過去と白昼夢


 帰国後、夕暮くんが請け負う予定だった任務をこなす毎日のなかで、「結婚式まで見届けてくれよ」という彼の言葉は何度も蘇った。(しばらく果たせそうにないよ)と独り言ち、寒空の下でため息をつく。春にはまだ遠い日だった。
 あの日――夕暮くんの妹の婚約者が殺し屋だったと発覚し秘密裏に殺した日以降、彼女には会っていない。殺し屋と関わりが増えることは彼女にとっても悪影響のはずだから、自分の行動は間違っていないと思う。とはいえ、様子が気にならないわけではないから、見つからないようにこっそりと確認することはあった。彼女は時折、何かを――きっと夕暮くんが亡くなったという事実を、彼と過ごしていた日々を、あるいは、大切な人に裏切られた一連の出来事を――思い出すように、寂しそうな顔をする。自暴自棄になったり引き篭ったりは今のところなさそうだけれど、やっぱりまだ心配だなあと、そう思っていた、矢先のことだった。

(あれ。夕暮くんの妹……んん?)

 任務終わり、すっかり陽が落ちた街中を歩いていると、おそらく仕事終わりの夕暮くんの妹を見つけたのだけれど。その隣には見知らぬ男が、彼女の腰に手を回すようにして寄り添っていた。
 彼女の表情は見えない。普通に考えたら新しい彼氏だろうけど、夕暮くんやあの婚約者のことはもう吹っ切れたのだろうか。そんな雰囲気これまでなかったのに。……と思っていたら、男の声が微かに耳に届いた。
「ほんと好み」「会ってくれてありがとう」
 いや絶対、彼氏じゃないじゃん!
 台詞から察するに、SNSかマッチングアプリか、とにかくそういうものを通して知り合った男のようだ。しかも会うのははじめてっぽい。それであの距離感って、まあ、本人が受け入れてるならいいのかもしれないけど。
 うーん、と悩んで思い浮かんだのは、夕暮くんならぶちギレて着いていくだろうな、だった。
 なんとなく心配だったこともあり、気配を消して彼らの後をつける。程なくして、ラブホ街から近いところに位置するこじんまりしたバーに吸い込まれた二人に、頭を抱えたくなった。

(しっかりしてよ妹ちゃん。初デートで酒勧める男はアウトって言われてたんじゃなかったの)

 はぁ、と溜息をついて、適当な姿に変装してから、自身もバーに足を踏み入れた。
 カウンターには若いバーテンダーが二人。店内の端にダーツ台が二台あって、二人はその前の席に座っていた。少し離れたカウンター席でお酒をちまちまと飲みながら様子を伺う。男の方はダーツがそこそこ得意なようで、投げ込んだバレルは中心から少し逸れた部分に刺さった。

「はい。やってみる?」

 やたらと手を重ねるようにして、男は名前ちゃんに二投目のバレルを手渡す。受け取った彼女は、特段迷う素振りもなく、ボードめがけて腕を振った。バレルはボードのほとんどど真ん中に吸い込まれ、男がぎょっとする。「はは、ビギナーズラック?」なんて笑った彼の顔は、その後も彼女が同じように真ん中に投げ込むものだから徐々に引き攣っていた。
 それを見ながら、僕はなんとか笑いを堪える。
 かつては殺し屋の訓練を受けていた女の子だ。止まっている的(距離も2メートルそこらしかない)に当てるなんて、難しくはないだろう。
 「……はじめてじゃなかった?」訝しむように話しかけられて、名前ちゃんはようやく、やりすぎたことに気づいたらしい。二人で歩く姿を見た時は、もう吹っ切れたのかな、なんて思ったけれど、今の彼女の様子を見る限り、まだ心ここにあらずな感じがする。

