相容れない









『問題ありません、大丈夫です。
 近界民は "死んでも" 止めるので』




 冗談でもなんでもない本気の言葉である事を、どれだけの人間が知っているだろう。騒つく心の中で、犬飼澄晴はただ、少女の成功を祈るのだ。








 『乙女フィルター』なるものをご存知であろうか。犬飼澄晴は17の時。そう。たしか高校2年の夏頃。それを己の身をもって知った。最初から好きだったわけではなかったし、最初はどちらかといえば、それほど興味があったわけでもない。ただ、己の部隊長を恐ろしく慕っている後輩。その程度の存在であったのは間違いないのだ。そんな犬飼澄晴の乙女フィルター改め乙男フィルターが急激に苗字名前を光らせはじめたのは、苗字名前のなんて事のない一言からであった。

 『誰にでもにこにこしているのは先輩の専売特許ですね。あまりにも徹底しているものだからいっそ清々しいですが。』

 あまりにも突然ぶつけられたその言葉に犬飼澄晴は一瞬、自分にぶつけられた言葉なのかという部分でつまづいたけれど、うまいこと咀嚼して受け止めてみれば、その時の場において自分以外にその言葉を投げられそうな人間がいないのだから当然自分に向けられたのだろう事に気が付いた。




「名前ちゃんは、いっつも顰めっ面してるけど、にこにこしていた方がモテるよ〜」
「ご親切にどうも。でも、先輩はモテたくて笑っているわけじゃあないですよね」
「御名答。にこにこしてると、無駄に敵が生まれないから便利で板についちゃったんだよね」




 姉2人からの英才教育であるという言葉は敢えて伏せた。苗字名前の家庭環境は複雑だという噂を全面的に信用した上での犬飼澄晴の最適解である。事実、それは最適解であったのは間違いない。数分間に及ぶ沈黙を経て、苗字名前は向き合っていた星輪女学院の過去試験問題集をパタンと閉じて犬飼澄晴をジッと見つめてから「愛ある衝突は理解されるとも思います」と言った。

 その発言に目をぱちぱちと数回瞬かせた犬飼澄晴は自分の後ろで課題と睨めっこしている鳩原未来に視線を動かして、それを名前ちゃんがいうんだなあ、という感想と共に苗字名前に視線を戻すが、その意味ありげな視線の動きを苗字名前が見逃しているはずもなく「私は好かれたいわけではないので」と口にしてから「衝突を避けるのも得意じゃないです」と言って困ったように笑ってから、このように述べ、困ったようにわらってみせるのだ。




「でも先輩なら上手く立ち回れるでしょう」




 思えば、はじめて笑った顔を見た気がした。
 実際にはじめて見たかどうかというのは問題ではない。それに、見た事自体は当然あった。けれど、その顔を自分ひとりに向けられたことはただの一度だってなかった。だから、はじめて見るその顔とその言葉にいたく心を打たれたし、特別な何かを感じた。それは当時も今も、犬飼澄晴本人にだって否定はできないだろう。それから、犬飼澄晴は人が変わったように苗字名前を執拗に構いたがった。それまでの二宮隊の彼女への接し方はとてもじゃあないが、丁寧には程遠いものであった。理由は単純である。選ばれた者と、そうではない者だからである。単にソレが『そうではない者』という簡単な括りにいる人間であれば、そうはならなかっただろう。しかし、苗字名前はそうではなかった。自他共に選ばれると信じて疑わなかった者だからこそ、扱い方がわからなかったのである。

 その決め手は間違いなく、鳩原未来への攻撃的なあの一言に他ならないのだけれど。






 犬飼澄晴がソレを聞いたのは、偶然であった。本当にただの偶然が犬飼澄晴の耳にソレを入れた。『苗字名前のサイドエフェクト』。犬飼澄晴は否、犬飼澄晴だけでなく、そのサイドエフェクトの詳細はあまりにも認知されていなかったように思う。所詮はB級の野良隊員の情報であると言われれば納得であったが、それにしたってあまりにも知られていなかったのだ。強力故に何か強い圧力が彼女から戦闘を遠ざけていたのかもしれないと今ならば思う。何故ならばそう。苗字名前という隊員の父親はボーダーに大変貢献しているスポンサーのひとりだから。勿論真偽は今となってはわからないのだから、本当に偶然が長らく彼女を野良の地位に居座らせていたのかもしれないとは思う。




