03

逃げる兎と追いかける風


 フラワーフェスが大盛況の後に幕を閉じた翌日は、あっけないくらいに普段と変わらぬ日常に覆われている。街中も、学院の中も、まるで昨日のことが夢であったかたのようだ。ただ、授業の合間に聞こえてくる『紅月』と『fine』を称賛する声が、彼らの美しい一瞬をたしかに存在させていた。
 事件が起こったのは、欠伸をしたくなるほどのんびりと進む授業を終え、学院の大半が下校をした頃だった。

(よ〜し、こんなもんかな?)

 夢ノ咲学院の食堂――ガーデンテラスに並べられた花壇の前で腰を上げたわたしは、じわりと滲んだ汗を拭い、満足げに花々を眺める。
 ガーデンテラスは、貴族の庭園じみた景観だ。季節の花々が咲き乱れ、青々とした芝生は丁寧に刈り込まれている。月に一度は必ず、業者が入り手入れをしているが故の美しさだけど、そうはいっても植物は毎日変化する。開花を終えた花は枯れて茶色く変色するし、数日目を離しただけでも雑草はぐんぐんと生長する。そこで、学院では校内アルバイトの一環として、ほぼ毎日園芸のボランティアを募集しているのだ。
 校内アルバイトはその名の通り、学院の担当者が募集している校内の生徒のみ応募可能なアルバイトだ。一部の特殊な場合(地域ボランティアとしての海辺の清掃や商店街の花壇手入れ)を除き、学院の中だけで完結する仕事が多い。たとえば、学院の倉庫の整理、建物内外の清掃、花壇の手入れ、ドリフェスの受付や案内など。アルバイトをこなすと学院内のみで使用可能な校内通貨が貰え、それらはレッスン室の使用料、衣装費、購買や食堂、校則違反の罰金支払いに消費することができる。結成したばかりの『ユニット』が軍資金の調達のために行うことが多く、普通科の生徒がアルバイトをすることはそれほど多くないけれど、購買や食堂で使用可能な点はありがたいし……。それに、この校内通貨はレートは低いものの現金との交換も可能なので、「バイトする時間があるのなら勉強しろ」方針の家庭では割とありがたかったりする。完全下校と同時に帰れば、「部活だった」「学校で補習をしていた」「図書室で自習をしてて」と、言い訳はいくらでもつくれるから。
 あと三十分もすれば、完全下校のチャイムが鳴る。担当の教師に作業終了の報告をするため、その場を後にしようとした時。

(うん?)

 ガーデンテラスの建物内に、小さな人影が蠢くのが見えた。
 食堂での作業は全て終えているのだろう、建物内は既に薄暗い。目を凝らし、その影をじっと見つめて、どうやらスカートを履いているらしいことが分かる。すぐに普通科の女子生徒が侵入したのではと考えるけど、更によく見ていると普通科の制服とは形が異なることに気がついた。なんだろう、アイドル科の制服を、そのまま女の子用に誂えたような……?
 見たことのない制服に困惑しているうちに、その女の子は建物内にいくつも設置された戸棚のひとつに、身を隠す。
 一体何をしているのかとぎょっとし、声をかけようかと足を動かす、その直前。

「お〜い? どこに逃げちゃったのかな〜?」

 胸の内側にするりと入り込んできそうな、男性の甘い声が響いた。わたしはヒュッと喉奥を鳴らし、すぐ側の生垣の裏に体を隠す。
 人気のないガーデンテラスを堂々と歩く人物は、わたしもよく知っている。
 羽風薫。先日わたしに革命の話を持ちかけてくれた零さん率いる『UNDEAD』の一員で、その甘いルックスと深みのある歌声で二枚看板の片側を担う人気アイドル。実力は大したものだが、その素行は非常に問題視されており、その名に含まれた「風」のごとくのらりくらりと気まぐれな人物だ。アイドルとしてというよりも、普通科の女の子をはじめとした一般人とデートを繰り返す遊び人として名が知れ渡っているほど。今回の革命にも、彼は全く関与していないといっても過言ではないだろう。もちろん、『UNDEAD』として舞台に立つなど、必要最低限の行動はとってくれるんだろうけど――。
 放課後は大抵女の子たちとよろしくやっているイメージの彼だが、今日はまだ学院に残っていたらしい。もしかしたら、珍しく『ユニット』の練習に参加していたのかも。
 上機嫌に鼻歌を歌いながら、彼は歩みを進めている。

