
未知の世界への入り口
「いたいた。名前ちゃ〜〜ん!」
「? 相田先輩……? 重要な連絡ですか?」
名前は自分を呼ぶ声の方へと顔を向ける。
声の主は相田リコだ。けれど、どうしてここにいるのだろう。1年生と2年生の教室は それぞれ別の階に設けられており、2年の先輩がここに来る理由は直ぐには思い浮かばない。故に名前はリコに『重要な連絡』であるのかどうかという問いを投げた。けれど、その問いの答えは『どちらとも言えない』である。黒子と火神。間違いなく、1年生の即戦力である二人が立て続けに本入部届を要求してくるものだから待つ事が焦ったくて、つい届けにきてしまった。
「(ーーーしかし、驚いたわね)」
苗字名前は確かに相田リコが見てきた女の子の中でもトップクラスに可愛らしい容姿をしている。初対面の時の彼女の伺うような瞳も滅茶苦茶可愛かった。けれど、いま自分を真っ直ぐと見つめている この瞳。警戒心を微塵も感じないような柔らかい表情。きっと芸能人を目の前にした人間は今の自分と似た形容し難い感情に襲われるのだろう。事実、先程までは彼女を伺うようにして見ていた沢山の野次の瞳が、自分が話しかけて彼女に笑顔が見えた瞬間から明らかに変わっている。
苗字名前は、確かに可愛らしい容姿をしているけれど、これ以上の人間はいない、と思わせる程であるかと聞かれるとそういうわけではない。けれど、彼女の纏う雰囲気が周りの視線を惹きつけて離さないのだ。
「黒子くん達には渡したんだけど、名前ちゃんの分を持っていってもらうのを忘れちゃってね。早く見つけられてよかったわ」
「ありがとうございます。ですが、これからは私に連絡を入れてください。私、まだ雑務くらいしかやれる事がないから せめてそこだけでも、皆さんの力になりたいです……!」
「それなら 暫くの間、名前ちゃんには試合を見ながら同時進行でルールを覚えていってもらう。それで、出来ればインターハイまでには完璧にしてもらいたいんだけど……」
「問題ありません」
リコは名前の表情に口角を上げる。
全く、今年の1年生は選手からマネージャーに至るまでなんと頼もしいことだろう。自分の手元にある紙を受け取った苗字名前の瞳には一瞬だって迷いがなかった。確かに、試合を見ながらルールを覚えていくのは効率的だとは思う。けれど、それはあくまでもバスケットボールという競技がある程度頭に入っていたのならばの話だ。人よっては、本なんかの資料を見て勉強する方が遥かに効率がいい場合だって、勿論ある。それでも即答。
「……それだけ自信があるって事は、もしかして、もう本を買って勉強しているとか?」
「そういうのは全然買っていないです!」
「いや、そんな『もちろんです!』みたいな顔して『ないですね』って言われちゃうと、こっちも反応に困るんだけど……」
「バスケットボールを嘗めているわけじゃあないです。それでも、友達が好きだという競技のルールを覚える事なら出来ます。自分の物には出来ないかもしれないですけれど」
「最後の言葉がなければ頼もしかったなー」
まあでもーーー。
ふ、と相田リコは笑みを浮かべる。
「(本心から言っているし、問題ないかな)」
リコはポケットに突っ込んでおいたシャープペンシルを取り出して「もう一回貸して」と本入部届を指差す。本入部届を指差された名前は分かりやすく頭上に『?』を浮かべながら本入部届を相田リコに渡す。平気そうな顔をしているけれど、情けない言葉を直前に発言している名前の心中は穏やかではない。
「(入部価値なし! とか言って、入部届を破かれたら黒子くんになんて説明すれば……)」
実際に名前の心配は全く無駄であった。ここだけの話、相田リコは、お世辞にも料理が上手いとは言えない。他の面で、どれだけその点を補っていたとしても、重要な場面でボロが出る時がある。そして、それが顕著に現れるのが大イベント『合宿』の時である。
部費は去年の大会成績のおかげで、他の部活よりは多いかもしれない。けれど、余裕があるわけではない。削れるところは削っていきたい。そこで、マネージャーの存在は大きい。名前が料理が上手なのかどうかは、全くわからないけれど、自分よりは間違いなく良い筈。出来れば、大会の時の強い味方『はちみつレモン』をーーーいや、もう料理全般をもれなく押し付けたい。そんな事を考えているリコが入部を希望する名前を切り捨てるはずがない。
