土曜日のボーダー本部を『 正式入隊日 』というビッグイベントが賑わせる。そして、本日の主役になっているであろう その人を目指して、その賑わいの真っただ中へと向かって小さな足を急がせる少女がいた。彼女は亜麻色の明るい髪を揺らし、この場ではやたらと目を引く黒色のセーラー服を身にまとって、ふんわりとした笑顔を浮かべて その人の基へと向かうのである。ざわざわと賑わいをみせるランク戦ブースへとぱたぱたと足を動かす その人物へ視線は瞬く間に集まり、そうしてその人を視界にとらえたとき、彼女の顔は一層輝きを増し、隊員の視線は一層を釘付けにされたのである。

 元々土曜日に本部に来るということ それ自体が最近ではあまりないことに加えて、彼女の持つA級2位のブランドが故に当然のように視線が集めた。そんな苗字名前の姿を見つけた嵐山准が右手を軽く上げて「苗字じゃないか!」と、笑みを浮かべたところで苗字名前は「ヒュースくんは!?」と嵐山准を見つけて心配そうに返事を待った。その様子に嵐山准は意表をつかれたような表情を浮かべてから時枝充の名を呼んだ。




「ついさっきB級に昇格したよ」
「嘘でしょ!?!? 私が来るまで待っててねって言っておいたのにっ!!!!?」
「驚かせたかったのかもね。
 時間を気にしていたみたいだから」
「……私が1番に祝うって約束したのに」




 なるほど、だから4000ポイント溜まった際に『 祝いの言葉はやめろ。先約がある 』なんて言葉を口にしたのかと時枝充はヒュースから発せられた言葉を思い出して口角を上げ「きっとまだ誰にも祝われてないよ」とおかしそうに笑って応えた。その回答に名前は「本当かなあ」と呟いてからわかりやすく、にこにこと笑顔を浮かべて、そうして太刀川慶とヒュースの映るモニター画面を見つめた。それから一呼吸おいて「とりおは、」と。そう呟かれた言葉に時枝充は2人が仲違いしたままであることを悟った。そうして同時に三門市立第一高等学校で現在、学校全体で物凄い盛り上がりをみせているひとつのトピックを思い出す。

 そのいま滅茶苦茶ホットな話題こそ、この第一高校で昨年の春からまことしやかにささやかれていた『 苗字名前、烏丸京介の交際問題 』である。事実として、この噂は間違いなく誤りである。それをふたりと関係のあるボーダー隊員はよく知っていたし「どちらかと言えば、佐鳥の方が」などとフォローも入れていたが、先日の一件。あの穏やかで女神のような笑みを浮かべている苗字名前が烏丸京介に対して恐ろしく冷たい態度をとってクラスを凍り付かせた、という例の件から、この話題に謎の真実味が増し現在に至っているというわけである。発端はそう。とあるクラスメイトのSNSによる呟きであった。『 やばい。苗字さん、烏丸にブチぎれてる 』この本当にただの呟きが身内から上級生に至るまでえげつない拡散のされ方をしたのだ。その結果。噂にとんでもない尾ひれがついた。美男美女カップル破局。これである。




「苗字が烏丸と仲直りしたいのなら、おれも奥寺も協力するよ」
「……優しいね、とっきーは。でもね、大丈夫だよ。私はもう、大丈夫。この " 制服(すがた) " が私の『 覚悟 』なの」




 苗字名前はゆっくりと顔を上げてから三門市立第一高等学校の制服を時枝充に胸を張って見せて、もう一度「覚悟なの」と。一言だけつぶやいた。

 時枝充はイマイチその言葉の意図を理解してはいなかったけれど、その隣で聞いていた嵐山准はその言葉の意図に気が付いて目を丸くした。シンプルな話、その姿を見たことがなかった。文字通りの意味である。苗字名前はいつだってボーダー本部に換装体で現れた。それは平日であっても同様である。そして、その意図を今日まで嵐山准は考えもしなかった。三門市立第一高等学校へと進学した。その事実を嵐山准は『 運が悪かった 』としか考えなかったからである。苗字名前が嵐山准には決して、その薄暗い感情を見せなかったからである。故に一瞬かける言葉を見失う。