「た、たまたまかな……」
「ふうん? まあいいや。お酒、次なに飲みたい?」

 男が少し不機嫌になる。彼女もそれを察知したのか、まだ半分ほど残っていたグラスを勢いよく呷って、「なんでもいいけど、甘い系が好き」と答える。そっか、と返事をした男の機嫌は元に戻って、そのまま店員を呼びつけると、「ブルーハワイ」と一言。
 名前ちゃんも大変だな、とか、あんな男置いてさっさと帰ればいいのに、とか。そんなことを思いながら、バーテンダーがつくるカクテルを視界の端に捉えて、はたと気づいた。

(今、なんか入れてたな……)

 粉薬。さすがに種類までは分からないけれど、たぶん睡眠薬とかそういった類のもの。男がブルーハワイを頼んだのもわざとに違いない。青系のお酒は、そういう薬を入れた時の色の変色が分かりづらいから。
 はぁ、と自然と溜息が零れた。なんであの子、こんなに男運ないんだろ。前の婚約者は殺し屋、今回のは完全なヤリ目。しかも店員と共謀して薬盛るとか、悪質すぎる。
 席の周りにに武器になりそうなめぼしいものはなかった。仕方なくコートのボタンを引きちぎって、グラスを席まで運ぶバーテンダーの足元めがけて指で弾く。名前ちゃんが受け取る寸前にバランスを崩したバーテンダーは、トレイごとグラスをひっくり返した。「うっわ」ガシャン! 辺りにガラスが割れる音と青色のカクテルが飛び散り、何事かと周りの動きが固まった。その刹那。僕は名前ちゃんの腕を引いて、「帰るよ」呆然とした彼らの中から連れ出そうとする。
 カウンターの中から焦ったようにもう一人のバーテンダーが出てくる。その彼めがけ、お札を数枚投げつけた。
「足りるでしょ。騒ぎにしたくないよね・・・・・・・・・・。」
 その言葉が何を示すか分からないほど鈍感ではなかったらしい。男の顔は引き攣り、黙って頷くだけになった。
 名前ちゃんの腕を引いて店を出る。男にはああ言って見逃させたけれど、後で悪いことしてるヤツらがいますーって通報しとこ。


「……君さあ、もうちょっと警戒心もったほうがいいんじゃないの」

 人通りの多い駅近くまで移動して、説教もどきをし始めた僕を、彼女は目をぱちぱちとさせて不思議そうに見上げる。何その顔、と言いかけた僕があることを思い出すのと、「もしかして、南雲さん?」と彼女が眉を寄せるのは、ほとんど同時だった。そういえば、バーに入る前に変装をしていたんだった。彼女が困惑するのも理解できる。というか、むしろ、

「よく気づいたね」
「……なんか、喋り方がそんな感じだったし……」
「そう」
「なんで変装? してるんですか」
「……関りがあるとか、バレない方がいいでしょ」

 主語のない言葉だったけれど、彼女は納得したように頷いた。元々、実兄から「殺し屋になるから」という理由で、余程のことがない限り会うことを避けられていた子だ。理解が早くて助かる。
「警戒心」と、彼女は僕の告げた言葉を繰り返した。回収しておいたコートのボタンを指で弄びながら、「そう。さっきの、薬盛られてたの気づいた?」
 名前ちゃんの目が見開いて、あきらかに動揺した。本日何度目になるか分からない溜息を大袈裟について、「だから、気をつけなよ。僕らみたいなんじゃなくたって、悪いやつはいっぱいいるんだから」
 その言葉に、彼女は伏し目がちになりながらも、「うん」と頷いた――、はずなのに。


