「…理由、聞いてもええか?」
「………」
「言いたくないなら無理に言わんで。…わかったから」
彼と別れる時はひどくあっさりとしたもので。
だけど最後まで彼の声は優しく、私の心にしこりを残した。
―――――…
『転勤、ですか』
『そう、悪いんだけど四月から本社に三年くらい。後で正式に通知でると思うから』
『…もう決定ですか?』
『ほぼほぼ決定になるかな。本社の方で人手が足りなくて…何か行けない理由があれば変わるかもしれないけど』
『そうですか…でもはい、心に留めてはおきます』
『こっちもギリギリだからやめてって言ったのに…ごめんね。何かあったらすぐ相談して、出来ることはするから』
そう話をもらったのが一月のことだった。
懸念があるとすれば、その間信介とは離れてしまうことで。信介は仕事柄こっちを離れることができないのは重々承知。だけど今半同棲の状態なのに、三年も遠距離のまま付き合い続ける自信が私にはない。
しかも今の歳で三年という月日は私にとってはとても長く、戻ってきた時には二十代も後半。本当に言われた年数で帰ってこられるかも分からないのに、二つ返事で行きますとはあの場で言いきれなかった。今の仕事は好きだけど、転勤となると少し考えてしまう。
"何か行けない理由があれば"という上司の言葉が、胸に引っかかった。
『…信介、ちょっと話があるんだけど』
『どうした?』
『会社から転勤の打診があってね、三年くらい東京の本社に。ほぼ確定事項ではあるみたいなんだけど…』
『いつから?』
『次の四月からだって』
『…そうか、すごいな〇〇は。寂しなるけど俺も会いに行くわ』
賞賛と激励。信介が心からそう言ってくれていることがわかるから、喜ぶべきであることを頭の中では理解している。でも今の私には心に鉛が落とされたような気分で。伝えようと思っていたこと全て飲み込み『…だね、頑張るよ』と、そう言葉を捻りだすのが精一杯だった。
信介は純粋に応援してくれているだけ、わかっている。受け身なだけではいけないのもわかっている。だけど、それでも私をどん底に突き落とすには十分すぎる言葉で。
もしかしたら信介の将来に私の姿はないのかもしれないと、そう思った。
―――――…
その後正式に会社から通達がおり、転勤することが確定して。そこからは引継ぎや引っ越しの準備に追われ、目まぐるしい日々を送った。
信介と離れる日が刻々と近付くもなんとなく転勤についてはお互い触れずに過ごし、特にこれと言って生活に変化が訪れるようなきっかけもなかった。それが無性に寂しく辛く、彼といることより別れることを考えるようになっていった。それについて早く告げなければと思うものの、先延ばしにして今日が会える最後の夜になってしまった。
いつも通り他愛のない話をして、ご飯も食べ終わり信介が洗い物をしてくれている。
刻々と近付くタイムリミットに私の心臓がどくどくと脈打つ。もう今のタイミングしかない、と煩く鳴る心臓を押さえ彼の隣に並んだ。
「信介…?」
「どうしたん、そろそろ帰らんとやろ?休んどってええよ」
「ううん、違うの伝えたいことがあって」
「おん」
「…あのさ、距離おかない?私たち」
洗い物をしていた彼の手がピタリと止まり、目を見開いてこちらに視線を移す。
重い空気の中、流れる水道の音だけが部屋に響いた。
「…理由、聞いてもええか?」
「………」
「言いたくないなら無理に言わんで。…わかったから」
「ごめん」
「何か思うところがあるんやろ、謝らんで」
そう言ってまた信介は手元へ視線を戻す。表情が変わらず彼が今何を考えているのかはわからない。じわりと涙が込み上げるも、今泣いたらせっかく伝えたのが水の泡だと何とか堪えた。