「ーーー……嵐山さん」




 なんでもかける言葉など探せばいくらだって思い浮かんだことだろう。それにもかかわらず、なにも出てきてはくれないのである。

 そして、苗字名前によって紡がれた自分の名前に嵐山准は笑顔のまま、思わず肩を跳ねさせることで応えるのだ。




「私は自分を大切に出来ていなかったことに気付いたよ。だって、遠征の時。出水先輩はどんな気持ちで私を連れ戻したんだろう……、一昨日の侵攻、犬飼先輩はどんな気持ちで私を見つけたんだろう…私の身勝手な行動を、とりおや皆はどう思っていたんだろうって、今なら少しだけそう思えるから」

 ーーーだから、迅先輩(・・)は。
 ヒュースくんに私を向き合わせた迅先輩は。
 間違ってなんて、いなかった。




 そうして、自分の横を通り過ぎて走り出した苗字名前は「ヒュースく〜〜ん!」と、とても嬉しそうな顔をして走り出す。

 嵐山准はそれを見守った後。まるで彼女を引き止めるように伸ばされた自分の右手を見つめ、掌を拳に変える。嵐山准の頭の中で東春秋がいう。『 苗字は気が付いたら、あっという間に先にいるからなあ 』と。ああ、確かに。嵐山准は苗字名前の後ろ姿を眺めて、そう思った。そうして、時枝充の方へと顔を動かして「賢や充が好きになる理由が、わかる気がするよ」と笑う。そうして。その笑顔を見た時枝充は嵐山准のその表情を見つめて、「……それは、ど(・)う(・)い(・)う(・)意味ですか」と。小さく呟いた。








「ーーーヒュースく〜〜ん!!」




 ヒュースは苗字名前の姿を見つけるなり、得意げに口角を上げて「ナマエか」と、短く返した。その言葉に名前は「待っててっていったのに〜〜!!」と、ぽかぽかとヒュースの胸板を叩いて頰を膨らませた。そんな名前に「お前がオレが上に上がるより遅く来るのが悪い」と正論をぶつけた事により、この会話は一幕を下ろしたーーーはずなのだが。

 ーーーなんだ。
 この突き刺さる殺気は。

 ヒュースはよもや命を狙われているのではないかと誤認する程の殺意に名前を自分の背に隠して、その視線をゆっくりと辿る。




「? どうかしたの……?」
「オレの正体がバレている可能性がある」




 苗字名前の問いかけにヒュースは名前にしか聞こえない程度の声量でそのように応えるが名前は「それはないよ」と、ヒュースの肩を叩いて前に出た。そうしてヒュースの手を取って、高らかに上に手を掲げて「見たか〜! 私の好(ラ)敵(イバ)手(ル)なのだ〜!」と、いい終わりと同時に手を放してから、近くにいた辻新之助相手に、それはそれは愉快そうに、わはは、と 笑いながら高らかに自慢し、辻新之助は相変わらずの苗字名前に「凄いね」と冷たい視線をひとつ送って名前の手を払った。「(これはまた……。噂になりそうなことを……)」時枝充は学校での一件と都合よく登場した『 ヒュース 』の存在に頭を抱えて、間に入ろうと足を進めた。

 しかし。時枝充よりも前にその手を掴んだ男がいた。好敵手。名前のそのたったそれだけの表現から殺意を丸ごと水に流した その人ーーー生駒達人ーーーは、意を決して足を一歩前に踏み出し、片膝を地面につけた。そうして、どこからいつもってきたのかわからない、色とりどりの花束を苗字名前に差し出した その瞬間。苗字名前の瞳が驚きに満ち、大きく見開かれた。




「ーーー……一生守ります。
 だから死ぬまで一緒にいてください」




 見る人が見ていたのならば、この場は瞬く間に火の海と化していたであろうと時枝充は目を細めて、そうして苗字名前の隣にいたヒュースもまた同じように目を細くして生駒達人に視線を突き刺した。その一方で、彼の口に出した言葉に この場にいた殆どが言葉を失い、そうして『 ボンッ 』という音を立てて、顔を赤色に染めた苗字名前の姿を見た順番に冷静さを取り戻していった。