「無計画じゃあ効率が悪いでしょ? 取り敢えず、ここにバスケのルールを勉強する上で読んでみて欲しい本を書いておいたから暇な時に目を通しておいて。因みに、こっちの本は前に小金井くんが図書室で見つけたって言っていたから借りられると思うわよ」
「あ、ありがとうございます……!!!」
「誠凛は新設校っていうこともあってか、本のリクエストをすると結構実物を用意してくれるみたいなのよ。だから応用の方はダメ元でリクエストをしてみるのも良いかもね」
名前はリコに教えてもらったバスケットボールの本を今日にでも借りていこうと図書室の方へと足を進めていたのだけれど、その途中で呼び止められ足を止める。呼び止めたのは黒子テツヤだった。内容は、お昼ご飯を一緒に食べないか、というものである。
名前は嬉しそう首を縦に振って、大きく首を振るところで動きを止めた。放課後に時間は取れない。図書室の利用時間の都合上、放課後はどうしたって難しい。つまりお昼休みに借りに行くか、購入するしかない。購入をすることに戸惑いがあるわけではない。寧ろ、監督ーーー相田リコーーーのイチオシのものだというのならば是非購入したいとすら思う。思うけれど、実物が見れるこの状況ですぐにその判断を下すのは あまりにも考えなしだ。だって読んでみてほしいと彼女が勧めてくれた本は別に図書室に置いてあるというシリーズの本だけではない。つまり、それを一通り読んでから購入を検討し、他の基礎本を購入したうえで、図書室に応用をリクエストするというのが理想的な模範回答なのだ。だから、名前は肩を落として、黒子テツヤからの昼食のお誘いを断った。断ったのだがーーーー
「……ごめんね、黒子くん。結果的に私の用事に付きあわせるみたいになっちゃって」
「図書室には通う予定があったので大丈夫です。流石に今日行く予定はありませんでしたが、どのジャンルの本が豊富なのか確認出来ると後にボクが楽できるので一石二鳥です」
優しいね、ありがとうとお礼を言う名前を横目に黒子は今言ったことは全て事実なのだけれど、と思うけれど口にはしない。
特別な会話は何もしないで、名前の隣に並んで歩いている黒子テツヤは先日の名前の言葉を思い出していた。3年間が楽しみで仕方がない。自分と同じチームになりたい。名前は、そのように口にしていた。だから黒子の今の行動は本当は先日、無理矢理帰宅させたお詫びも兼ねているのだけれど、名前がなにも言わないし、聞かないでくれているから、敢えて自分からも口にしたりはしなかった。
「ーーーわっ。みてみて、黒子くん『男子バスケ部新人戦関東大会出場!!』だって」
「ボクは昨日見たので知ってました」
「……関東大会出場って、凄いのかなあ」
口元に手を当てながら目の前に貼られている学生新聞を見つめている名前を見て黒子は妙に納得する。
帝光中学は自分の入学した代にはもう既に全国大会に出場していた。恐らく、苗字名前の基準は彼女が何か部活動に打ち込んでいない限り、帝光中学が基準になるだろう。しかも、あの中学は所謂マンモス校にあたる中学校であり、あらゆる分野で秀でている人間がそれなりに沢山いた。当時、最もスポットが当たっていたのが偶々バスケットボール部だったというだけで、他の部も県大会出場を果たしている部はいくつかあった。だから、凄さがいまいち理解出来ないのだろう。
「マネージャー」
火神大我が名前を見つけて声をかけた。
黒子は直ぐに火神は名前に声をかけているのだと分かったけれど、名前の方は『マネージャー』=苗字名前であるということに気が付いていないらしい。名前の今までと火神大我とのコミュニケーション回数を考えれば当然とも言えるけれど。黒子テツヤは完全に無視をされて不服そうな顔をしている火神と、全く気が付いていない名前を交互に見て、教えようか迷うけれど、その前に火神が名前の肩を掴んだ。
「ーーーオイ、マネージャー!」
「わあっ!!? か、火神くん!?」
