さよならと白骨


 夕暮くんの妹――名前は名前というらしい――が住むアパートには、日付が変わるぎりぎりに着いた。
 しんしんと降る雪が風に流され、コートに触れては溶けていく。寒さに耐えるように突っ込んだポケットのなかに、普段は吸わない煙草があった。夕暮くんがよく吸っていた煙草だ。それ以外も、身に着けた腕時計、アクセサリー、服から靴まで、その全部が夕暮くんが使っていたもの。
 僕は、夕暮くんの代わりに、夕暮くん本人として妹に会いにきている。
 夕暮くんの葬儀に、妹は呼ばれないだろう。彼は徹底して、妹という存在を隠し通していた。殺連の一部の人間は秘匿情報としてその事実を知っている可能性はあるものの、隠された存在をやすやすと葬儀に参加させるわけがない。もちろん、僕も呼ぶつもりはない。そんなことをしてしまえば、一般社会で生きてほしいからと敢えて離れた夕暮くんの努力が無駄になる。
 大切なひとの死を知らされないまま生きていくことは、かわいそうだろうか。浮かんだかすかな罪悪感を押し殺す。夕暮くんは生きていると、騙しつづければいいだけだ。一般人の女の子に変装が見破られるとは思えないし、結婚式を見届けたら適当な理由をつけて会わないようにすればいい。
 こじんまりしたアパートだけど、共通の玄関はオートロックになっていた。かじかんだ手でインターホンを押す。ほどなくして、「はい」と緊張した女の声がした。

「オレ。遅くなって悪い」

 待ち合わせに遅れたとき、彼がいつも言っていたように。声色、声の調子、間の取り方、ぜんぶを真似て発すると、「遅い!」と妹は疑いもせずに怒った。インターホンを切る間もなく、部屋を駆けたのか、ばたばた、ばたん! と足音と扉の閉まる音が届く。まもなく、階段を駆け下りる姿が見えた。なるほど、部屋から自動で開錠はできないタイプのオートロックらしい。
 袖の大きなトレーナーとロングスカートで現れた彼女は、扉を開けると「さむっ」と小さく身震いした。写真で見ていたとおり、夕暮くんと目元がよく似ている。醸し出す雰囲気は、ぜんぜん違うけれど。
「遅い」と再度言った彼女が一瞬身構えたのは、再会の度に夕暮くんに馬鹿みたいに抱きしめられていたからだろう。彼の話しぶりを思い出しながら、「名前〜! でっかくなって!」と、がばりと抱きついた。

「うわ、相変わらず……! はなせ、ばか兄! 身長なんてもう伸びてないし!」

 腕の中でジタバタともがく彼女に笑って、しばらくしてから解放する。「もう寝ようかと思ってた」と唇を尖らせる彼女に、こちらを疑う素振りはない。
 妹の住まいは、1DKの手狭な部屋だった。夕暮くんとは対照的に荷物が多く、本や漫画が棚にぎっちりと並んでいる。ベッドの上にはぬいぐるみ。ほんとうに、物騒な世界とは無縁の生活感があった。
 リビングの中心に置かれた机の上に、所狭しと料理が並べられていた。トマトのカプレーゼ、ポトフ、グラタン……。みごとに先輩の好きな料理ばっかりだ。

「うわ、美味そ」
「そりゃね、久々に会うんだもん。頑張るよね。あっためなおすから、ちょっと待ってて」
「おー」

 キッチンに運ぶ背中を見つめながら、(来てよかった)とホッとした。
 コートのポケットから煙草を取り出す。夕暮くんは、食前と食後の煙草をルーティーンにしていた。この間、酔っ払ったときに「妹には吸いすぎんなって怒られてたなぁ」と言っていたから、彼女の前でも吸っていることは間違いない。予想通り、こちらをちらりと見た彼女は、口をへの字に曲げて「ほどほどにしてよ」と呆れた。