 しかし、苗字名前に至っては当然その限りではない。そのどこから取り出したのかもわからない大きな花束を自分に差し出している生駒達人の姿を見つめて名前は「えっ、えっ…!?!?」と、辻新之助とヒュースに助けを求める視線を向けたが、自分に向けられる あまりにも真摯なその視線に「……じゃあ…」と呟いた。じゃあなんだ。ヒュースは目の前の女の腕をつかんで「ナマエ」と、その名を呼ぶことで制止をかける。その様子に太刀川慶は刀にかけた手をぱっと離して、ヒュー、と口笛を鳴らす。




「こんなところで答えを出してやる問題じゃない。言質を取られて困るのは他でもないオマエだ」




 ヒュースの言葉に太刀川慶は「そうだぞ、生駒。おまえの行動はあれだ。児童福祉法違反」と、生駒達人の方をポンポンと叩いて追い打ちをかけ、生駒達人は「それいつまでアウトなんですか」と、問いかけた。その質問に対して、太刀川慶が「確か、加古曰く……」と、うなったところで「18ですね」と、笹森日佐人が呆れた表情を浮かべた後に、かぶせて応えて、「生駒さん、奥寺情報だと苗字さんはあれで初心らしいんで勘弁してあげてください」と、小荒井登が追い打ちをかけた。

 ついにどんよりとした生駒達人が水上敏志が女の子は16歳で結婚できると言っていたと小言をこぼしたことにより、ここに静かに第四次生駒隊、苗字名前接触禁止令が発動するだろうことを数人が理解した。




「ヒュースの意見には俺も賛成だが、生駒が苗字に会いたがっていたのは事実なんだ。それは友人である俺と迅が証明しよう。必要なら弓場に確認を取っても構わない。だからそこは受け止めてやってほしい」




 嵐山准の言葉に苗字名前は顔に触れるとともに、集まった熱を冷ますようにして顔を仰ぎ、目の前で膝をつく生駒達人を見つめた。そうして「ちょっと吃驚しちゃった」と。生駒達人の手に握られる色とりどりの花束に視線を移した。言葉の審議を問うほど冗談臭い顔をされているわけでもなく、目の前の男は苗字名前から見ても疑うまでもなく真剣で、先程の言葉が本心であることを理解する。

 苗字名前はそれを理解した上で、その手に握られた大きな花束を慎重にそれを受け取り、小さく何度も頷いた。そうして、いつからですか、という言葉をぎりぎりのところで飲み込んで「これもらっていいんですか?」と問いかける。その言葉に目を丸めたのは生駒達人だけではなかったが、生駒達人が首をもぎれそうなくらいの勢いで頭を縦に振ったことにより、意識がそちらに向いた。今までであれば、こうはならなかったであろう苗字名前の対応に勘づいた幾人かの視線が分かりやすくヒュースに向いた。そう。正直言って、近界民(ヒュース)の入隊試験に苗字名前が訪れることがもう異常なのだ。目の前の近界民が苗字名前の何かを変えた。最近の苗字名前の行動はどこかおかしかった。それを恐らく、ここにいる誰にもできない事をして、そのうえで苗字名前を変えたのだ。




「……これは、荒れるな
 今日の件、まだ二宮達には言うなよ」




 太刀川慶はお手上げであるといったように両手を腰にあてて、横に立つ辻新之助に顔を向けた。別に誰がどうしようと、これだけギャラリーがいるのだ。この件はいずれボーダー隊員に知れ渡ることだろう。そしてそれを苗字名前はその頭脳でゆらりゆらりとうまくかわすこともできるだろうーーーが、今後の為に苗字名前がどう変わったのかの情報は手札としてこちらが多く持っておきたい。ゆえに、情報がまわるスピードは抑制したい。

 そうして苗字名前は生駒達人の視線に合わせるようにして、しゃがんだ苗字名前を太刀川慶は、ジッと観察するようにして見つめた。さて。この変化を、二宮はどう受け止めるか。