「こんな所で、なにしてんだよ」
「実はね、学生新聞の『男子バスケ部 関東大会出場!!』っていう記事を見ていたの」
「へー、ここのバスケ部って凄いのか?」
「…………どうなんだろう」
「仮入部とはいえ入部した二人が二人して その反応ってどうなんですか。すごいですよ」
黒子テツヤの突然の会話参戦により、声をかける際に名前の肩においていた火神大我の右手に力が篭った。お陰様で、火神が声にならない悲鳴をあげている その隣には火神大我とは別の意味で悲鳴をあげている苗字名前の姿がある。その悲鳴を聞いて、冷静さを取り戻した火神大我は「悪い」と名前の肩から慌てて手を離すが時すでに遅し。左肩をおさえて涙目になっている名前の姿と、それをあからさまに非難する一般生徒の視線が火神大我に凄まじい罪悪感を植え付けた。
その結果、その反対の左手に握られている火神の本入部届は大変悲惨な形に変形しており、火神は額に青筋を浮かべて元凶である黒子テツヤに冷ややかな視線を送った。
「おちょくってんのか? おちょくってんだよな? つか、おまえもコイツがいるの知ってたんなら言えよ!! ビビっただろうが!」
「タイミングがなかったよね…それに、肩を負傷した私が一番の被害者だと思うの……」
「……そ、それは悪かったっつってんだろ」
あまりに一瞬の出来事だったものだから、どの程度の力を入れたのかも覚えていない火神だけれど、苗字名前の表情から察するに相当の力を入れたのだろうということは想像に難くない。一瞬過ぎて覚えていない程ということは割と全力をいれたのではないだろうかーーーというか、もう今となっては、全力で力を入れた気しかしない。
「(……ていうか、この二人昼休みまで一緒にいるとか どんだけ仲がいいんだよ)」
どういう関係だよ。違う中学なんだろ。火神大我が此処に辿り着く直前に相田リコに聞いた限りでは苗字名前は『帝光中学』ではなかった。けれど帝光中学での繋がりじゃあないというのならば、逆にどこで出会うというのだ。観客と選手だろうか。それならばマネージャー業がからきしダメだというのも理解できる。でもそれならば、黒子が何故『キセキの世代』の話をするな、などというのか。観客なんて試合には ごまんといる。そのうちの一人が中学の超有名人である帝光の人間と、そこまで親しくなれるものだろうか。
「(……そーいや、なんでだ?)」
他の『キセキの世代』は
みんなもっと強豪校に行ったんだよな?
なんでコイツは行かなかったんだ!?
「おい、黒子……」
図書室の棚からバスケットボール関連の書物が置いてある場所を探し出したのは名前ではなく黒子テツヤだった。
ーーーと、いうのも名前は廊下に一人置いてきた火神大我が気がかりで同じ場所をぐるぐると回る事を繰り返しており、書物を探す事に集中していなかったからである。まあそれもこれも「火神くんは置いていってしまって大丈夫だと思います」という黒子テツヤの一言から開始した流れなのだから黒子の口から文句が飛び出す事はない。
「少しだけ見てみましたが、イラスト付きの分かりやすいものだったので、練習試合と並行してやれば相当身につくと思いますよ」
「黒子くんのお墨付きだし、何日か借りてみて良かったら購入しようかな。応用の方は一回リクエストしてみて考えます」
リクエスト用紙と目的の書物を持ってカウンターに向かった名前は貸出カードに名前を書いて図書委員の人に手渡すと大変満足気な顔をして書物を両手で抱きしめながら黒子の隣に並ぶ。その書物は苗字名前にとって『未知の世界への鍵』のようなもので、中身を除いた時に彼女の物語が始まるのだ。
黒子は名前に集まる視線を左頬に感じながら、彼らと共に過ごした中学時代を思い出す。あの時も、こうやって彼らに集まる視線を近くで感じていた。懐かしい視線だ。彼らを見る視線と違うものだけれど、あの時感じたものとよく似ている気もした。
「あっ、そういえば苗字さんも本入部届を貰ったんですよね。月曜日の8時40分に屋上っていう話は聞きましたか?」
「そんな話、私は聞いていないけれど……」
「……聞き逃したんですか?」
「…………そうかもしれない」