玄関を出るまで信介はそれ以上私を問い詰めることもなければ、怒ることも引き止めることもなく。別れる時はひどくあっさりとしたものだった。それが余計に彼の中での私の存在が大きなものでなかったと証明するようで、胸を締め付けられる。それなのに最後まで私へかける彼の声は、どこまでも優しかった。
「信介、今までありがとうね」
「それはこっちのセリフや、ありがとう。あっちでも頑張ってな」
「うん。信介も体に気を付けて」
「おん」
別れの挨拶をし、彼の家を背にすれば堪えていた涙が溢れるように流れる。
もしも自分の気持ちが素直に言えていたら、信介の見ている未来に私の姿があったら、また違う道があったのだろうか。でもそんなことを思ってももう遅い。
とめどなく流れるそれを拭ってくれる手はなかった。
*
「―っさむ」
あれから信介へ連絡をすることも連絡が来ることもなく半年以上が過ぎ、あっという間に季節は冬。時間は経てど、まだ信介への想いは消えないままで。あの時どうしたらよかったのだろうと何度も思い返すが答えは見つからない。でも彼の描く将来に元々私がいないのであれば遅かれ早かれこうなっていただろうと、悩んだ都度自分を納得させた。
"着いた"
スマホの画面を見れば、治くんからのメッセージ。こっちで出張販売をするため東京にいるから飲みに行かないかと連絡をくれた。彼はおにぎり宮の店主さんで、私と信介が付き合うきっかけにもなった人。彼とは今でもたまに連絡を取っている。
今いる本社から関西へ転勤となった私は、おにぎり宮を見つけた。慣れない土地と仕事に疲れて自分でご飯を作る気力も起きないけれど、美味しいものが食べたい。ふらりと立ち寄ったお店がそこだった。
お一人様で通い続けるうちに常連から治くんと仲良くなり、信介とは相席をきっかけに話すようになった。おにぎり宮にお米を卸している人で、治くんの先輩だと紹介をしてもらって。特に何をしたわけでもないが、話すうちにお互い惹かれて付き合うことになった。
…まさかこうなるとは夢にも思わなかったけれど。
信介と別れてから治くんにも初めて会う。…なんだか緊張してきた。
お店に入って治くんの姿を探すと、先に私を見つけた彼が手を振ってくれて。狭い居酒屋の通路をぶつからないように進み、席へと座った。
「久しぶりやんなぁ」
「ほんとに」
「とりあえず何飲む?ビール飲めへんよな」
「あ、うん。梅酒ロックで」
「おん、すみませーん」
お酒とおつまみを注文し、すぐに出てきたお酒とお通しで乾杯する。
「治くんは元気そうでなにより」
「○○はそう見えへんけどなぁ」
「…はは、わかる?」
「わからん方がおかしいやろ」
ぐっとビールを半分ほど飲んで、治くんは続けた。
「…何がそうさせたん?」
「え?」
「北さんと別れたん、何でなん」
「…」
治くんの問いかけに答えることができず梅酒を半分ほど流し込んだ。お酒に弱い私はほんの四分の一飲んだだけでも顔が赤くなるというのに。
「なんでって、治くんには関係ないでしょ…」
「せやけど…北さんもあんたも放っておけんやん」
「…どうして」
「北さんから別れたって聞いたの最近なん」
「!?」
最近って言ったって、もう別れてから半年以上も経つのにどうして。言葉が出ない私を横目に、治くんは続けた。
○○の様子を聞いても何となくはぐらかされていたことに薄々気付いてはいたが、深くは踏み込まなかった。北さんが言ってくれるまで待とうと。そして冬の初めにその時が来た。
出荷などが終わり少し落ち着いた頃、北さんから俺のところで閉店後に個人的にに飲ませてもらえないかと連絡が来たという。プライベートで飲む時は居酒屋など外に行っている為、何か話があるんじゃないかと二つ返事で了承した。