「……どんな言葉を伝えても言い訳になってしまう気がするから、結論から言うと私は死ぬまで一緒にはいてあげられない。それは、相手が生駒さんだからとかじゃなくて、これからもっと広い視野で周りの人と関わっていきたいからっていうのと、大学受験には失敗できないからっていう理由の2つあって、それは私にとってどちらも『 恋愛 』よりもずっと大切な問題だからなの」




 その言葉は生駒達人以外にも多大なるダメージを与えたが、同時に現在第一高校を賑わせている大きなトピックの終了を表していた。

 そこまで多くもないが、新入隊員およびC級、B級、A級がこれだけいるこの場での今の発言を聞けば、苗字名前と烏丸京介の交際自体がそもそもなかっただろうことは想像にたやすく、そして苗字名前のこれだけ真剣な訴えを見たうえで、あらたに種を巻こうなどという考えも消えるだろうと、時枝充は察した。




「本来ならこんなところで回答するべき問題じゃないことはわかっているの。でも、ここで応えなかったら私はきっと、この真剣な告白をうやむやにしてしまうと思う。それは、生駒さんに失礼だから…だから、全部……全部、ごめんなさい」

 ーーーそれでも私は生駒さんの言葉も思いも全部嬉しかったよ。だからもっと素敵な人を見つけてほしいな。




 生駒さんにはもっと素敵な人がお似合いだと思う。そう告げた苗字名前の姿を見つめたまま、生駒達人は停止した。生駒達人にとって目の前の人間は、まさしく女神のような存在であった。見た目もさることながら、内面だって苗字名前はいつだって美しかった。

 そう口にするたびに生駒達人は迅悠一にのらりくらりと交わされて、嵐山准にも「ああ、そうだな!」と、上手くかわされた。弓場琢磨に至っては、何を言っているんだコイツは……と、いう分かりやすい表情を浮かべることで生駒達人に回答した。唯一まともにとりあってくれていただろう柿崎国治すらも「苗字は変に大人びているからなあ……」と、やや的外れな回答をするのだから、生駒達人には真の理解者などはじめからいなかったのだ。


「ーーー……ほんと、こまった人」


 生駒達人の記憶の中の苗字名前が言った。もう随分と昔の話である。それこそ、冬島隊に入るよりもずっと昔。生駒達人は苗字名前の美しい弾捌きと深い深い菫色の瞳に魅せられたのだ。だから、その柔らかな声がこちらに向けられるたび。その深い瞳に引き込まれるたび。なんどでも生駒達人のその心が切望するのだ。彼女から向けられる その『 幸福 』を。

 だから苗字名前の真摯な物言いを受けたとき、生駒達人が感じた感情もまた『 幸福 』であった。その声が心に響き、生駒達人の内側に沈んだ熱を今日もまた呼び覚ますのだ。申し訳なさそうに眉をひそめる苗字名前と目が合うたびに、その美しさに息を呑むのだ。苗字名前の回答は、生駒達人の想像していたものであった。誰もかれもが苗字名前は変わったと触れ回っていたが苗字名前はなにひとつ変わってなどいない。それを生駒達人は知っている。




「……こんなに直接的かつ間接的に言われたのははじめてだから一応確認なのですが…、これはそういう話(・・・・・)、であっていますか?」




 ーーー故に気づく。心を奪われたのは間違いではなかったのだと。この先の人生でどんな革命が起きたのならば、苗字名前以上の素晴らしい存在に出会えるというのか。苗字名前は知らないのだ。どんな言葉であろうとも、その身から自分自身に与えられる苗字名前のすべてが生駒達人に『 幸福 』だけを与えることを。

 冗談などではない。

 故に、彼女は
 マメちゃん(・・・・・)なのだから。



︙







「ーーー……じゃあ(・・・)の後、本当は なんていうつもりだったんだ」
「じゃあ、私が大学卒業しても気持ちが変わらなかったら、おねがいしますって」
「無責任だな」
「うん。だから止めてくれたこと、本当に感謝しているんだよ。考える時間が無かったら、私は多分そういう無責任なことを真剣に言ってくれている人に渡すところだった」

