ある緩やかな日
球技大会から程なくすると、苗字は同級生をあだ名で呼ぶことが増えた。前園はゾノ、川上はノリ、渡辺はナベ。倉持は基本呼び捨てだが、たまに揶揄うように「もっち」と呼んでは眉を寄せられている。
すこし前に、「御幸とか白洲はそのままなんやな」と前園が零したことがある。部活終わりの、片づけ中だった。苗字は「なんかしっくりこなくて」と返した。どうやら、いくつか案はあったらしい。「例えば?」と聞いた川上に、彼女は指折り呟く。
「みゆきち」
「たぬきち、みたいだな」
「みっゆ」
「言い辛そう」
「白洲はね、お
「こわ。妖怪だか神様だろ、それ」
「あとケンジロ」
「普通だね」
「つまんないし文字数増えるしやめた」
「文字数て」
「御幸はさ、みゆかず、とかありかなと思ったけど。どっかのアイドルみたいでムカつくからやっぱりなし」
アイドルみたい、という感覚が御幸にはないし、勝手にムカつかれても困る――、そう思うも、倉持や川上は苗字の言い分をなんとなく察したらしく、「たしかになぁ」なんて笑っている。
そんな出来事を経て、結局「御幸」呼びに落ち着いた苗字は、昼休憩の半ばごろ、1Bの教室に来るや否や「御幸、スコアブック持ってるー?」と声を張った。
窓際で俯いていた御幸が顔をあげる。我が物顔で教室に入り込んだ彼女は、「よー、苗字。お前、今週のジャンプ読んだ?」「お菓子いらない? おいしくなかったの、これ」なんて、男女問わずに話しかけられている。球技大会の活躍と彼女のからっとした性格があいまって、苗字はクラスを問わず友人が多い。
「読んだ。雲雀イケメンすぎる」「ちょっと、まずいお菓子押しつけないでよ!」
笑いながら会話をしつつ、苗字は御幸の席まで足を止めない。クラスの会話に参加せず窓際でひとり座っている御幸は、この頃にはもう「休憩中はスコアブックを見てるやつ」という共通認識になっていた。話しかけづらい雰囲気があるのか、野球以外に全くといっていいほど興味がない御幸とは会話がなかなか弾まないのか、クラスメイトたちが二人の傍に来る様子はない。皆、苗字が来るまでしていた元のお喋りに話題を戻している。
「あ、やっぱり持ってる。貴子先輩が書いたやつだよね、わたしも見たい。いつ終わる?」
「まだしばらくかかるけど。なんで?」
「自分がつけたやつと見比べて勉強すんの」
そう告げる彼女の手に、別のスコアブックが握られていた。
苗字はリトル時代とシニア時代にスコアブックを多少なりとつけていたらしい。基礎は分かっているということで、先日の二軍の試合では早速、記録係としてベンチに座り、二年生マネージャーである藤原貴子の指導を受けていた。
御幸はまだ、苗字がつけたスコアブックを見たことがない。
「ここで見れば」
スコアブックの基本的な書き方は決まっているといえ、書き癖というものはどうしても出る。藤原の場合は字も線も綺麗で、見やすい、分かりやすい。苗字がどんな風に記録しているかがふと気になり、御幸はそんな提案をしてしまった。
一瞬きょとんとした苗字だったが、「なるほど、その手が」と言わんばかりに頷いた。
御幸の前の席は空いている。きょろきょろと辺りを見渡した苗字は、「この席誰だっけ」と近くの女子に尋ねた。「田中くん、サッカー部の。昼はいっつも体育館で遊んでるから、帰ってこないと思う」「じゃあ借りちゃお」と、椅子を引いて御幸と向き合う。
苗字がスコアブックを開く。かつて書いていた、というだけあって、迷いなく記録したことが見て取れた。書き間違えて消した跡なんかはほとんどない。ただ――。
「お前、この辺雑じゃね?」
「ちょっと、そっちだけ見てなよ」
「はっはっは! 目に入ったもんで」
御幸が示したのは、1点ビハインドで迎えた青道の攻撃回。2アウト満塁の状態での、ボールカウントの欄に書かれた記号たちがやけに踊っている。丸、V、一本線、V、Vときて、最後は丸にバツ。見逃し、ファウル、ボール、ファウルが二回続いての空振りで、「チャンスをモノにできなかったことが悔しいです!」と言わんばかりの描き方だった。
他にも、進塁の矢印がやたらと元気がよかったり、ホームランの印がぐりぐりと濃くなっていたり。なんというか、
「感情ですぎじゃねぇ?」
「……貴子先輩にも注意された……」
「おもしろいけど。見にくくはなるよなぁ」
まっとうな指摘に、苗字は項垂れる。出会ってからもうすぐ二ヶ月。毎日のように顔を合わせ、部活であれやこれやと言い合っていれば、遠慮というのはほとんどなくなっていた。
「ふうん」とか「へえ」とか、妙な相槌をしながら、御幸は苗字のスコアブックを見つめ、苗字がじとりと睨み返す。「言いたいことがあるならはっきり言ってよ」「いやいや、べつに?」悪戯っぽく言った御幸は、ふと気づく。苗字の腕で隠れがちだったページの下部、空いた隙間にも何やらびっちりと文字があった。
「それは? 何書いてんの?」
「あー、これは。ちょっと途中で失敗したんだけど……」
決まり悪く言いながらも、彼女はその箇所を御幸に見せた。書かれた内容を読み取った彼は薄く目を開く。球種と、コース。どんなボールをどこに投げたか、そんなことまで書こうとしていたらしい。
「この書き方するなら枠足りなくて。別で用紙準備するか、書き方変えるか、考えるつもり」
「へぇ。これ、ちゃんと書けるようになったらすげぇいいと思う」
「え、ほんと?」
「リード考えるのにも役立つし」
「おお、キャッチャーのお墨付き」
なら尚更がんばらないと、と苗字は笑って視線を落とした。藤原と自分のスコアブックを真剣に見比べては、細い指で表面をなぞる。苗字の爪はいつも短く切り揃えられていて、それがマネージャー業への真剣さを物語っている気がした。
昼休み中、向かい合ってスコアブックを覗き込む二人は、額同士がくっつきそうなほどの距離の近さだった。ただ、どちらも色恋とは無縁の真剣な表情だったので、クラスメイトは誰も指摘をしない。