「ねぇ、僕、気をつけてって言ったよね!? なんでホテル連れ込まれそうになってるわけ」

 それから一週間とせずして、またもや危ない状況の名前ちゃんを見つけるからたまったもんじゃない。

「うぅ……」
「ちょっと。まだ吐かないで、がんばって。なんでそんなになるまで飲むかなぁ〜」

 呂律の回らない彼女の話を要約すると、事の発端はマッチングアプリで出会った男だったらしい。お酒もほどほどに居酒屋で楽しく飲んでいたはずが、会計を終えて外に出ると同時に、近くで友人と飲んでいたらしい男の彼女とまさかの遭遇。男が彼女持ちだということをはじめて知ったうえ、「人の男に手ぇ出しやがって!」と修羅場に巻き込まれる展開に。
 その場はなんとか収まったものの、すっかり落ち込んだ彼女は、気分を紛らわすために近くのバーでヤケ酒。今度は偶然席が横になった男に強引にラブホに連れていかれそうになるという、とんだ目に合っていた。自業自得とも、言えなくないけれど。とにかく、たまたま通りがかり、引き摺って帰ることができたのは良かったと思う。男の方は、「この子の兄ですけど」と見下ろした僕にすっかり萎縮して、逃げるようにその場を去った。

「……アプリとかやめて、誰かに紹介してもらったほうがいいんじゃない。君、男見る目最悪だよ」

 ふらふらする名前ちゃんをなんとか彼女の自宅まで送り届ける。便器に顔を埋めてぐったりとした様子の背中に辛辣な声かけをしたら、「分かってるもん……」と低い唸り声が返ってきた。……分かってるのか。
 怪しんで、でもそういえば、僕を婚約者に合わせることを提案した時に、「今度のひとは、ふつうのひとだと思う」って言っていたっけ。今度のひとは≠チて、今考えると含みのある言葉だと思う。過去にどんな男と付き合ってたんだろう。
 胃からせり上がってくる不快さを堪えるように肩で息をする彼女は、しばらくして落ち着くと、「お兄ちゃん」と呟いた。それから、途切れ途切れに、「はやく、いいひと見つけて」とか「結婚するから」とかぶつぶつと言っている。
 ――そういうことか、と思った。
 夕暮くんが亡くなって、あの婚約者と別れて。失意のどん底に落とされた彼女を突き動かしているのは、僕が伝えた、「夕暮くんが代わりに結婚式見届けてほしいって」という言葉だったらしい。彼の言葉が僕にとってある種の呪いになったように、たぶん、彼女にとっても呪いになっていた。
 夕暮くんは結婚を望んでいた。だから早く結婚して、その姿を夕暮くんの代わりに僕に見せて――。そんなふうに、必死にならざるをえなくなってた。寂しさとか苦しさとかを誤魔化して、必死に。
 それで、元々男を見る目がなかったのに輪をかけて、手当たり次第に男に会うようになってしまったんだろう。まるで、生き急ぐみたいに。
 初めて出会った時、素直に夕暮くんのことを答えてしまった自分にも多少なりと責任があるかと、ぐったりする背中を見つめながら、少しだけ申し訳なく思った。

 しばらくして寝こけた彼女の体を持ち上げ、ベッドにそっと下ろした。明日は仕事が休みだと言っていたから、アラームの心配なんかはしなくていい。僕は昼から任務があるけれど、さすがにそれまでには一度くらい目を覚ますだろうし。
 当然ながらベットはひとつだ。小さいとはいえ僕も入れなくはないけれど、そんなことをした日には夢に出てきた夕暮くんに殺される。ソファもないし雑魚寝かぁ、と思いながら、机を避け、マットの上に散らかった財布やらスマートフォン(名前ちゃんがバッグを投げ捨てた時に散乱した。夕暮くんと同じで意外と雑だ)を一ヵ所に集める。
 ふと、スマートフォンの画面に通知が大量に入っていることに気がついた。そのアイコンから察するに、マッチングアプリ。

「……」

 流れるようにパスコードを解除した。パスコードが夕暮くんの誕生日だということを知ったのは、もうだいぶ前になる。僕が気づいていることを、名前ちゃんはきっと知らないだろうけど。
 マッチングアプリは数個入っていて、そのどれもを並行して利用しているみたいだった。それぞれ、何人かずつ『今度会いましょう』みたいなやりとりをしてるし。どんだけ手当たり次第なの、と呆れて、メッセージも碌に読まずに全部退会し、アプリを消してやった。これ以上変な男に捕まったら困る。
 今度こそ、マットの上に転がった。目を閉じる。明日、彼女が起きたら、アプリを消したことに怒るんだろうなあ、なんてぼんやりと思った。