 ーーー私が生きている保証もないのにね。




 苗字名前の言葉に「積み重ねる年の分だけ、未来は不確かになる。雑な言葉が巡り巡ってお前を想う人間を苦しめる結果になることもある」と、ヒュースが言った。そうして、その言葉に苗字名前は大きく頷いて「あんないい人、私には縛れないな」と、応えたが、縛られるのは本望だっただろう、と。ヒュースは生駒達人の表情を思い返して、本心からそう思った。

 あれは、そういう人間の顔だ。

 直前まで向けられていた明確な敵意も本物だった。問題なのは、その敵意が生駒達人だけからのものではなかった点。つまり、迅悠一の言っていた『 苗字名前の人望 』は本当に存在していて、苗字名前の '' あの言葉 '' も根拠のない虚言ではなかったということか。




「この後、玉狛に来る理由はなんだ」
「ほら、私この間 迅さんに酷いこと言っちゃったから…それに、とりおにも」
「実際に被害を出した国の戦士と手を組もうという時点で衝突は避けられなかった。オレがお前の立場でも同じ行動をとっただろう」
「どうかな。きみは私よりも周りが見えているから利益が合えるとわかった時点で『 不要になった段階で切り捨てれば問題ない 』っていう判断ができたと思うよ」




 そういわれてしまうと、最早ヒュースに返す言葉はなかった。どれだけ納得がいかない提案であろうと、ハイレインはヒュースを納得させるだけのことを口にして丸め込んだはずだ。

 あれはうまみとリスクを上手い言葉でまとめ上げる事のできる男である。そしていざとなれば、ハイレインの言葉をヴィザがフォローし、ヒュースを納得させることも可能だ。ヒュースと名前に明確な違いがあるとすれば、ずばりここである。自分を丸め込める人間の有無。あるいは、自分を冷静な状態に戻してくれる人間の有無だ。




致死量の愛に溺れている









 薄曇りの空の下、気温は5度を下回っている。冷たい風が通り抜ける中、真っ赤なマフラーを首に巻いた少女の姿をとらえて、烏丸京介は、はあ、と息を吐きだした。相変わらず、目の前の人間には0と100しかないらしく、もはや呆れて言葉も出てこない。そもそも、自分が今日ここに来なかったらどうするつもりだったのか。能天気に長い髪の毛を揺らして、どこか遠くを見つめる その瞳にはらがたつ。

 寒い中で倒れて気を失っていたのは、そう昔の話じゃない。ほんの数日前の話である。




「ーーー風邪ひくぞ」
「ごめんね。今日なら来るかなって思って、ここで勝手に待たせてもらっていたの」
「それなら、中で待っていればよかっただろ。小南先輩ならお前の顔を見たらすぐに俺に連絡をしたはずだ」
「でも私が行ったら、
 きっと空気が悪くなっていたと思うよ」
「……どうせ、しばらく待っても来なかったら店の方に顔を出すつもりだったんだろ」
「晩御飯もかねて丁度いいかなっていう私の天才的な俯瞰視の結果の采配だよ。賢いって言ってほしいかな」




 ゆらゆらと足を揺らして 赤いマフラーをしっかりと握りしめながら 口からこぼれた その言葉に烏丸京介は「全然賢くないだろ」と、言葉を返した。その声は、どこか怒りを含んでいる。自分に対する怒りであることは、流石に理解していた。優しい人だから。ボーダーにいる人は皆、私とは比べ物にならないくらい優しい。だからこそ、その言葉は周囲の喧騒に埋もれることなく響くのである。

 苗字名前は烏丸京介を見上げて、困ったように眉毛を八の字に曲げてから「こういうの、長引かせた結果。後に引けなくなっちゃったことがあるから」と吐き出した言葉に烏丸京介は瞬間的に那須玲の姿を思い浮かべた。ずるい言葉だと思った。知っているからである。彼女たちの縁が薄れていく過程を。その約1年の年月を。その恐ろしく頑固な苗字名前のプライドがどれほどの確執を生んできたのかを自分はその辺のやつらよりも知っているから。だから、苗字は、そういう言葉を態々選択するのだ。