「転校生ちゃん、隠れてないで出ておいで? お話しようよ」

 転校生、という彼の呼びかけに、わたしは唐突に理解する。
 なるほど、彼女が零さんに動乱の種と称された『プロデュース科』の女の子か。目にしたことがない制服であったのも頷ける。などと、納得している場合ではなかった。
 目の前の羽風薫の動向を見ながら、わたしの背には先程から冷たいものが走っている。
 だって、なんというか、非常によろしくない状況だ。
 一部始終を見ている身としてこれだけははっきりと言える。間違いなく転校生は怯えて逃げているし、羽風薫はそんな彼女の感情をまるっと無視して追いかけている。彼になびかない女の子がいたことに物珍しさでも感じたのだろうが、それにしたってこの行為は最早ストーカーである。
 その体格の良い背中に飛び蹴りでもお見舞いしたい気持ちを抑え、わたしは軽音室めがけて一目散に走り出す。彼の暴走を止められるとしたら、ひとりしかいなかった。

「零さーん!」

 ノックもそこそこに部室の扉を勢いよく開け放つと、羽風薫以外の『UNDEAD』メンバーが勢揃いしていた。加えて、一年生の双子ユニット『2wink』もいる。

「うぉ!? テメ〜、レッスン中に急に入ってくんじゃねェ〜!? ビックリするだろ〜が!」

 勢いよく噛み付いてきたのは『UNDEAD』の二年生、大神晃牙。狼、もしくは犬のようにはねたグレーの髪、金色の瞳という野性的なルックス、乱暴な口調の豪快な少年である。その実、根はまっすぐでやさしく案外真面目、自由人の多い『UNDEAD』の中だとかなりの常識人、なのだが――。

「うるさい犬っころ、敬語を使えってこれで何度目だっ? わたしはあんたの人生の先輩!」
「俺様は犬っころじゃねぇ!」
「だぁから、犬呼ばわりが嫌ならまずは先輩を敬えってば! 尊敬しろ、崇め奉れ、そしてひれ伏せ!」
「言ってることめちゃくちゃだぞテメ〜! そもそも敬うとこなんか一個もねぇよ!」

 わたしとは大体、このような言い争いが起こる。
 とはいえ、お互い言葉の全てが本心というわけではなく。一年前、出会い頭に「チビ、こんなヤツが先輩とか信じらんねぇ」と言われ、「だまれ犬っころ」「犬っころじゃねえ! 大神晃牙だ!」「狼? 犬で十分じゃん!」「ムカつくヤロ〜だな!?」といった争いをして以降、お決まりのようにこのやり取りをしているのだ。決して心底嫌い合っているわけではない。……たぶん。
 きゃいんきゃいんとそれこそ犬のような言い合いを繰り広げるわたしたちを呆れたように眺めながら、「嬢ちゃん」と零さんが割って入った。

「随分慌てていたが、何かあったのかえ?」

 窓から差し込む西日を背負いながら、彼は小首を傾げる。
 その言葉にわたしは我に返り、そうだったと、零さんを真っ直ぐに見た。

「たいへんだよ、羽風薫が転校生ちゃんのケツ追っかけまわしてるんだけど!」
「言い方、言い方」

 突っ込んだのは『2wink』の葵兄弟だった。同じ声色がふたつ、ぴったりと重なっている。
 その横で『UNDEAD』のもうひとりの二年生――アドニスくんが首を捻った。「ケツを追いかけまわすとは……」「おいテメ〜、変な言い方するんじゃねぇよ! アドニスが混乱してるだろうが!」
「ごめん」と、これには素直に謝るしかない。