『俺、○○と転勤前に別れてん』
『…せやったんですね』
『治にはもっと早う言わなあかん思たけど、気持ちの整理がつかんくて。…何がいけなかったんやろな』
いつもはゆっくり飲む北さんが、買っておいたお酒をグラス二杯速いペースで飲み終わった頃。ぽつりぽつりと話してくれた。
『春から秋は忙しかったから日中は気紛れたんやけど』
『はい』
『それでもな、家に帰ると毎日○○の顔が浮かんでん。今頃何してんのやろって』
『…』
『転勤や聞いて実は動揺してん。やけど○○は今の仕事好きやし、俺の都合で引き止めるのもちゃうなって。ずっと一緒におりたいから大切にしてたんやけど…つもりやったんかな』
『…二人の間に何があったかわかりませんけど、北さんが大事やと思てる人を蔑ろにする人じゃないことくらい俺でもわかります』
『…はは、ありがとう。お前に励まされるなんてな』
そう言葉を紡ぐ北さんは焦燥した様子で見ていられなかった。
「…嘘」
「俺がこんな作り話すると思てんの?」
「思わない、けど…」
「○○だって一目見ればわかるわ、北さんのこと忘れられへんのやろ」
今更だ。ここでそんな話を聞いても今の私にはどうすることもできない。
…本当はわかってた、私を呼ぶ声も、抱き締めてくれる温もりも、落ち込んだ時に慰めてくれるあの優しい手のひらも。信介の気持ちを全身で感じていたのに。転勤というイレギュラーなことが起き、自分の不安ばかりで信介の気持ちには気付けなかった。
「…本当にバカだ」
「ええやん自分がアホやったことに気付けて」
「何も言い返せない」
「アホや気付いたんならちゃんと話しや」
「はぁ?今更遅いよ、もう全部…」
「おそない」
「……え」
忘れられなかったその声に、肩に優しく置かれる手は酷く懐かしい人のそれで。声の方を向けば、いるはずのない人がここにいた。思いもよらないことに視界が滲む。
「よかった、着いたんですね」
「おん、治ありがとう。○○連れてってもええ?」
「はい、今すぐにでも攫われたくて仕方ないみたいですよ」
「さよか」
信介はテーブルに二人分の飲み代を置き、私の腕を掴んで立ち上がらせ自分の方へと引き寄せた。
「今度お礼するわ」
「じゃあまた二人で俺の店来てください」
「…せやな」
そう言ってお店を後にした。
*
「出てきたのはええんやけど」
「…?」
「土地勘ないから二人になれる場所わからん…」
「この近くの公園なら少し風よけもある椅子あるから」
「そうか、案内してもらってもええ?」
「うん」
こうして並んで歩くのも久しぶりで、信介の手の温度に心臓が駆け足で動く。別れを切り出した時のそれではなく、やっぱり彼が好きだと叫んでいるようだった。
「…ちょっと待っとって」
椅子に座るなりどこかへと行く信介。一人になるともしかして夢なのかな、なんてぼんやりと思った。でも確かに感じた彼の手の熱も、耳に残る優しい声も、今の彼のもので。消えないようにぎゅっと手を握りしめた。
「どうぞ、今白湯なんて売っとるんやね」
「あ、ありがとう」
流れる沈黙の中、ペットボトルを開ける音だけが響いた。何から話したらいいんだろう、どう切り出せばいいのだろう。いざその場に直面すると上手く言葉が出てこない。「○○」と、私の名前を呼びこの静寂を破ったのは信介の方だった。
「…何から話したらええのか、わからんな」
はは、と彼は力なく笑って見せるがそんなの私だって同じだ。信介の顔を見たら、話したいことや伝えたいことが溢れてくるというのに。何一つとして言葉に出せていない。
信介が隣にいる、それを実感しじわりと涙が込み上げ思わず彼の手に自分の手を重ねる。彼は静かに私の手を握り、零れた涙を拭ってくれた。