 翌朝、すっかり陽が昇ってからのろのろと起きた彼女は、キッチンに立つ僕を見て、しばしの沈黙のあと、「きゃー!」なんて悲鳴をあげた。「おはよ〜」と告げた僕の挨拶は完全に無視だった。

「なんで、い……っ、というか、何して……!」
「え〜、昨日は君の介抱してたの。覚えてない? 鍵開けたまま帰るわけにいかないし泊まっちゃった。これは、朝ご飯作ってる〜」

 う、とか、あ、とか口をパクパクさせる彼女の顔が真っ赤だった。ラブホ前での攻防から自宅トイレでグロッキーになっていたところまで、全部覚えて羞恥心で死にたくなっているに違いない。「お見苦しい、ところを……」唸るように告げた彼女に、にこりと笑って、「ご飯食べれそう?」と問いかける。やや間があって、彼女は頷いた。「なら、ど〜ぞ」机の上にお味噌汁とお茶漬けを並べる。

「いただきます……?」
「めしあがれ〜〜。棚に転がってたリンゴも切ってるよ」
「どうも……」

 困惑しながらもお味噌汁のお椀に口をつけた彼女は、ほっとしたように「おいしい」と零した。それは良かった、なんて言いながら、僕も彼女の前に座る。
 なんでここまでしてくれるんだろう、と、訝しむようだった彼女の目が、確かに怒りを孕んだ厳しいものに変わったのは、食事が終わって、スマートフォンを確認した時だった。

「アプリ」

 と、たった一言、彼女は呟いた。
「南雲さん」僕を呼ぶ声が硬い。それとは対照的に「なぁに」と丸い声で返事をすると、「消したでしょ」と、確信めいた表情で言われた。

「うん。消した」

 どうやってパスワードを知ったんだとか、そんな疑問もあっただろうけど、彼女は真っ先に「なんで」と問いかけた。

「これ以上変なことに巻き込まれたら困るから」
「南雲さんには関係ない」
「散々迷惑かけといてよく言うね」
「助けてなんて頼んでない」
「それ、夕暮くんにも同じこと言えるの」

 名前ちゃんが唇をきつく噛んでこちらを睨んだ。夕暮くんの名前を出したのは卑怯かな、とは思ったけれど、そうでも言わなきゃ話を聞いてくれそうにないし。

「……南雲さんは、お兄ちゃんじゃない」
「そうだね。でも、夕暮くんの考えてたことくらい分かるよ」

 彼女の目が僅かに揺れる。畳み掛けるように、僕は続ける。

「無理して結婚したって喜ばないよ。夕暮くんは、ただ君の結婚式が見たかったんじゃない」

 分かってるでしょ、と念を押すように言えば、彼女の目は僅かに潤んで、それを隠すようにまた俯いた。

「君が、幸せに笑ってるところを見たかったんだよ」

 たっぷりの間のあと。
 うん、と返事をした声も、それに続けられた「ごめんなさい」も、小さく震えていた。表情は見えないけれど、泣いているのが分かる。……我慢しないで、たくさん泣けばいいと思う。それで、前を向けるなら。

「ゆっくりでいいよ、名前ちゃん。ちゃんと見届けるから」

 彼女だけじゃなくて、自分と、それから夕暮くんにも誓うように、噛み締めるように告げた。
 顔を上げた彼女が、驚いたような表情で僕を見る。

「……はじめて」
「え?」
「はじめて、名前呼ばれた」
「……そうだっけ?」
「うん、そう」

 頷いた名前ちゃんが、赤い目尻を細めて微笑んだ。「ありがとう、南雲さん」
 その、憑き物が落ちたような表情にほっとした。それから、彼女の明日が、少しでも穏やかなものになればいいと、心から思う。

←前頁表紙次頁→