人生の投資







 2月20日、木曜日のことである。

 三門第一高校の屋上に苗字名前はひとり座り込んでいた。時刻は9時50分を指そうとしているところで、当然だが授業中であった。前日の失態がどれほどのものなのかは苗字名前自身計りかねていたけれど、今日に限っていえば『烏丸京介』に会いたくなかった。己が彼に対して、どのような態度を取るのか。そんなものは想像に難くないーーーというよりも、むしろそれが明確だというのに顔を突き合わせることをしたくなかったからである。




「おいこら、不良女子。授業中だろーが」




 苗字名前は自分に対しての呼び掛けであることを理解して、ゆっくりと声の方へと首を動かす。苗字名前にはこの世の中で不愉快極まりない行動が5つほどある。そこに見事にランクインするうちのひとつが『自分を理解しているという行動』である。それもまあ、ただの八つ当たりである。そもそも、相手の親切を振り払う自分の行動と考え方が既に八つ当たりの延長にあることを理解していて、それを直ぐに自分の心の狭さと余裕のなさから生まれるものであると理解できてしまうからこそ不愉快なのだ。

 苗字名前は視線の先にいる当真勇をじっと見つめてから肩にかけていたコートの位置を直して当真勇の呼び掛けに応えた。




「……先輩だって同じでしょ」
「犬飼と病院から戻ってからこっちに帰って来ねえから真木ちゃん達が心配してたぜ」
「無茶言って単騎で挑んで無様にやられた私に忍田さんがA級おめでとうっていうの。それで、城戸さんがよくやってるっていうんですよ」
「はあ? ……一体なんの話を…」
「きっと昨日、私が戻っていたら真木さんも冬島さんも当真先輩も私に『よくやっている』って『頑張ってる』って言ってくれたんでしょ」




 苗字名前の言葉に当真勇は発言をやめた。確かに自分達は昨日苗字名前が戻ったら、そう言ってやるつもりだったからである。彼女の言葉を借りるのであれば、単騎で乗り込んで無様に敗北した女に、そんな生ぬるい言葉を贈ってやるつもりだったのだ。

 何故ならば、目の前の人間が自分の失態を必要以上の罪として認識すると知っていたからである。知っているのに、責めたのならば、彼女は気持ちが楽になるだろうか。それは否である。かといって、許してやる言葉を投げたところで、それもまた否である。




「…………じゃあ俺達がお前になんて言ったら、おまえは満足したんだよ」




 そんな恐ろしく返答に困る質問をしてから自分の隣にカバンを軽く放って、図々しくもその場所に座った男が珍しく、本当に珍しくえらく真摯な眼差しでこちらを見つめるものだから苗字名前は目を丸めて「先輩の瞳を見ていたら、考えるの全部面倒くさくなっちゃった」とそう呟いてから、ゆっくりと立ち上がり、当真勇の姿を見下ろして言うのだ。




「でも、その答えは考えておくね」




 そういう言葉を口にして、自分に背を向けた苗字名前の姿をみて「(ああ、これは随分とまた変わっちまったな)」と。当真勇は苗字名前の姿を目で追いながら、そんなことを考える。以前の彼女ならば、きっとそうは答えなかっただろう。昨日の狙撃手とも仲良くやろうと思っているという発言もそうだが、一体なにが苗字名前を変えたのか。当真勇は鞄の中にしまっていた2本の飲み物ーーーいちごオレとバナナミルクーーーを眺めて、そのうちひとつを手に取って「あーあ、1本あまっちまったじゃねーか」と誰にも届く事のない言葉を空に送るのだ。










「おはようございます」




 2限目の開始数十分のところで教室の扉をスライドさせた苗字名前にクラスメイトは視線を集めて、遅刻者の提出する小さな紙切れを教師のもとへと運んで「お怒りは最もですが、授業後にお願いします」と先手を打った苗字名前の久しく見るそのどうしようもなく憤りを感じているようなその眼差しに担当教師もなにも言うことなく、苗字名前を着席させた。