「あのサイドエフェクトは禁止すべきだ。
 あまりにも危険すぎる……!!」
「判断が早計だ。本人が使いこなしたいと望むのなら、それを手助けするのが我々の役目だ」
「城戸司令、それは解って言っているんですか。フルで使えば120秒ともたずにトリオン体を緊急脱出ベイルアウトさせるようなサイドエフェクトだ。それをまだ高校生にもなっていない苗字に制限なしに使わせれば、また以前のような事が起きかねない…!!」




 『苗字』という名前を耳に入れた犬飼澄晴の足は地面に固定されたのかと錯覚するほどに全く動いてはくれなかった。そもそも、体感速度のサイドエフェクトだなんて知らなかった。誰も彼もが『時間変換』と言葉を濁して言うものだから犬飼澄晴もまたその言葉どおりに受け取っていたからである。けれど、それが時間変換と濁して称されたと言うことは、それに類するサイドエフェクトなのだろうことは最早間違いなく、それを想像するのは犬飼澄晴にとっては容易い事であった。それはそうではある。犬飼澄晴は、否、二宮隊は、防衛任務を悉く苗字名前と共に行なっていた。今思えば、防衛任務のメンバーとしては充分な戦力の中に苗字名前の参加が認められていたことこそが不気味な話なのだ。だからきっと、上層部のもっと上からの圧力がそれを可能にしていたのだ。

 そんな廊下にまで垂れ流しで聞こえてくる城戸正宗と忍田真史の白熱した会話の内容は全て、恐らく今後普通にボーダーをやっていたのでは手に入らないような隠しておきたいだろう約束事であふれていた。通常の犬飼澄晴であれば廊下の隅に隠れてまで聞いてやろうという思考には至らなかったに違いないが、今日だけは。苗字名前についての内容だけはどうにかして手に入れたかった。そう思って盗み聞きするくらいには、彼女に心底入れ込んでいたのである。








「ーーーー苗字ちゃん」

 


 だからこその憤りであった。
 
 人型近界民の正確な位置はレーダーで常に確認していた。だから、苗字名前の向かった大体の方向と位置の検討は付いていた。どうなるのかだって、皆検討がついていたはずなのに。それでも彼女を止める事ができないのはどうしてなのか。




「自分のサイドエフェクトでどれだけの反動リターンを受けるかなんて きみが1番解ってる癖に」




 ぼんやりと雲の隙間からさす光が犬飼澄晴にその場所を教えるようにぼんやりと苗字名前の姿を照らしている。笑顔で「やってやりました!」と笑う彼女を見る事ができたのなら、どんなによかったか。地面に座り込んで死人のように顔を青白く染めた苗字名前を見つめて、犬飼澄晴は彼女が意識を保てるギリギリでトリガーをオフにした事実に腹が立つ。

 そのまま緊急脱出ベイルアウトしていれば、誰かが苗字名前の異変に気が付いて、すぐにでも医務室に運んでくれていただろうに、こんな寒い時期に外で倒れているなんて、いっそここで死んでやろうとでも思ったのか。どうかしている。けれど、あの言葉。『死んでも止める』というあの言葉は彼女の本心だった。それが出来なかった自分には価値がないと言う判断だろうか。




「鳩原ちゃんに続いて苗字ちゃんまでおれの前からいなくなられたらさ……」




 苗字名前の前で苦しくなるくらい胸板に膝をめり込ませて、頭の前で祈る様に両手を握る。どうしてこう、おれのまわりの狙撃手は皆揃いも揃って自分勝手なんだ。苗字ちゃんも、鳩原ちゃんも自分とその目的以外なんに見えていないんだ。

 自分がいなくなって悲しむ人がいると心のどこかでは解っているくせに。それなのに。




「ーーー流石にもう…、
 ホントに無理なんだってば……」

 





 苗字名前が目を開けた時、随分と昔に見た天井が視界に入った。大袈裟なのか、そうでもないのか。腕に繋がる見慣れたレモン色の液体を寝たまま眺めて、再度天井に視界を戻す。