「教室での件は、完全に私の八つ当たりだった。本当にごめんなさい。きみは私を気にかけてくれようとしただけだったのにね」
「ああなることを予測出来ていたうえで話しかけた 俺にも非はあるだろ。お前のせいだけじゃない」




 その言葉に苗字名前は、ほんの少しだけ目を開いて、烏丸京介を見つめた後に「モテるわけだね」と、マフラーを口元までひっぱりあげて、くすくす、と笑う。そうして、伺うようにして烏丸京介の顔を見つめた後に苗字名前が決心したように口を開いた。

 


「正直に言うと、私いまでも '' 正気じゃない '' と思っているの。でもね、同時に今なら少しだけ『 その人の人間性を見ようとする柔軟性がある 』人たちだったんだって考えられるようになった。ヒュースくんのおかげかな」
「だから態々休日を割いてまで
 本部に行ったのか?」
「うん。だからこれからは、玉狛だけじゃなくて、狙撃手の皆とも少しずつ仲良くしていきたいと思ってる」
「そうか」
「大前提、根本的な考えが変わったわけじゃないよ。近界民は当然殲滅するべきだと思っているし、殺せる状況にあるのならそれを野放しにする理由はない。その考え方は受け入れるけど、理解してあげられるほど私はまだ大人じゃないから。でも、頭ごなしに否定する時期はもう終わりにしようと思って」

 ーーーそれにね、きっと。

 探せばいるんだよ。玉狛支部のいうように近界民にもいい近界民が。それを私たちが受け入れたり、理解したりする器が足りないだけで。


 
「自分が強い事をオマエは知っておくべきだ」



 少なくとも、あの時。

 私は殺す気で向かったはずのヒュースくんを殺せなかった。そして私はあの時。彼の偽りのない言葉に心を動かされた。信じてみたいと、確かに思ったのだ。苗字名前は烏丸京介の隣で笑顔の仮面を張り付けたまま、複雑な感情を隠すようにして固く握った右の拳を左手で覆い隠した。




「玉狛支部(きみたち)が言うように、近界民(ネイバー)にもいい人がいるのかもしれないって、はじめて思ったよ」
「!」
「はじめて思ったっていうより、真正面から納(・)得(・)させら(・・・)れた(・・)っていうのが正解なのかな。すごいね、ヒュースくんは。私は多分、遊真では納得しなかったと思うから、余計に そう思うよ」




 直後、苗字名前は、ハッと口元を覆って「全然暗い話じゃなくて一般的な感想だからね!?」と。

 両手を顔の前で大きく振り払うようにして否定する。別にどんな感想も抱いてはいなかったが、大袈裟に否定する苗字名前の姿に烏丸京介は率直にその言葉をそのまま返した後にさらに「確かに」と言葉を呟いた。




「おまえと遊真の相性は最悪らしいからな」
「緑川くんといるときの遊真は好きだけど」
「緑川が上手くフォローしてくれてるんだろ」
「……もう、すぐそういうこというんだから」




 苗字名前はマフラーを持ち上げて、自らの帰路を見つめた後、ため息をついた。そうして、携帯の電源ボタンを押して表示される時間を確認して、SNSを立ち上げる。迅悠一。その名前を視界に入れた烏丸京介は目を丸めて、苗字名前に視線をやった。「今日はもう会えなそうだね」と。苗字名前が言った言葉に烏丸京介は何も返さなかった。肯定である。

 それを理解したからこそ、苗字名前はバッグを肩にかけ直して「今日はもう帰るね」と、呟いて、烏丸京介に背を向けた。泊っていけばいいという言葉は出てこなかった。かわされることもわかっていたし、多分、迅さんは戻ってこないだろうと烏丸京介もおもったからである。



▽











「ど、どど…どうされたんですか…!!?」




 辻新之助は涙をこらえることができず、顔を真っ赤にして、両手で顔を覆っていた。その後ろには片桐隆明と結束夏凛、そして一条雪丸と犬飼澄晴がいたーーーが、そんなのが気にならないほどに辻新之助の表情は暗かった。苗字名前を前にしてこれ以上があるのかと思うほどに顔から後悔の念がそれはそれはにじみ出ており、正直何があったのかは知らないが、こちらの方が申し訳なくなった。日曜の朝。スカウトから帰ってきた結束夏凛に呼び出されたかと思えばこれである。

