背中を押す日
ベンチ入りメンバーにはクリスの代わりとして御幸が選ばれ、なし崩し的ではあったがレギュラーの座まで与えられることになった。発表の瞬間、隣にいた倉持が苦虫を噛み潰したような顔をしたことをよく覚えている。
クリスのことは、中学時代から知っていた。いや、知っていた、どころではない。中学時代の御幸は、クリスが率いるシニアチームにただの一度も勝てなかった。憧れであり、尊敬する人物。それと同時に負けられなくて、負けっぱなしで終わりたくなくて、真正面から戦って、いずれは勝ってやろうと思っていたひと。
教師が発する英単語を聞きながしながら、御幸はぼんやりと、入部当初のことを思い出していた。
『盗めるものは全て盗んで、いずれそのレギュラーの座もいただこうと思っています!』
野心たっぷりに笑った御幸に、クリスは「ああ…頑張れよ」と、どこか他人事のように呟くだけだった。目を合わせてもらった記憶もない。中学時代とは随分様変わりした雰囲気に動揺してしまったが……、思えばあの頃から既に、故障と戦っていたのだろう。誰に打ち明けることもなく。
レギュラーの座を辞退するなんて馬鹿なことは考えていない。むしろ、クリスの代わりになるよう全力で二、三年生に食らいつくつもりだし、後輩だからといって意見や指摘を遠慮するつもりもない。せっかくもらったレギュラーポジションだ。投手を輝かせるためになんだってしてやる。
ただ、そう意気込んでもやっぱり、ちゃんと戦ってみたかった、とは思ってしまう。
チャイムが鳴り、日直が号令をかける。「ありがとうございました」と頭を下げたとき、真っ白なノートが目に入って(うわ、ヤベ)とため息をついた。少し前に、「赤点は取るなよ、ベンチに入れてもらえないぞ」と先輩から忠告されたことを思い出す。その時は「いやいや、さすがに赤点は」なんてへらりとしていたが。
(……あとで誰かに、テストの範囲聞かねえと……)
欠伸をしている野球部メンツでは少し頼りない。隣のクラスのナベにでも聞くか、と思いながら、御幸は学食へと向かう。
・
学食で偶然会い、昼食を共にした倉持は、そのまま御幸の教室まで着いてきた。昼休憩中は色んなクラスの生徒が入り乱れることが多く、特段悪目立ちはしない。
教室に入ってすぐ、二人は、御幸の席に女子生徒が座り込んでいることに気づいた。一瞬ぎょっとするも、真剣な表情で机の上に視線を落とす横顔には見覚えがある。苗字だ。ほとんど話したこともないような生徒ではなくて安心するが、ちょっと周りが受け入れすぎではないだろうか。普通に話しかけて、菓子まで交換して。まるで最初から苗字の席だったみたいだ。
「俺の席……」ぼそりと呟く御幸の隣で、倉持は「ヒャハ、何やってんだアイツ」と笑っている。
「何してんの?」
しばらくして、人がまばらになったタイミングを見計らい、御幸は声をかけた。机の上にはスコアブックが置かれている。授業の合間に御幸が読んでいたもので、おそらく机の中から引っ張り出したのだろう。人の机を勝手に覗くな。
じとりとした御幸の目に怖気付くことなく、苗字はへらりと笑う。
「御幸探してた」
「それは分かるけど。なに?」
「ヒッティングテーマ、そろそろ決めるんだけど。なんか希望があればと思って」
ああ、と御幸は納得した。
青道の野球部では、試合に出るメンバー全員にヒッティングテーマが用意される。入部後、初の大会となる御幸にはまだ専用のヒッティングテーマは用意されておらず、吹奏楽部の練習もあるからそろそろ決めてほしい、ということらしい。
倉持が渋い顔になる。一年生とはいえ、彼もまた、試合メンバー入りを真剣に狙っていたのだ。ポジションこそ違うものの、自分より早く公式試合に出ることになった男が着々と準備を進めているところを目の当たりにするのは複雑だった。が、それを表に出して拗ねるのはみっともない。「ケッ」と吐き出しながらも、「御幸のなんざ、テキトーでいいだろ」と一言。
「いやいや、そういうわけには。三年間使うかもしれないし」
真面目に告げる苗字を脇に、御幸は「マジでなんでもいーよ」と言う。「ふうん?」と、苗字はおもしろそうに目を細めた。
「じゃあ今候補に出てるやつから選ぶかな」
「なんだ、候補あんのかよ。たとえば?」
聞いたのは倉持だった。御幸は我関せずというように、机の上のスコアブックに視線を向けている。
