』


ふと、彼の言葉でそんな会話を思い出してしまった。あの頃はずっと研磨と一緒にいるものだと疑わなかったのに、大人になり学生の頃には見えなかったものが沢山見えて。表面上の対応や、上手な嘘のつき方を覚えたと同時に"そのままの私"に対する必要性も自信も段々と失われていった。多分、そのままが一番難しい。

「…今日、いつもより優しくない」
「俺はいつもこうですね」

空になったグラスの氷が、からりと音を立てて溶けた。


―――――…


「大分暖かくなってきたな」

三月も後半だというのに、この地域ではまだ雪が残っているのが普通のようで。なんならたまに雪が降るくらい。
明日は休みで予定もなく引き籠るつもり。晴れている今日のうち仕事が終わりに買い出しし帰宅。すぐにシャワーを浴びてゆったりとした部屋着に着替える。ゲームのお供におにぎりとコンビニスイーツと飲み物、休みを満喫する準備ができた。納期から解放されたこのひと時がたまらない。
ローソファーに腰をおろし、ゲームのスイッチを入れた。

ピンポーン

「!?」

もう二十時も回ったこの時間、思いがけず鳴るインターフォンに驚いてドアの方を見た。あれ?涼くん何か用とかあったっけ、とスマホを見るも彼とのトーク画面は前回サシ飲みをした時から更新されていない。かといって何か荷物を頼んだ覚えもない。びっくりしている間に画面は消えてしまい誰なのか確認もできなくなってしまった。

「…こわ、誰?」

ピンポーン

少し間が空き、もう一度鳴った。今度はすかさず画面の方へ顔を向けると、目を疑うような人物がそこには立っていて。心臓がドクドクと脈打つのがはっきりとわかった。
どうして?なんでここがわかったの、これは…夢?

『おれ…研磨、だけど』

インターフォン越しの彼の声を聴いてぶわっと感情が込み上げる。喜び、動揺、疑念、期待、どれだと聞かれてもこれだとはっきり答えることができない。

『…○○?』

私を呼ぶ彼の声で我に返る。慌てて玄関へ向かい鍵を外しドアを開けた。

「けん…ま…」
「…久しぶり」
「なんで…」

東京から何時間もかかるこの地方に、目の前に、研磨がいる。離れても好きな気持ちが消えなくて、心の底では会いたいと願ってやまなかった彼が私の前に現れて。言いたいことも聞きたいことも沢山あるのに、上手く言葉が出てこない。

「…寒いから、入れてもらってもいい?」
「あ、うん、ごめ…汚いけど…」
「大丈夫、○○のことだから綺麗にしてるでしょ。お邪魔します」

研磨が家に入ってまた鍵を閉める。彼が私の部屋にいる光景が信じられず、じわりと込み上げそうな涙を堪えた。ソファーへ座るように促し、彼に温かいアップルティーを用意する。私も買ってきた飲み物を手にして、すぐ横のベッドへと腰掛けた。…なんだか、最後に会った時よりも少しやつれているようにも見える。

沈黙が流れ、テレビに映っているゲームの音だけが部屋に響く。何から聞けばいいのか、研磨が今何を考えているのか、表情から読み取ることはできなくて。一緒にいてこんなに気まずいのは初めてかもしれない。

「…元気そうでよかった」

その沈黙を破ったのは彼の方だった。

「研磨は、少し痩せた?」
「まぁ…少しね」
「忙しくてもちゃんと休んで食べなきゃだめだよ」
「………ハスキー、」
「…?」
「ハスキーでスパチャ投げてくれてたの○○でしょ」
「っ、それ、は」
「今の言葉、よく飛ばしてくれてたよね。確証はなかったけど、いつもゲームよりおれの体を気遣ってくれるコメントしてくれてたし」

ハスキー犬好きって言ってたでしょ?そう寂しそうに言う研磨の表情に胸が締め付けられ、無言で頷くことしかできなかった。

「…ごめん、おれ、○○にずっと甘えてた」
「え?」
「会えなくてもおれたちなら大丈夫って思ってた。連絡も○○からくれるし、連絡もしようと思えばいつでもできるし会えるって」
「…」
「でも○○と連絡が取れなくなって、居場所もわからなくなって、初めて当たり前じゃないって気づいた。このまま終わるのかって思ったら…怖くなった」

ばかだよね、と眉尻を下げて笑う彼。
違う、悪いのは研磨から逃げた私だ。研磨は悪くないし、そんな顔をさせるために目の前からいなくなったんじゃない。そう言いたいのに言葉が詰まって出てこない。そのくせ自分の意志に反して堪えていた涙は落ちてくるから厄介だ。

「ごめ…っ、泣かせるつもりじゃなくて」
「…違う、ごめん、私の方が、ごめんなさ…」

一度落ちると溢れんばかりに落ちる涙。自分の体なのにそれを止める術を私は知らない。

「…ごめん、嫌だったら言って」

私のすぐ横に座り、優しく包むその腕。嫌なわけないじゃん。離れると決めたのは自分なのに、何度またこうしてくれることを願っていたか。あんなに遠かった研磨が今はこんなにも近くにいる。
私が落ち着くまでそのまま、抱き締めて背中を優しくさすってくれていた。