「薫くん、練習を抜けたきり戻らないと思ったらそういうことかえ……」

 零さんは老人のように重たそうな腰を持ち上げる。どうやら、彼の元に行ってくれるらしい。
 ガーデンテラスにいたこと、転校生は建物内の戸棚に隠れたことを伝え、満足げに帰ろうとするわたしの背に、「嬢ちゃん」と呼び止める声がかかった。
 不思議そうに振り返るわたしに、彼はさらりと告げた。

「何を帰ろうとしとるんじゃ。一緒に行くぞい」
「えっ、なんで……!?」
「折角の機会じゃ、転校生の嬢ちゃんと軽く顔合わせもしとくとよい。もともと『S1』までには一度話し合いの場を設けるつもりだと言っておったじゃろ」
「げぇっ」

 さも当然のようにされた提案に、些か女のものと思えない下品な声が出た。案の定、零さんが「なんじゃその声は」と静かに指摘する。

「あれ、本気だったんだ〜? わたし抜きでも話し合いできるだろうから、冗談かと思ってたぁ……」
「本気も本気じゃよ。お互い味方だと認識できていた方が、万一のことがあったときに楽じゃろ」
「ううん……、わたし、何かあった時に助けられるほど有能じゃないし信用されても困るんだけど……? そもそも急にこんな普通科の女が現れたら混乱しちゃうでしょ、やっぱりやめようよぉ」
「全く、変なところでノミの心臓のようになるのう? こうしとる時間がもったいないわい、転校生の嬢ちゃんが襲われでもしたらどうするんじゃ」
「襲われ……っ!?」

 いや、いくらあの遊び人でも、流石にそれは。
 そう言いたいのに、零さんがあまりにも真面目な表情をしているものだから、わたしは意を決して彼と共に向かうことにした。

「襲われる」というのはやはり方言だったのか、ゆったりと歩く彼の腕を全力で引っ張りながら、わたしは再度ガーデンテラス横の建物まで辿り着く。

「あれっ?」

 羽風薫ひとりだったはずのそこには、もうひとり少年が立っていた。彼よりも少し低い背丈に、赤みがかった鮮やかなピンク色の髪。クラスの人気者のような雰囲気を醸し出すその人物は、羽風薫と対峙して困ったように眉を寄せていた。なんだろう、どこかで会ったことがあるような……?

「あれは……衣更くんじゃな」
「衣更くん……」

 零さんが呟いたけれど、わたしにはピンとこなかった。曖昧な返事をして首を傾げるわたしに、彼は「どうしたんじゃ」と問うた。

「ううん。どっかで会ったような気がしたんだけど、気のせいだったかなあって。聞き覚えのない名前」
「ふむ。今年度から正式に生徒会の会計に任命されとるが、たしか昨年も生徒会周りの雑用をこなしておったからのう……。どこかですれ違ったりしていたのかもしれんな。ちなみに、『Trickstar』の一員じゃよ」

 彼の説明に、そうだったのかもしれないと納得する。
 昨年といえば、学院の抗争真っ只中の時期だ。その間わたしは生徒会に何度も侵入していたし、蓮巳と鉢合わせて激怒されていたし、彼に命じられた生徒会の人間から全力で逃走していたりもした。その中に、衣更くんもいたのかもしれない。

「しかし、生徒会のメンバーも把握しとらんとは。最近は大人しくしておるようじゃな?」
「そうだよ、蓮巳は信じてくれなかったけど。ひどいよね、わたしのこと何だと思ってるのかな」
「何、とはおもしろいことを聞く。『問題児』に決まっとるじゃろ?」

 意味ありげな瞳でこちらを見つめた彼は、くっくっく、と魔王のような笑いを零した後、「さてと」と一歩前へ出た。

「我輩は薫くんと話をつけてくるとしよう。嬢ちゃん、くれぐれも逃げるでないぞ?」
「分かってるよ〜……」

 満足げに笑った彼が、ガーデンテラスと建物を繋ぐ通路の真ん中に堂々と立つ羽風薫の元へと向かった。そして、あの不思議と耳に残る声で、薫風のようなその男の名を呼ぶ。

「――薫くん」