「すまんな、泣かせる為に来たわけやないんやけど」
「ちが…ごめん、ごめんなさ…っ」
「大丈夫、謝るようなことしとらんから」
私の背中に手が回され、信介の方へと引き寄せられる。彼の胸に顔を埋めると懐かしい匂いが鼻腔をくすぐって、それもまた私の涙腺を刺激する。「ゆっくりでええから」なんて頭を撫でながら言う彼はどこまでも優しくて。嬉しさと、罪悪感と、彼に対する好きだという気持ちが混ざり合った。
「――…落ち着いた?」
「ん、ありがとう」
今、ようやく信介の顔をちゃんと見た気がする。彼の頬を手のひらでなぞれば、目を細め「どうしたん?」と笑って。言葉も殆ど交わしていないけれど、二人の間にあった空白の時間がじわじわと埋まっていくのを感じる。
「ずっと、後悔してた」
もう少し素直に気持ちを伝えていられたら。信介と離れたくなかったこと、転勤を断ってもダメなら転職しようかと考えていたこと。でも純粋に応援してくれてるのがわかるから言い出せなくて。…信介は私と離れても平気なんだなって勝手にそう思って、ただただ寂しかった。
「でもこれは信介のせいじゃないから、絶対。私の気持ちの問題で」
「…俺もな、ちゃんと言うたらよかったんかなって」
転勤の話を聞いた時、正直動揺した。だけど○○の仕事の足枷になるのが嫌やったから"一緒におってほしい"ってのどまで出かけたけど、飲み込んでん。でもその後それが間違うてたかもしれない、あの時少し曇った表情の意味に気が付いていればって後悔してな。言うタイミングなんかなんぼでもあったのに。
「違う、私が信介の気持ちに気付いてたら。自分のことばっかりで、本当にご」
言葉を制止するように、彼の人差し指が私の唇へと当てられる。
「それはお互い様やから、謝らんで」
「…信介」
「ん?」
「今更だけど…距離おこうって言ったの取り消してもいい?」
「おん、俺もそう思っとった」
「信介ぇ…」
「はは、泣き虫さんがおるな」
私の頬を両手で包み込み、親指の腹で涙を拭い静寂が流れる。それが合図となり、そっと目を閉じれば柔らかい触れるだけの口付け。顔を見合わせまたどちらともなく深く唇を重ねた。久しぶりに感じる信介の熱に、脳内が甘くとろけるような感覚に陥る。
「…っは」
「ふっ、ほんまに可愛えな」
まるで壊れ物にでも触れるように私の髪を梳くその手つきが好きで、いつまでもこうして欲しいとさえ思う。
「なぁ、転勤て三年間絶対戻って来れん?」
「え、どうだろう…一応毎年、年度末に継続かどうかの面談はあるって言ってたかも」
「…戻って来ること、考えてくれへん?」
「私も戻りたい、けど…」
「再度転勤が無理なら、○○が良ければ寿退社もええんやないかなって」
「…!それって」
「俺の嫁さんになってください」
熱いものが込み上げ声を出すことができなくて、思い切り首を縦に振った。
「はは、ほんまよう泣くなぁ」
「だ…誰のせいだと思ってぇ…」
上手く言葉に出来ない私を信介は笑いながら抱き締めてくれて。私たちの時間がまた動き出した。
―――――…
(後日談)
その後面談で結婚の話と地方へ戻りたい旨を面談で伝えると、元の上司は大喜びで本社の人を説得してくれた。年度始めすぐは難しかったが夏には戻ることができ「もう本社に行かんでもええ理由できたな!」「おかえり!」とみんなが迎えてくれて。なんていい職場に恵まれたのだろうと心底思った。
* * *
「やっぱり二人一緒が似合うてますよ」
「へへ…ありがとう」
「迷惑かけたなぁ、治」
「俺らは北さんに迷惑かけっぱなしやったんで気にせんといてください」
「否定はできんな」
「まぁ、これから二人でまた常連になってくれたら嬉しい思います」
「そうだね、またこれからよろしく」