 荒れているな。時枝充は苗字名前の表情を見て、そう思う。付き合いは長い方ではないけれど、苗字名前はどちらかというと表情に出る側の人間なのでそういうところは分かりやすい。なんていえばいいのだろう。無言で怒りをぶつけてくる感じの表情をしている。時枝充も昨晩の話は佐鳥賢から大体聞いていた。無事に敵を退けたこと。苗字だけが、戦線から離脱して人型を追いかけたこと。それ以上のことは詳しくは知らないけれど、その後司令室に呼ばれていたこともちゃんと知っている。だからこそ、何かあったのは間違いのない事実ーーーとはいえ、結構大変だったのだろう。それを彼女の表情が物語っている。




「とっき〜〜、ノートみせて〜」
「苗字が遅刻なんて珍しいね」
「昨日結構遅くまで寝られなくてさあ〜」




 へらへらと笑いながら夜はなにをしてたと話し始める苗字名前の様子に時枝充は話に耳を傾けながら苗字名前の様子をただみまもる。ずばり、率直に時枝充の心情を物申すのであれば『本当に変わったな』というただの本心である。凄いと思う。本当に。けれどその意見とは対照に心配にもなる。

 感情の流し方を知った。上手く咀嚼する方法を知った。そういう意味ならば、それはいい事だと思うし、単に凄い事にあたるだろうけれど、苗字の場合は少し違う気がするからであるーーーとはいえ、彼女の上手く隠そうとしているその感情を暴くのも違う。こういう時、うまいこと彼女の話を聞いてくれるそういう人間が同じ学校にいたのなら良かったのだけれど。




「苗字」
烏丸くん・・・・




 それは、教室が静まり返ってしまうほどに冷たい声と瞳と共に烏丸京介へと届けられた。烏丸くん。初めての呼ばれ方である。だからこそ、言葉を失った。それは最早、何を言おうとしていたのかすら思い出せないほど、わかりやすい拒絶であった。そしてそれを見ていた奥寺常幸と時枝充が困惑する程、いい笑顔を浮かべた苗字名前は「正直、私はずっと正気じゃないと思ってたよ」と、口にして、自席に着席した。明らかに修羅場であると理解したクラスメイト等も普段の談笑を再開することができないほど恐ろしく空気が凍っていた。

 ああ、これを見たら出水先輩が喜びそうだと烏丸京介は苗字名前の瞳を見て、そんなことを考えた。そう、あの『瞳』は、まるであの時の苗字名前を見ているようだった。じくりじくりと心臓を刺す何かを誤魔化すように、烏丸京介は苗字名前の後ろ姿を眺め、そして自分もまた自席に着席するのである。









 ボーダーには目的の場所に行くまでの通路の選択肢が実は思ったよりも存在している。個人ブースに行く道は自分が知るだけでも4つほど行き方があったし、実は多分、開発しただけが知っている隠し通路なんていうものも避難用として設けられているだろうなと、そんな夢みたいなことを考えることだって沢山ある。苗字名前は携帯電話を取り出して、SNSに表示された烏丸京介の文字を眺めてため息をついた。

 我慢していた。頑張って笑顔でとっきー達に挨拶もできた。普段通り振るまってみせた。




「正直、私はずっと
 正気じゃないと思ってたよ」





 けれど、結局。我慢できなかった。あれは私の八つ当たりで少なくとも、とりおには微塵も関係のない話だった。玉狛支部の人間だからといって、やっていい対応でもなかった。苗字名前は冬島隊作戦室は続く渡り廊下にある長椅子に顔を下に向けて座っていた。それは学校から帰宅し、そのままボーダーに顔を出した午後5時前の出来事である。歩く一歩一歩が恐ろしく憂鬱で死んでしまいそうな程に足取りが重たい その廊下で座っていた苗字名前は烏丸京介とのトークルームに『学校ではごめん』と一言入力したそれを送ることが出来ずにいた。だって知ってたでしょ、私がああいう態度をとるって。そんな言い訳が頭をよぎって送ることができないでいた。しかし、全く残酷な人間がいたものである。そんなひとりの少女の葛藤なんて知らんぷりして、更に追い詰める人間がいるのだ。