「わぁーってるよ」

 煙草とライターを鷲掴み、ベランダへと向かう。
 冷たい風が頬を刺した。こんな寒い中で好きでもない煙草を吸うとかどんな拷問だよと思ったけれど、夕暮くんを演じるためには仕方がない。コンビニで買った安物のライターで火をつける。風が強くて、ちょっとだけ手こずった。夕暮くんお気に入りのジッポライターは変形して使い物にならなかった。直す時間はなかったから、別のライターを用意したことに、「なんでライター使ってくれてないの」なんて指摘されたらどうしようと思っていたけれど。キッチンで料理と真剣に向き合う妹は、こちらを全く気にしていない。
 ベランダに置かれた小さな椅子の上に灰皿があった。何気なく灰を落とそうとして、はたと違和感に気づいた。煙草が一本、既に捨てられていた。

(妹も、煙草吸ってる……? あれ、でも)

 直後、部屋の中から激しい足音が向かってきた。「お兄ちゃん!」慌てて扉を開けた彼女とばっちり目があって、僕は一瞬、放心してしまった。それが、失敗だったと思う。

「……灰皿、見た、よね……?」

 彼女が言葉を紡ぐ途中、背中に嫌な汗をかく。夕暮くんなら、見つけた瞬間に「名前ー! なんだこれ!」と怒り、大股で彼女に詰め寄ったんだろうと、今更ながらに思う。
 ぐ、と腕が引かれた。視界が反転する。背中に鈍い痛みがあって、妹に馬乗りをされていた。まっすぐに僕を見た瞳が不安げに揺れて、シャツの胸元を握る手に力が込められる。

「……あなた、誰?」

 ……あーあ、やっちゃった。
 粘れば誤魔化せる可能性はあったかもしれないし、彼女を気絶させて逃げ出すことだってできた。けれど、こちらを見つめる目が先輩とよく似ていて。なんとなく、嘘をついたり逃げ出したりせることを躊躇ってしまった。
 諦めて、変装を解く。彼女の目が大きく見開かれる。

「ごめん。殺連の南雲です」
「殺連……?」

 敵意はないというように脱力していたら、僕を押し倒す妹の力は徐々に緩んだ。

「お兄ちゃん、任務で来れないの。別に、言ってくれたら……」

 そこまで零して、彼女の目がなにかに気づいたように曇った。さすがに、その可能性に気がつかないほど鈍感ではないらしい。それもそうだ、そこまで鈍いひとだったら、僕の変装が見抜かれることもなかった。
 僕は、ゆっくりと頷く。

「任務先のスイスで、死亡が確認されました」

 しばらくの、間のあと。
 妹は、僕の胸元から手を離すと、「あの、ばか兄貴」と絞り出した。もっと動揺して、声をあげて泣くものだと思っていたから、少なからず驚き、同時に拍子抜けする。
 キッチンからぐつぐつがたがたと音がして、ハッとした彼女が起き上がった。「やばっ」呟くと同時に、大慌てでコンロへと向かう。ポトフの入った鍋が、これでもかと揺れていた。
 コンロのスイッチを消した彼女は、立ち上がる僕に視線を向けると、「変装も、頼まれてですか」と不思議そうに尋ねた。いえ、と首を横に振る。ここまできては、嘘をつく意味がない。

「プレゼントを渡してほしいっていうのと。代わりに結婚式まで見届けてって言われたので、勝手に」
「あは。優しいんですね、南雲さん」

 小さく笑った彼女が、「そっか、でも、バレてたか」とぽつりと続けた。どうやら、夕暮くんの予想はほとんど当たっていたようだ。結婚を前提に付き合っているひとがいて、そのひとと会ってほしいと頼むつもりだったらしい。
 「お兄ちゃんうるさいの」と、思い出に浸るように彼女は目を細めた。

「車道側を歩かない男は駄目、待ち合わせに遅れるのはズボラな証拠、初デートでドライブ提案するヤツは危険、バーでやたら酒勧めてくるヤツもアウト。相手の仕事が3Bは絶対駄目だとか、殺し屋はもっと駄目だとか。自分だって殺し屋のくせにね」