 一体どうしたんですか、と。苗字名前が尋ねるよりも前に結束夏凛が「謝罪」と、辻新之助の背中を押した。私は一体何を謝罪されるというのか。もはやそこにあるものは恐怖である。




「わかんないけど、夏凛ちゃんにいじめられたの……? 可哀想だよ、夏凛ちゃん。ほら、先輩。こっちおいで〜〜」
「……やっ、…や、ど……ご…」




 すみませんでした。そういって、崩れるようにして膝をつき、ボーダー本部の冷たい地面に頭を擦り付ける辻新之助を見つめて苗字名前は「どうしたの……」と、顔をあげ、腕を組んで「もっと、誠心誠意!」と無理を強いる結束夏凛の肩を揺らした。

 辻新之助は苗字名前の顔を見ることなく「俺が悪いから」と、土下座の体制から変えることなく、そう言った。その後ろで「正確には犬飼先輩のせいだけどね」と、結束夏凛が犬飼澄晴を責めるようにわかりやすく目を細めた。すると、その瞬間。辻新之助は何かの限界を迎えたのか声を震わせながら「俺は最低です…」と呟き始めた。




「……これぶっちゃけ、何があったの?」
「んーー、犬飼先輩が辻先輩のこと騙してたせいで苗字にあたり強かったって話。因みに先輩達は騙した内容の方に意義があるらしい」
「いや〜〜、まさか騙されるとは〜」
「犬飼先輩は反省してください。名前はこう見えて、すごく繊細なんですからね」
「流石に手厳しいね、結束ちゃんは」
「本件は悪質だと判断したので」




 辻新之助は結束夏凛の冷たい一言に再度「ごめんなさい…」という言葉とともに涙が一層激しく流れ、地面にうずくまった。彼は最早土下座を超えて、逃げるようにして地面にピタリとくっつくようにしがみついている。流石に気の毒である。

 苗字名前は一条雪丸と犬飼澄晴の方を向いて「一体どんな嘘をすり込んだんですか」と呆れまじりに確認をした。その回答に一条雪丸は「苗字が男だってすり込んだんだと」と笑って、犬飼澄晴は「流石に騙されないよね〜〜」と、ピースサインを苗字名前に送った。騙されたの?? それに??? 苗字名前の無言の圧力を感じたのか、辻新之助はギクリと肩を揺らして「ごめん」と呟いた。




「どうりで辻先輩が私相手に平気なわけですね。私はてっきり付き合いが長いから慣れてもらえたのかと思っていたのに…」
「正直、私もそう思ってたわ」
「辻ちゃんがあまりにもウブだから おれとしてはなんとかしてあげたいなと」
「真面目な顔で嘘つくのやめてくださいね」
「うわ、信用ないね。でもおれ的には、2人(・・)からしたら棚ぼた案件かと思ってたんだけど、そうでもないんだ?」




 ほら辻ちゃん、そろそろ起きてと呼びかける犬飼澄晴の手を取った辻新之助は苗字名前の姿を見て、申し訳なさそうに眉を顰めて頭を下げた。気にしなくていいですよと辻新之助に声をかける苗字名前の後ろで「棚ぼた案件、ですか」と、片桐隆明が呟いた。そうしてそこから感じる明確な怒りに一条雪丸は「あーーー」と、頭を掻いて、結束夏凛は「私はしらん」と、苗字名前の目を覆う。

 別に辻新之助が悪くないことはわかっている。犬飼澄晴の言葉と行動の意図も。それでも、今日まで苗字名前がどんな態度を取られていて、どういう気持ちだったのかを考えた時。冷たい水を浴びせられたような衝撃が片桐隆明を襲った。スカウトから帰ってきたら、遠征で苗字名前が危なかったことを聞いた。出水公平がいなければどうなっていたのかも分からなかったと聞いた。そんな中で辻新之助の言葉は片桐隆明にトドメを指した。怒りがじわじわと内側から沸き上がったが、それを苗字名前が片桐隆明の手を握ることでおさめた。