 事実、自分の視界に入り込んだ左右の足を見つけて顔をあげ、その人の姿を確認した時、苗字名前は迅悠一を殺してしまいたくなった。だってそう。この通路は、あまり知られていない通り道で、最近入隊したばかりの人間が知っているとは思えなかった。それって、つまり、そういうことなんでしょ。ねえ、迅さん。わかっていてやっているの? その人は自分にとって恩人なのだ。それなのに、どうしてーーー




「苗字先輩、お話があります」




 ーーーその顔を見た瞬間。言葉を聞いた瞬間。全てを理解できる自分の頭の中が心底嫌になる。好きになりたいのに。そうさせてくれない環境と糸を引いているであろう人間が憎くてたまらない。ああ、全く。ほらね。だから言ったのに。私は玉狛の人間は誰ひとりとして好きになることなんて出来ないんだよ。

 苗字名前は開いていた携帯電話の電源を落として、鞄の中に押し込んでから一生懸命笑顔を浮かべた。本当はずっと思っていた。目の前の人間の正義のヒーローのような考え方が嫌いだ。理想的なヒーローとしての心のあり方が嫌いだった。本当は犠牲は出ている。大規模信仰にしたってそうだ。あくまでも市民に被害が出なかっただけで内部では6人のオペレーターとC級隊員に被害が出ている。それでも、目の前の救いたいものが守れた。だから結果オーライ。そんなわけない。こっち側に加担した遊真がボーダー隊員として認められる理由にもならない。近界民なんて皆殺してしまった方がいいに決まっている。それなのに、城戸さんも城戸派の人も、どうして皆彼を認めてあげてるの。どうして私が悪いみたいな顔をするのーーー……そんなどうしようもない感情がここにきて、恐ろしいほどに増幅していった。けれど、それを『命の恩人』そして『後輩』であるという事実だけが彼女のあらゆる感情に蓋をするのだ。




「……どうしたの? 修くん」
「ヒュースの入隊を認めてもらいました」
「凄いね、どうやって認めてもらったの?」
「あ、いえ……大したことはしていないです。ただ、ヒュースがボーダーの助けになるという事は間違いなく伝えられたと思います」
「そうなんだ。じゃあ、私にも教えてよ。
 " 具体的に彼がどう私達に貢献できるのか "」




 三雲修は苗字名前のその表情に、ああこれが迅さんの言っていた言葉の意味なのか、と納得した。三雲修は玉狛支部出発直前から苗字名前に会わねばならない理由があった。苗字名前の得体の知れない攻撃を理解しておきたい。ヒュースの入隊の条件のひとつである。三雲修には、その得体の知れない攻撃、の意味が全く理解できなかったが、彼自身にはそれを叶えられる自信があった。

 何故ならば、苗字名前は嘘をつかない人間だと知っているからである。







「なんで迅さんは城戸派である苗字先輩にヒュースの世話係を任せようと思ったんですか?」
「急だな。どうした? 眼鏡くん」
「いえ、先程の苗字先輩の話を聞く限りでは、話に聞いてた通り 物凄く……」
「眼鏡くん達もそろそろわかってきたと思うんだけど、苗字名前は本部で滅茶苦茶支持率が高い隊員なんだよね。そんな名前が俺たちに味方してくれたら鬼に金棒かなと思ってさ」




 鬼に金棒。そこまでの支持率なのか……と、口元に手を当て、ひとり考え込んだ 三雲修とは対照的に空閑遊真は「確かに、名前といることでやたらと敵対勢力をつくっているような…」と、口にして、雨取千佳もまた「狙撃訓練でも凄く沢山の人に話しかけられてるよ」と修の方を向いて、そのように宣った。