「会いたかったー会いたかったー会いたかった、イエス! ポニーテール揺らしながら振り向いた〜♪」
「ヒャハハ! 似合わねえ! アイドルソングじゃねえか!」
腹を抱える勢いで笑う倉持に、「御幸って野球のイメージしかないから逆に難しいよねって話してるとこ」と苗字は唇を尖らせた。
応援歌は、選手のモチベーションを上げることが第一だ。本人の希望がればなるべくそれに沿うようにしているし、希望がない場合でも、アイドル好きには推しアイドルのヒットソング、アニメ好きにはその主題歌を提案したりしている。ただ、御幸には野球以外にこれといった趣味がなく、一周回って曲が思いつかないらしい。
「倉持はランナーとか合いそうだなって思うけど」
「なんでランナーだよ」
「足速いから、走る系。あ、トレイントレインもいいよね。トレイン〜トレイン〜走ってゆけ〜……♪ 今の二、三年、使ってないし」
口ずさむ彼女の様子があまりにも楽しそうなので、倉持は「レギュラーになってからの話だろ」という言葉を呑み込むしかない。
「御幸、アイドルソングはなし?」
「べつにいいよ。応援あるだけ嬉しいんで」
多少は焦ったり苦笑したりすると思っての問いかけだったが、あっさりと返事をされたうえに好青年のような台詞まで吐かれてしまった。苗字と倉持は顔を見合わせる。
「胡散くせぇ」
「ね、激しく同意」
「はっはっは、失礼すぎねぇ?」
「ちなみに御幸、部活終わって寮でなにしてんの?」
「宿題。と、ミットの手入れとか」
「テレビ見る?」
「試合のビデオなら」
「本読んだりは?」
「野球関連のなら。あとスコアブック」
「倉持〜〜」
助けてくれ、とわざとらしく泣きつく苗字を倉持があしらう。「分かりきってたことだろ」「そうだけど」「あ、でもこいつ、長澤まさみ好き」「えっ」
ゲ、と御幸が妙な声を絞り出す。端正な顔が僅かに引き攣っているので、おそらく真実なのだろう。
なんだ、美人の女優にはちゃんと興味があるんだ、やっぱり男子高校生じゃないか。あからさまに愉快そうにした苗字は、「いいじゃん、長澤ちゃん。ドラマ? なんか見てたの」と問いかける。ドラマの主題歌とか、そういうものをヒッティングテーマの候補にあげるつもりなのかもしれない。
「映画に出てただろ。タッチの」
「そこも野球関連なんだ。あ、でも、それこそタッチいいじゃん! 定番曲だし……」
名案! というように顔を明るくした彼女は、けれどすぐに「あ〜〜! 違うダメ! 三年がもう使ってたわ」と項垂れた。「奪い取れば良いんじゃね」なんて冗談を言う倉持に、「御幸にぴったりなんで! って?」と真剣な顔をつくる苗字は、けれどすぐに首を捻った。
「や、いうほどぴったりかなぁ……」
なんて、ぶつぶつと零している。
予鈴のチャイムが鳴る。「うわ、時間ヤバ」がたりと席を立ち上がった彼女は、「なんか思いついたら早めに教えてよ。なかったらほんとにこっちで選ぶから!」と御幸を指差した。
はいはい、とやる気のない返事をした御幸は席につき、廊下を走り去る彼女を見つめる。程なくして、倉持と揃って「廊下は走らない!」と叱責されている声が届いて、肩を震わせて笑いを堪えた。
その後、結局御幸はヒッティングテーマの案を出さなかったし、苗字が「まだ案出ないの」と急かしてくることもなかった。まあマネージャーで決めてくれてるんだろ、という御幸の考えはその通りで、数日後には、三年生のマネージャーからヒッティングテーマのリストを受け取ることになった。吹奏部から確認用として回されたものらしい。
「御幸くんのは、苗字ちゃんが選んだみたいなんだけれど。よかったかしら」
「あ、はい。なんでもいいって言ってあるんで」
そうは言っても、最終的に何が選ばれたのかは気になるところだった。
リストを上から順に眺める。「タッチ」「アフリカンシンフォニー」「we will rock you」……、ずらりと並ぶ甲子園の定番曲は三年生のヒッティングテーマだった。結城は「ルパン三世のテーマ」。こちらも定番曲。アニメ好きと思しき三年が「残酷な天使のテーゼ」を選んだりしているが、アイドルソングは見当たらない。
……この中でキラキラのアイドルソングは、三年生からいろいろ突っ込まれるだろう。「御幸、そのアイドル好きなのか」「どの子が好きなんだ、見せてみろ」とか。「アイドルソングでも別にいい」はまずかったかな、などと考える中、自分の名前の横に記されたヒッティングテーマを見つけ、御幸は目を瞬かせた。