 全て夢ならよかったのに。この吐きそうな胃のムカつきと頭痛がただ先程の戦闘が夢ではないと証明するこの状況に涙が溢れそうになる。失敗した。作戦無視に単騎独行、約束破りの病院送り。それからあとはなんだろう。頭が回らないし、単純に今この現状が最悪であることだけはわかる。病院ということは、折角の柿崎さんのランク戦も応援に行けないうえにお母さんに連絡も入っていることだろう。ああ、最悪だ。




「ーーー生きててよかったね」




 犬飼澄晴の姿を見た苗字名前は大変意外そうな顔をした後に「先輩がここに運んでくれたんですね」と言葉を吐き捨てる。余計なお世話だとでも言いたげなその表情に「あそこで死んでおけばよかった?」と、犬飼澄晴が言葉を返した。そんな言葉を今の自分に言えるのだから流石犬飼先輩だと感心した後、名前は「まさか」と呟く。

 その言葉に犬飼澄晴は、ふぅと息を吐いてから「城戸さんはさ、そう簡単に苗字ちゃんを見切ったりしないよ」と、言う。その言葉に名前は天井を見つめたまま、目を丸くする。そして、その後に『それは先輩が自分の失敗をしらないからだろう』と言葉を続けようとして、そして、辞めた。犬飼澄晴の顔に視線を動かしたからである。なぜそんな顔をするのか。自分のことが嫌いなのではなかったのか。そういう言葉がとっさに出てこないくらいにソレは苗字名前にとって衝撃的であった。だって"あの"犬飼澄晴が、いつもの偽物の笑顔を作った見慣れた顔でもなく、表情を消しているというわけでもなく。ただ、その顔面の血色を大変落として、血の気の引いた唇を固く結んでいるのだ。




「……驚いた。先輩は私が嫌いなんだと思っていましたけれど、私の思い違いでしたね」
「それこそ驚いたな。なに言ってんの。おれは苗字ちゃんの事、大好きだよ。今も昔も」
「嘘ばっかり」



 
 珍しく。本当に珍しく、2人の間には恐ろしく穏やかな空気が流れた。しかし、その空気もまた、荒々しく開かれた扉の音とともに早々に終わりを告げることとなる。忍田真史である。忍田真史はスリッパと床が擦れる音を室内に響かせて苗字名前の前に立つと「全くおまえは」と酷くやりきれないという表情を浮かべてその場にしゃがみこんだ。

 その様子を見て苗字名前は腕に力を込めて、無理矢理に上体を起こすと、相変わらず青白く血の気の全くないその顔でにこにこと笑うと「また呼び出しちゃった〜」と冗談めかしく笑ってから大きく息を吸って胃のあたりを握り潰すように強く手をめり込ませた。体調が悪いという事実を全く隠せていないその様子がかえって心配を誘うけれど、本人はあくまでも元気であるというスタンスを貫くようで、犬飼澄晴からは何もいうことはできない。




「なんのために緊急脱出ベイルアウトがトリオン体に備わっていると思っているんだ」




 自分の完全敗北を理解した上で、同情でもなく、また非難するわけでもなく、ただ心配であるというその思いがヒシヒシと伝わってくる様子とその面持ちで、それを説いた忍田真史に苗字名前は何かに気がつかされたようなそういう表情をして、胃の辺りにおいていた手の力を緩めて膝の腕に腕を落とすと「これだけ自分勝手に負けておいて、緊急脱出ベイルアウトなんて、出来るわけない」と言う言葉をその薄い唇を動かして口にした。

 忍田真史は「私は寄付金でここにいるのに」と両目いっぱいに涙を溜めるその表情を見て、ここにくる前に自分の元へと訪れた諏訪洸太郎のことを思い出した。『苗字名前はいつから父親に金と一緒に預けられたと知っていたのか』といつもの様子とは対照的に歯切れ悪く口にしたそのセリフに忍田真史は『苗字は勘がいいからな』と、その後の忙しさのあまり軽く受け止めて返してしまっていたけれど、その言葉の意味を今、本人を目の前にしてようやく理解するとは。