「ーーー隆明くんには、
 私が怒ってるように見える?」
「…………名前が怒っているかどうかじゃない。俺が気に入らないのは、」
「はいはい、ストップスト〜〜ップ。もう 辻先輩も謝ってくれたし、苗字も怒ってないなら、これ以上はヤブヘビでしょ」
「えっ、ゆきまる! 物分かりいい〜〜!」
「苗字が隊長の怒ってる顔みたくないのはなんとなくわかるしね」
「それもあるけど、私は犬飼先輩の判断が全部『 間違っていた 』とも思わないもん。どんな形であれ辻先輩の意見を私に届けるって判断は『 二宮隊 』としてみるのなら正解だった。だから辻先輩が私に頭を下げる必要を私は感じない」




 結束夏凛は苗字名前の口から出た言葉に目を丸めた。その心は、犬飼澄晴を擁護するような言葉が苗字名前の口から出るとは……で、ある。これはまた……。自分達がスカウトに行っている間に苗字名前の何かが変わったというところか。明日、学校でオペレーター女子達からサクッと情報を集めなければ。そう。苗字名前の口から出る犬飼澄晴はいつだって、否定的なものばかりであった。それを知っているからこそ、片桐隆明は犬飼澄晴の行動に余計に腹を立てたのである。

 そうして「はい、この話はおしまい!」と、手を叩いた苗字名前は結束夏凛の手を取って「ちょっと、別件で相談に乗って欲しいかも」と、困ったように笑う。それもまた、意外で結束夏凛は片桐隆明の肩に手を置いて「悪いけど、別件」と呟いた。そうしてそれに、片桐隆明は小さく頷いて、顔の前で申し訳なさそうに手を合わせた苗字名前に、ふんわりとした笑顔を浮かべて「また後で」と、一条雪丸と共に苗字名前に手を振った。




「…………らしくなかったんじゃん?」
「俺は犬飼先輩のやり方が理解できるから腹が立つんだ。名前なら俺達の…いや、周りの衝突を避ける。あの人は そうやって全部踏まえた上で、その場を丸く収めて、その上でカミングアウトできると想定していた」
「んー……タイミングによってはバチついてた気もするけど、ここまでバレてなきゃ 確かにそういうことにもなるか」




 ーーーそんなことよりも、ムカつくのは。

 一条雪丸はゆっくりと目を細めて、はいおわりね〜〜、とでもいうかのように、自分達に背を向けて歩き出した二宮隊の2人に視線を移した。辻先輩は兎も角、犬飼先輩はオレたちではなく、あくまでも苗字や辻先輩に目配せをした上で、冗談めかして、からかうように口にしていたが、アレ(・・)は、どうかんがえてもオレ達に言っていた。


「でもおれ的には、2人(・・)からしたら棚ぼた案件かと思ってたんだけど、そうでもないんだ?」


 それを聞いた瞬間。一条雪丸は胸の奥に燻っていた怒りが爆発しかけて、そうして、ものの数秒で冷静になった。片桐隆明の姿を見つけたからである。そういう意味で、隊長には感謝しかない。どうやら人間、自分より冷静じゃないやつを見ると冷静になれるというのは本当らしい。片桐隆明の方はどうだか知らないが、一条雪丸の方が犬飼澄晴の行動に腹が立たなかったのには『 それ 』が関係していたからである。棚ぼただと思っていた。そういう行動をしてくれんのは助かるし、ムダにギスギスする相手を作らずに済む。だから、正直なんとも思わなかった。だって、苗字には辻先輩のクソな態度を巻き返せるだけの人間関係がある。だから、それは棚ぼた案件だった。

 それを言葉にされたのが腹立たしかった。自分の為の行いのくせに、オレ等にも徳があっただろう、という。その発言にはどういう意図があるのか。そんなものは決まっている。きみたちも少なからず恩恵を受けたのだから、この件はもう良いでしょ? これだ。




「……本当、良い性格してんな」












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[Espoir]