「……これ、苗字が選んだんですか?」
「ええ、そうよ。すごい勢いで見せてきたわ」
当時の状況を思い出したのか、三年のマネージャーはおかしそうに目を細めた。
御幸は用紙に書かれた文字をなぞる。テーマ曲は「狙いうち」だった。プロの試合でもチャンステーマとして用いられる有名な定番曲。粋なものを選んでくれたというか、なんというか。
「どう? 問題なし?」
「はい、大丈夫です」
リストを返す。
「狙いうち」を選んだ苗字の意図は分からない。あまりにも思いつかないから、甲子園の定番曲のなかからまだ三年生が使っていないものを選択しただけかもしれない。というか、そういう理由のほうがしっくりくる。
その夜、いつものように試合のビデオを見た。目を通すのはこれで三回目だ。けれど、七回裏、四番が逆転のホームランを打った時に流れていた曲が「狙いうち」であることにはじめて気がついて、苗字に「こんくらいやれよ」と言われているような気がして、思わず笑ってしまった。
・
高校生にとって悪夢のような期末テストを終えてから程なくすると、全国高等学校野球選手権大会――夏の甲子園の地方大会が開かれる。球児たちが最も憧れる舞台へ行くための、譲れない戦い。
青道高校の初戦は、じりじりと照りつける日差しが肌に痛い、日中に行われた。応援席にはベンチ入りを果たせなかった野球部員、吹奏楽部、チアリーダーに、一般生徒も多く並ぶ。並の精神力であれば、それだけで勝ち気をそがれるような、圧巻の人数だ。
二回裏、「狙いうち」のヒッティングテーマを背に、はじめて迎えた御幸の打席は、きれいな空振りに終わった。
「まあ、まだ一年だしなあ」「リードは悪くなさそうだけど」「いやいや、クリスに比べると全然だろ。リードも打撃も……」
訳知り顔で評価する一般の中年男性たちに、苗字の顔がわかりやすくムッと歪んだ。倉持が「落ち着けよ」と言わんばかりにその肩を軽く小突く。
「まだ二回だし」
「俺に言うな」
「リードだって負けてない」
「だから俺にキレんな」
「キレてない」
コーナーは広く、コースは低く。投手に伝えるように、御幸は大きく腕を広げている。低めを意識しすぎてワンバンになったボールも決して逸らさないし、二塁への盗塁は素早いモーションで見事に刺した。「おお、肩強い?」騒めきに、苗字が得意げな顔をしているのを、倉持はスルーすることにした。
戦績だけを見れば格下の相手とはいえ、油断できる試合なんてひとつもない。攻めのプレイを貫く青道は六回裏の時点で1-7と六点リードしていた。
そして、七回裏。2アウト二、三塁。ここでもう一点入れることができれば、七回コールド勝ちが決まるという場面で、御幸の打席が回ってきた。
心臓を揺らすような重い音が会場に響く。不思議と前の打席よりも音が大きくなっているような気さえした。チャンスの場面だから、吹奏楽部も気合が入っているのだろうか。
なんかこっちが緊張する、と苗字は汗が滲む手のひらをぎゅっと握った。
青道の三年生エースは良いピッチングで相手チームを抑えている。明日からも厳しい試合が続くし、早い段階で勝負をつけるに越したことはない。女房役として、御幸はこのチャンスをモノにしたいはず。
初球、変化球外れてボール。相手投手は、少し力が入っている。
二球目、アウトローにストレート。バットに当ててファウル。
三球目はインコース、高めの釣り球。アウトからインへ、反射的に手がててしまったのだろう、これもファウル。追い込まれた。
捕手がサインを出す。バッテリーに迷いはない。頷いた投手が振りかぶる。四球目。
(いけ、御幸)
苗字は祈るようにメガホンを握りしめる。狙いうち、の音頭が響く。それに合わせるみたいに、御幸がバットを振りかぶる。
乾いた音がした。
白球が空に舞う。会場がどよめいた。皆が打球の行方を追う。ぐんぐんと伸びたボールはセンターの頭上を越え、フェンスの角で跳ねた。わっと歓声があがる。二塁と三塁の走者が生還し、打った本人は二塁で拳を掲げた。
「あいつやべぇ!」
「まさに狙い打ち!」
野球部員も、一般の観戦客も、両手を叩いて御幸を讃えている。
試合終了のサイレンが鳴る。スタンド前で一列に並び、選手は深く礼をする。御幸の表情は清々しかった。高校生初の公式試合、初打点。その彼の姿を忘れられないという予感を抱きながら、苗字は熱に浮かされたスタンドの空気を吸い込んだ。