 その様子に迅悠一は満足げにうんうんと首を縦に振って「まあざっと、新人の遊真と千佳ちゃんに伝わってるくらいの人望人脈はあるってこと」と、三雲修の頭に手を置いた。




「いやでも滅茶苦茶城戸派なんじゃ……」
「味方っていうのはさ、" 本質的に " 味方にしようって意味。ここだけの話、おれは名前に玉狛に来て欲しいと思ってるんだよね〜」




 その発言に少し離れたところで話を聞いていた玉狛第一の面々が顔を上げる。それは嬉しいけれど、無理なのではないか。そういう表情である。

 けれど、迅さんがそういうということは可能性が0%ではないということであるーーーが、小南桐絵、烏丸京介からは『それは難しいだろう』という発言ばかりが飛び出した。けれど、三雲修も不可能ではないのではないか、とは思う。少なくとも、その時まで三雲修は苗字名前が『城戸派』であるということすら少しばかり疑っていたのだから。




「いや、すぐにじゃないよ。でも、名前の家は色々と面倒だから、遠くない未来必ず支部移動することになる。その時に選択肢のひとつに玉狛支部を用意したいっていうおれの我儘。うちなら小南も京介も皆名前を歓迎してくれる。なによりも。おれは予測不能な名前を助ける為に、玉狛の武器は必ず彼女に必要になると考えてる」




 いつもいうようにさ、ボーダーにとって1番最悪なのは、苗字名前が死ぬ未来なんだよ。

 A級2位の超精鋭である苗字名前が死んでしまう未来なんていうものが存在しているのか。そんなことを考えて、口を噤んだその空気の中で迅悠一はこんなことをいう。




「苗字名前は " 会話が出来る人間 " にとっては凄く扱いやすいんだよね。ただ、うちとしてはそれが厄介で、恐らく名前は今、眼鏡くん以外とは碌に会話もしてくれないと思う。" あれ " はそれだけの失敗だった」
「どういう……」
「名前は自分の発言に嘘はつかない。眼鏡くんがそれだけ忘れないでくれたら、全部うまくいくと思うよ」









 だからこそ、三雲修は苗字名前の手を取った。そうして自分の行動に目を丸くした苗字名前にこんな発言をプレゼントするのである。




「僕に言ってくれたことを覚えていますか」




 この男はとんでもない男である。玉狛支部が何をしたのかを聞いていない? それとも、玉狛が近界民を庇っていることを『悪』であると認識していないのだろうか。行動力とかそういうことじゃあない。理解ができないところに目の前の男の精神があるのだということを早々に悟る。私が間違っているの? そんなあり得ない発想に至るほどにまっすぐな瞳をして、自分に訴えかけてくるこの男は何が目的なのだろう。

 何を言ったのか、覚えているか、だっけ。覚えているよ、三雲修くん。だって私がキミに助けられたという事実が例え迅悠一によって生み出されたものだとしても私がキミに助けられたのは事実で、迅さんに止められていたのにC級の誘導を手助けした上でああなったのもまた事実なのだから。




「僕は、これから先輩にとって
 凄く嫌な事をお願いすると思います」




 そうだろうね、知っているよ。

 キミが玉狛支部である限り、それは必ず避けられないことだって、私も知っていたはずなのに。それなのに。どうして私は、あんなことを言ったんだろうね。




「先輩にヒュースを鍛えて欲しいんです」




 ああ、本当に玉狛支部の人間はどうかしている。私にヒュースくんを鍛えて欲しいなんて、本当にどうかしている。三雲修くん、知っているかな。ボーダーには確かに奥の手と呼ばれるものが存在している。それは黒トリガーという絶対的な戦闘兵器かもしれないし、太刀川慶にもまさる軍事力を兼ね備えた人間かもしれないし、あるいは未来視を持つ人間かもしれないーーーけれど、それらに劣らないという位置付けにあるのが苗字名前の射手としての腕前である。それは単に非常に強力であるということもひとつの理由として存在していたけれど、それだけではない。苗字名前が自らの必勝トリガーを名乗るほどに優秀なのである。そしてそれは初見であれば、まず間違いなく敵を殲滅できる、という意味での優秀さである。そして、それは『初見殺し』に非常に長けていた。研究されてしまえば、その技にはタネも仕掛けも当然あったし、木虎藍に限っていえば、そのタネと仕掛けを6割方分析済みで勝率も他の隊員と比べて圧倒的である。