「……思い詰めている 苗字を諏訪が心配していた。小南や慶もお前の身を案じていたよ」




 苗字名前の頭に手を乗せた忍田真史は言う。「お前の努力を笑う人間を私は知らない」と。

 その言葉に苗字名前は
 目を丸くして忍田真史の顔を見上げる。




「冬島隊にお前が入隊する以前、私は冬島に何故お前なのかと聞いたことがある」


 

 見開かれた目の淵からはらはらと流れる涙を見ながら犬飼澄晴はただ自分には出来ない それを簡単にやってくれる忍田真史を心底羨んだ。

 そしてーーー




「その答えに冬島は『苗字名前の努力は才能だと思ったから』だと言っていた。苗字、きみは自分の評価を下だと決めつけているが、他でもない現A級2位の男が敢えて確認しようと思わなければ見つけられない お前の努力を敢えて確認して お前を部隊に招き入れた。それは事実として存在しているし、私は彼が間違った選択をしたとは思っていない」




 ーーー自分の口から出た言葉なんかでは届かない その真実を、その信頼と説得力が彼女にその真実を植え付けられるのだから。

 誰も彼もが間接的にも直接的にも伝えてきた その事実をこんなにも簡単に彼女の心に刻み込めるなんて本当に大人ってやつはずるい。本当に、心底恨めしい。




「私も城戸司令もきみがあまりにも賢いからとっくに理解していると伝えていなかったーーーが、今のお前を見て、敢えて伝えるべきだったと悔いている」




 苗字名前の頭に乗せた手を髪の毛先に向かって滑らせた忍田真史は穏やかな笑顔を浮かべて、その頬に流れる涙を拭って言うのだ。




「苗字。A級入り、おめでとう」




 自分たちが何度だって伝えてきた その言葉がどうして彼女の心を動かすのかーーーいや、違う。自分たちが何度だって伝えてきた その言葉がどうして彼女の心をこれっぽっちも動かさなかったのか。そんなわかりきった問題のわかりきった解答に犬飼澄晴は拳を強く、爪が手のひらにめり込むほどに強く、強く、握りしめた。自分の立ち位置にいたのでは、どんな言葉も届かない事を痛いほど知っているーーーだって、おれは二宮隊だから。知っているのだ。選ばれなかった彼女のあの目を凄く近くで見ていたから。どんな言葉も行動も全て彼女の目の前にある分厚い壁に弾き返されてしまうから。その壁は彼女を選ばなかった全ての人間が何を言っても破る事はできず、だからといって親しくない人間の言葉は当然届く事はない。そして冬島隊の苗字名前へのスタンス故に彼らからの言葉もまた望めない。そういう壁だったのに。

 犬飼澄晴はただ、その光景を見つめて
 『あの日』を思い出す。


「ーーー……先輩達さあ、年下の女の子 相手に2対1なんて卑怯なんじゃないの?」


 ああ、全くいつもそうなのだ。
 眩しくて、眩しくて。

 それでいて喉から手が出るほどに羨ましくてたまらない役割その位置に、どうしていつも おれは立てないのだろう。犬飼澄晴はその光景を見つめて、ゆっくりと立ち上がり病室を出て、売店まで足を運ぶと その目の前にある椅子に着席をして、両手で顔を覆う。




「ーーーー……だっせえ」







 脳内で何度も何度も繰り返し忍田真史と苗字名前のやりとりと、緑川駿のあの日の言葉を思い浮かべている犬飼澄晴の虚無の心を現実に引き戻したのは他でもない苗字名前である。

 パタパタと踵を鳴らして廊下を進む足跡がやたら耳に入ってきたと思えば、自分の前で立ち止まったのがあまりにも不自然で顔を上げると珍しく制服姿の苗字名前が視界に入った。夢だ。犬飼澄晴は苗字名前を視界に入れたまま、ぴたりと固まった後に、はは、と渇いた声で笑う。