 夕暮くん、本人にも「殺し屋は駄目」なんて言っていたのかと若干呆れた。というか、前半部分は夕暮くん自身のことじゃない? 棚にあげているのか、自分がクソだと自覚しているからこその発言だったのか。
 妹は、「今度のひとは、ふつうのひとだと思う」と顔を上げる。それから僕を見ると、「そうだ」と妙案を得たと言わんばかりに手を打った。

「変装してきてくれません? 彼氏にも、お兄ちゃん紹介するって言っちゃったから。死んだなんて気を遣わせたくない」
「……いいけど」

 元々そのつもりだったから、僕としてはかまわない。それにしても、随分とあっさりしていると思った。夕暮くんが「一般社会で生きている、ふつうのヤツ」と繰り返していたから、ほんとうに何も知らない、純粋で無知で、コテコテの平和主義みたいな子で、夕暮くんの死を受け止めるには時間がかかると思い込んでいたけれど。腐っても、殺し屋の家系で生活していたことが影響しているのだろうか。
 彼氏と会うという日取りを聞いて、「じゃあ」と部屋を出た。扉が閉まる間際、妹はぺこりと頭を下げた。
 外はまだ雪が降っている。階段を降りながら、(うまくいかなかったな)と溜息をついて、コートのポケットに手を突っ込み、はたと思い出した。
 やば。プレゼント、渡しそびれてる!
 自分で思っていた以上に、彼女に変装がバレたことやその後の反応に動揺していたらしい。そもそもは、これを渡しに行っていたのに。「南雲、てめぇ! このアホ、バカ! オレのこと嫌いなん!? 陰湿なイジメ!」どこからか夕暮くんの馬鹿みたいな悲鳴が聞こえる気がして、慌てて来た道を戻った。インターホンを押す。ドアノブに手をかける。まだ扉は開いていた。不用心だな、と思いつつも「すみません、忘れ物」と部屋に乗り込み、目を見開いた。
 妹が、泣いていた。
 キッチンの前に立ち竦み、作った料理を眺めながら、ぼろぼろ、ぼろぼろ。大粒の涙が足元のマットに沈み込み、丸いシミをつくっている。
 その状態でこちらを見た彼女は、いっそう目を大きく開き、「ぎゃー!」とかわいげのない悲鳴をあげた。「なんで、帰ったんじゃ」嗚咽まじりの言葉は聞き取りづらかったものの、そう続けたことは簡単に理解できた。

「夕暮くんからのプレゼント。渡しそびれてたから……」

 言いながら、彼女の様子を目に焼きつける。
 思ったよりあっさりしてるし、殺し屋の家系だから大丈夫、とか。我ながら単純すぎると呆れる。大丈夫なわけがない。ただの強がりだ。そうだよ、誰よりも妹のことを愛していた夕暮くんが言っていたことが間違いなわけがない。ふつうの女の子なんだ。知らない男の前では、泣くのを懸命に我慢していただけ。
 差し出された箱を受け取った彼女は、その場で包装を解いた。そうして、中の腕時計を見て、よりひどく泣きはじめる。
 ……腕時計を贈ることに「あなたと同じ時間を過ごしたい」という意味があると僕が知るのは、ずっと先のことになる。もう二度とかなわない願いに、彼女はなにを思ったのだろうか。
 堰を切ったように流れ落ちる涙をコートの裾で拭った。さすがに一人にはしておけない。手がつけられていないままの料理をちらりと見て、僕は「あのさ」と口にした。

「お腹空いたから、これ、食べてもいい?」

 まもなく、彼女は「うん」と頷いた。

「うん、食べて。わたしね、がんばったの。お兄ちゃんに、食べてもらいたくて。練習して。……食べてもらいたかったのに、ほんと、ばか、兄貴……!」
「……うん」

 子どものように大泣きする彼女を抱き寄せる。あやすみたいに撫でた背中が熱くて、どうしてか、僕まで泣きそうだった。

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