―――――…

「…落ち着いた?」
「ん、ありがと…」

ぐずぐずしている鼻をティッシュで拭き取り、鼻声ながらも話せるくらいには落ち着いた。一年以上振りの再会がこれなんて、恥ずかしい。

「…あ、研磨時間大丈夫?もう配信の時間じゃ…」
「一週間は休むことにしたから気にしなくていいよ」
「…ごめん」
「なんで謝るの。おれがそうしたくてしてるんだから」

そう言って優しく頭を撫でる研磨の手に、これ以上にない安心感を覚える。温かくて、優しくて、ずっと…ずっと忘れられなかった彼の手。

「…どうしても○○と話したくて。もしかしたら本当におれのこと嫌いになったのかもって思ったけど、でもこのまま別れるなんて嫌だから」
「ちが…!研磨のこと嫌いになるなんてない。絶対」

私の言葉に目を大きく開いたと思ったら「よか…ったぁ…」と小さく呟き、顔を両手で覆う研磨。それを皮切りにポツリポツリとお互い話し始めた。

生活リズムがすれ違った頃から、配信の妨げにならないように連絡を避けていたこと。忙しくて休みの予定が立てられず、余計に私から連絡ができなかったこと。研磨から連絡が来ることもなく、段々と埋もれていくトーク画面に虚しさを覚えたこと。

そして、研磨が…遠い人に感じたこと。時間が許される今だから、こうなってしまったからこそ思っていたことを全て話した。ただただじっと私の目を見て、研磨は話を聞いてくれた。

「おれはさ、○○から連絡くれるから自分からはいいかって思っちゃってたし、確証もないのにもらったスパチャで何となく繋がってる気になってた」
「うん、」
「○○も仕事忙しいの知ってるから、わざわざ夜中に連絡して起こしたくないっていう気持ちもあった。…でもそんなの言い訳にしかならない、ごめん」
「ううん、だって私を気遣ってくれたんでしょ。ありがとう」
「でも○○の連絡先が消えてたのクロに言われて気付いた。最低だよね、彼氏なのにすぐ気付けなくて。気付いた頃には居場所もわからないなんて」

その時初めて知った。心にぽっかりと穴が空くって、こういう事を言うんだ。って。
今まで当たり前に手の届くところにいた人が何も言わず突然消えてしまった時の喪失感や、不安でご飯が喉を通らないなんてもう懲り懲り。

「だから…おれの前からいなくならないで」

愁いを帯びた瞳で私の頬へと手を添える研磨。私が拒絶するわけないのに、その手は微かに震えているようにも思えた。その彼の手に自分の手を重ね、優しく握る。

「…逃げて、ごめんね」
「おれこそ、気持ちに気付けなくてごめん」
「ふふ、なんか謝ってばっかりだね」
「…そうだね」
「研磨、やっぱり好きなの。離れても全然忘れられなかった」
「おれも、○○が好き」

"好き"なんて言葉、研磨は滅多に言わないので驚いた。少し照れてる研磨とおでこをこつんと合わせて小さく笑う。

「あのさ、おれがどうなろうと一緒にいたいと思うのは有名人でもなければ何か肩書がある人でもない。○○だけ」
「…っ」
「劣等感とか感じないで。ずっと隣にいて欲しいと思ってるんだから」
「なんか、プロポーズみたいだね」
「…そうかも」
「…!ふっ、」
「ちょっと…なんで笑うの」
「かも、ってところが研磨ぽくて」

頬を赤くしてむすっとそっぽを向く彼に、懐かしさを覚えた。こんな風に笑っていたなとか、こんな風に話してたなとか、あの頃の空気感が戻った気がして。

「それでなんだけど、一緒に住まない?」
「え、でもまだ私暫く帰れないよ」
「うん、だからこっちで」
「…どういうこと?」

私の居場所はもっと早くにわかっていたらしい。だけど本当に嫌いになってたとしたら連絡をしても無視をされてしまうかもしれない、中途半端に来てもまた同じことになるかもしれないと考えた彼は自由になる大学卒業の今まで待ってこっちに部屋を借りる準備をしていたとのこと。

「だから来るのが遅くなった…ゴメン」
「え、だって私が嫌だって言ったらどうしたの?」
「その時は…その時考える」
「ははっ何それ」
「…笑わないでよ」

研磨の仕事を心配すれば、器材があればどこでもできるから問題ない、と。

「それより、一緒に住めば生活リズムが逆転してようが毎日会えるでしょ。そっちの方が大事」
「……―っ、ずるいよそんなこと」
「ふっ、今度は泣くの?忙しいね」
「誰のせいだとぉ…」

そう言って笑う研磨から願ってもない言葉が出てくるとは思いもよらなくて、緩くなった私の涙腺はまた懲りずに涙を押し出してくる。
彼の指が私の涙を拭って、ゆっくりと距離が縮まる。啄むように何度も角度を変えて重なる唇。それだけじゃ物足りなくて、小さく隙間を開ければぬるりと侵食する彼の熱が私を絡めとる。苦しい、けどいつまでもこうしていたいとさえ思った。

息が続かず唇を離すと、どちらともない唾液が顎へと伝う。

「自分から開くなんて積極的だね」
「っ、言わないで…」

彼は髪を耳にかけて触れるだけのキスをする。

「…いい?」
「ん、」

まだ聞きたいことは沢山あるけど。不安も、寂しさも、切なさも、抱えてきた負の感情は全て夜に融けて。彼のそれに応えるように背中へと腕を回した。