「そういえば おれ、結構付き合い長いのに苗字ちゃんのセーラー服なんて初めて見たよ」
「当たり前じゃないですか。だって私、制服姿で二宮隊の皆に会いたくなかったんだもん」
「……まだおれ達のこと嫌いなんだ?」
「私と玲ちゃんが最近まで顔も合わせてなかったこと、先輩なら知ってるでしょう? 私ね、私を応援してくれた人たちに合わせる顔がなかったんだ。先輩だって思うでしょう。私の人生、今日までずっと失敗ばかりだって」
「思うわけない。おれは苗字ちゃんの人生が失敗ばかりだって思ったことなんてない」




 苗字名前は目を丸くして笑うと売店の袋を犬飼澄晴に差し出して「先輩のおかげですっかり元気になったから、食べながらボーダーに戻ろう」と言って、犬飼澄晴の右手を掴んで、無理やり引くようにして歩き出した。

 苗字名前の温かい手に晴れたとき、犬飼澄晴はようやくこれが夢ではない事を実感した。そうして、引っ張られるままに足を動かしながら、苗字名前の背中を見つめて、顔に集まる熱にただ困惑して、思わず手を振り払うようにして離すと苗字名前は犬飼澄晴の顔を見てから自分の左手を見つめて困ったように笑った後に「そういえば、私の好きなものしか買ってないや」と口にした後に袋の中身を何度か確認して、そのうちのひとつを自らの左手の代わりに差し出した。その一方で犬飼澄晴は自らの行いを心の底から悔いていた。苗字名前から手を繋いでくれるなんて、きっと今後一生ない大イベントだった。それをまさか、自分から終わらせてしまうとは。そんな思いを胸に差し出された小袋のスナック菓子を受け取って、早々に袋を開けて、これ以上変な事をしないように。そして、言ってしまわないようにそれを口に放り込もうと口の方に手を動かしたところで、犬飼澄晴はようやく、自分の手が震えている事に気がつく。そうして、笑顔で前を歩きながら何かを話している苗字名前に視線をやって、菓子を口に放り込む。




「苗字ちゃん」




 前を歩く苗字名前の背中に声をかけて、ゆっくりと振り返る苗字名前の両目を右手で覆い隠して「わ」という一声の後に立ち止まった苗字名前の名前を犬飼澄晴はもう一度呼ぶ。




「きみを見つけてから此処に運ぶまでの間、生きた心地がしなかった。苗字ちゃんは冷たいし、目を開けてくれないしさ」
「先輩……?」
「ねえ、苗字ちゃん。きみは、そのサイドエフェクトのリターンがどれだけのものか、大規模侵攻で理解したんじゃなかったの? それとも、本気で死ぬつもりで行ったの?」




 ああ、この人。私のサイドエフェクトのことを知っているんだ。

 苗字名前は犬飼澄晴の手のひらを見つめながら思う。そうか、知っていたのか。どこで聞いたのかは、苗字名前にもわからない。何故ならば、これの詳細を知っているのは、冬島隊と上層部の城戸正宗、忍田真史、林藤匠だけだと聞いているからだ。今日の感じを考えると迅悠一は林藤匠によって詳細を聞いたようだけれど。苗字名前は死ぬつもりで行ったのか、という言葉を無言で肯定する。その様子に犬飼澄晴が「おれ達別にさ、置いてかれるのに慣れてるわけじゃないよ」と呟くのを聞いて、鳩原未来が頭をよぎる。そうして、犬飼澄晴の小刻みに揺れる手のひらを眺めながら、苗字名前は彼に残酷な言葉を贈るのだ。




「ごめんね、先輩。私はきっと、この先何度でも、近界民を殺すために命をかける事をやめないと思う。だって私は近界民が大嫌い城戸派だから」




 その言葉の終わりと共に自分の目の前に置かれた手を掴んでゆっくりと下に下ろして、目の前の犬飼澄晴の顔を見た苗字名前は再度「ごめんね」と言葉を送る。

 そんな言葉を送るくらいならば、嘘でもいいから、もうやらないと言ってくれればいいのに、それが苗字名前にとっての『誠実』から離れているというただそれだけの理由で『事実』だけを告げてくるのだから、残酷だ。だってそれが彼女の意思であり、事実なのだ。




「……おれ達は本当に昔から相容れないね」




 自分の口から溢れる そういう言葉に苗字名前はただその美しい顔に笑顔を浮かべて応えるのだ。