 つまりね、奥の手を人型近界民に渡してください。きみの言葉はそういうことなんだよ。そして事実、ヒュースの真意もそこにある。それを苗字名前は理解している。あまりにも危険。あまりにも秀逸な技の使い方だったのであるーーーで、あれば玄界にいるうちに攻略してしまわなければならない。こんなところだろう。そしてその読みは大正解である。ヒュースという近界民にはあまりにも味方がいない。それは侵攻してきたアフトクラトルの面々の対応からもわかるように明らかである。




「ーーーそれ、私に得はあるの?」
「……得、ですか」
「きみは確かに命の恩人だけれど、もう一度命を預ける価値がある人間だと私は思わない。未来のA級てきに私の技術を預けるだけの『得』を私に提示して見せてよ。得意なんでしょ、交渉」




 だって、城戸司令を
 2度も頷かせたんだものね。

 これほどまでに真っ直ぐな悪意を三雲修は初めて見たかもしれないと素直に思った。そして、迅さんの言っていた他の玉狛支部の人間では話にならないという意味もなんとなく理解した。これは『恩人』のレッテルがあって、初めて成り立つ『取引』であることを理解した。そして、苗字名前に自らが与えられる得がないことも同時に理解する。最初から頷く気のない取引だ。最早取引かどうかすら疑わしい。けれど、迅さんの口振からして、これを失敗すれば、未来はどうなるだろう。空閑は、どうなるのだろう。だから、三雲修は苗字名前の手を握る。




「ーーー……苗字先輩。先輩が危険な時、僕が誰よりも早く駆けつけます。先輩の命が危ない時、僕の命をかけます」
「……は、ちょっと…」
「つまり " 僕の人生 " を貴方にかけます。すみません、先輩。これが僕が今、先輩にかけられる最大の『得』です…!!!」
「こ…こんな、こんなところで何言って」
「僕は本気です」


 

 本気であるとわかるのだ。瞳が嫌というほど、彼の言葉は正しいというから。こんな馬鹿な言葉が本気だなんてどうかしている。どうかしているのだ。人の命より重いものなんてあるはずがないから。圧倒的に城戸派。それは、近界民が許せないというひとつの意思により生まれた言葉であるが、同時に、人の命を大切にしている人間とも受け取れる。それを三雲修が知ってていったのか、そうではないのか。そのあたりは定かではなかったけれど、それでも顔を赤くして狼狽える苗字名前の表情を見て、三雲修は安堵した。そして思う。何故この人は顔が赤いのだろう、と。

 しかし、思い出して欲しい。先ほどの言葉は強烈な愛の告白の言葉である。少なくとも、どちらかがボーダーを脱退しない限り続く、永続的な口約束で、そしてきっと三雲修は例えば苗字名前がボーダーを辞めたとしても約束を永劫守り続けてくれるだろう。それを苗字名前は、あの日の記者会見の映像から知っていた。




「……今のきみじゃ『守る』じゃなくて、
 私に『守られる』側でしょう」
「それは…、そうなんですが……」
「もういいよ。それよりも きみは私の実力なんて知らないのに、どうして私にヒュースくんを任せようと思ったの? 迅さんの入れ知恵?」
「先輩が最初に渡されたトリガーです」




 その言葉を聞いた時、まさに意表をつかれたなと苗字名前は確かに思った。

 そして同時に、かなり調べられてんなあと視線を下に落として息を吐く。迅さんはどこまで想像して、彼に私を助けさせたのだろう。彼が私とヒュースくんを繋ぐことも知っていたのだとしたら、なんと腹立たしいことか。




「ボーダーは最初にその人間に最も相応しいとされるトリガーを提供する。だから僕は苗字先輩も狙撃手トリガーを提供されていたとばかり思っていました。でも先日、先輩の口から射手の単語が出た時に僕は疑問に思ったんです」











 どうやら自分は死ぬほど単純な女らしい。苗字名前は玉狛支部の扉に手をかけた三雲修の後ろ姿を眺めながらそう思う。そして、脳裏ぼんやりと迅悠一の顔を思い浮かべて、よくもまあ自分をここに呼べるものだなと、その図々しさに最早関心する。だって、ヒュースくんは昨日まではただの捕虜近界民だった。例え、今日正式入隊の約束を取り付けたとしても、少なくとも、昨日は敵対勢力だった。

 苗字名前は三雲修に「2回だよ」と呟いて、後ろで手を組んだ。

 


「迅さんが隊務規定違反を犯した回数。本当、ボーダーは未来視に甘くて嫌になるよね。私の時は、問答無用で罰してきたくせに」




 苗字名前の発言に、この人でも隊務規定違反なんてするのか……、と。三雲修が苗字名前の姿を視認する。三雲修の視線を受けた苗字名前は「ヒュースくん、私にいい影響をもたらしてくれるんだって。本当かなあ」と呟いた。しかし、その頃には三雲修もある程度苗字名前の本心とそうではない部分を理解していて、今のは全くそんなことは思っていない口だけのセリフであると理解する。けれど、実際のところはどうだろう。三雲修は思考する。正直に言って、三雲修からみた苗字名前とヒュースは別に相性が良さそうには見えなかった。それはかつて定期的にヒュースの世話をしにきていた苗字名前が一方的に会話をしてソレをヒュースが適当に相槌を打つ様子を見ていたからである。しかし、今回のこともあって三雲修は苗字名前という人間をシンプルに見つめ直した。何故、苗字先輩は一時期、あんなにも毎日玉狛に通ってまでヒュースを見にきていたのだろう。だってここには、苗字名前の大嫌いな近界民が2人もいるのだ。それなのに通っていた理由はなんだ。

 そう考えた時、思いつくのは簡単で単純な答えである。確実に討てるタイミングを見計らっていた。これである。多分、苗字先輩は僕が思うよりもずっと用意周到で悪知恵の働く賢い人間だ。




「先輩とヒュースが仲良くなれるかは分かりませんが…、僕が見る限り、先輩とヒュースは少なくとも『相性』はいいと思います」
「……修くんは正直だね〜」
「ヒュースが先輩にどんな影響を与えるのか僕には解りませんが、でも迅さんが自分でもできる事を " 敢えて " 苗字先輩に任せたことには意味があるんじゃないかと僕は思います」




 三雲修の言葉に苗字名前は少なからず同意見であった。捕虜であるヒュースがそれなりに手だれで且つ賢い事を数日間に及ぶ会話で苗字名前も知っていた。アフトクラトル。前回の侵攻はそれだけ大きな勢力を感じたし、国家として大きな勢力を持つ国のひとつであることは間違いない。だからそんな国の精鋭として選ばれたヒュースくんは殺しておくべきだった。無力化しているうちに。ねえ、迅さん。彼をボーダーに入れてどうするつもりなの。彼をボーダーに招くことはつまり、自分達の戦闘手段を敵国のエリートにバラすことと同義だ。それなのに、招いた挙句に私に鍛えて欲しいなんて。冗談は行動だけにして欲しい。

 彼が味方になる保証はない。手のひらをひっくり返して私達を裏切らない保証もない。人柄がいい。性格がいい。物分かりがいい。たとえその全てがあったとしても、その人の中の1番が私達じゃあないのなら、信用に値しない。それなのに。苗字名前は三雲修の姿を見つめる。あらゆるリスクよりも遠征に行く事だけを目的として近界民を2人も部隊に入れた。一体どんな目的があったらそんなことができるのか。さっぱり想像できない。だからこそ。




「ありがとう。でも、私はきみのそういう・・・・ところ。すごく怖いなって思うよ」










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Espoir