波風が立つ日
振り抜いた金属バットが球場の空気を切り裂いた。パァン! と乾いたミットの音がやけに響いて聞こえる。白球は空に舞わなかった。空振り。スリーアウト。試合終了のサイレンが青空を裂くように鳴り始める。
いつも自信家だった東清国は、待機していたバッターサークルでバットを握りしめ泣いていた。継投で投げ抜いた投手たちも、その打撃力を買われてレギュラーに選ばれていた結城も、皆、悔しさに肩を震わせていた。御幸はそれを、ベンチの隅で見つめていた。忘れられない、と唇を噛んだ。
彼らの様子を、苗字もまた、応援席から目に焼きつけていた。拳を握りしめる。
夏の甲子園大会地区予選、準決勝。長年のライバルである稲城実業に敗退してベスト4。
――青道高校野球部に入部した御幸たちの一年目の夏は、7月下旬に終わった。
・
御幸一也に彼女ができたのは、それから一ヶ月が経とうとする頃だった。
相手は吹奏楽部の女子で、学校一かわいいと称される美少女でもあった。華奢で色白、ふわふわした亜麻色の髪は腰まで伸びており、編み込みやお団子などのヘアアレンジをよくしている。
噂が流れてすぐ、野球部員たちは「なんで御幸なんかと」と阿鼻叫喚し、「向こうが告ってきた」という御幸の台詞に更に発狂する羽目になっていた。
彼女――花籠香子は、初戦で御幸が放った走者一掃のタイムリーヒットに感動し、彼に一目惚れしたらしい。実際あの試合以降、御幸をかっこいいと言う女子生徒は増えていて、夏休み中にも関わらず練習の見学に来る者もいたくらいだ。御幸の性格の悪さを知ってしまったクラスの女子たちは、恋愛的な好意は抱けない、なんて言っていたが。
御幸を気にする女子生徒たちの誰より早く、それこそ初戦の翌日には御幸にコンタクトを取った花籠は、「すごく本気だから、試合が終わるまで待つから」と告げ、夏の予選終了後、改めて彼に交際を申し込んだらしい。御幸の「全然時間取れない」という言葉にも「それでもいいの」と引き下がらず、結果として御幸がその熱意に負けたのだから、花籠の粘り勝ちといえるだろう。見た目からは想像できない情熱さに、女子生徒の多くは良くも悪くも感心しきっていた。
二学期が始まると、花籠は昼休憩の間中、御幸とともにいるようになった。学食についてき、隣に座り、「御幸くん、食べる量多いねぇ」としみじみと彼を見つめる。お世辞にも社交性があるとは言い難い御幸との会話は盛り上がる様子がなかったものの、花籠はにこにこと笑顔を崩さない。
「苗字、夏川! こっち来るか?」
ガヤガヤとした食堂の中、ふと聞き覚えのある関西弁が耳に届き、御幸は自然とそちらを向いていた。前園が手を挙げ、お盆を持って席を探している様子の苗字と夏川を呼んでいる。前園の隣には倉持がいた。御幸と一緒に昼食を食べることが多かった彼だが、花籠に気を遣っているのか、二学期からは全く一緒になっていない。
苗字は近くにいた御幸と花籠には見向きもせず、「行く!」と前園らのテーブルに向かう。その背中を見て、はたと思い出した御幸は、「苗字」と彼女を呼んだ。どこから呼ばれたか分からなかったのだろう、きょろきょろと辺りを見渡す彼女に、御幸は「こっち」と手を振る。
「うわ、リア充だ」
「なんだよリア充って。あのさ、あとでスコアブック持ってきて。どうせお前が持ってんだろ」
「あとで」
「それ食い終わったらよろしく」
へーい、と雑な返事をした彼女は、御幸の隣に腰かける花籠に微笑みながら会釈し、その脇を通り過ぎる。
学食を終え、教室に戻る御幸に花籠はやっぱりついてきた。御幸の前の席に座り、「私、学食はじめてだったぁ。普段はお弁当作ってるから」と話しかけている。周囲にいた、察しの良い女子数名が花籠の意図に気づく。「自分で作ってんの?」「そうだよ。御幸くんにも作っていい?」という話の流れにもっていきたいに違いない。
けれど、女心を分かっていない御幸が、そんな遠回しのパスをうまくキャッチできるはずもなく。「ふうん。学食、割と種類変わるしうめーよ」なんて言っている。
その様子を廊下からこっそりと眺める苗字は、一体どのタイミングでスコアブックを渡したものかと溜息をついた。廊下側の席に座って本を読んでいた女生徒がその姿に気づく。「苗字さん、誰かに用事?」眼鏡の奥の優しい瞳に見つめられ、苗字は「んー、渡しもの頼まれたんだけど……」と、窓際に座る御幸たちをちらりと見た。
苗字に声をかけた女生徒も同じようにそちらを見つめると、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「ごめん。力になれそうにない……」
「いやいや、全然! むしろ本読んでるとこ邪魔してごめん。それ、『失われた時を求めて』?」
「うん。最近読み始めたばかりだけど……。苗字さん読んだことあるの?」
「最初の数ページで脱落しちゃった。有名なシーンにも辿り着けずに」
「ふふ。でも分かる、読むのちょっとしんどいもん」
綺麗に整えられたおさげ髪を揺らして、彼女は笑う。
苗字が廊下の奥に見知った姿を見つけたのは、その時だった。「あ、ごめん。知り合いいた! あっちに頼む!」言うや否や、びゅんっと風を切る勢いで彼女は走り出し、目当ての人物の元へと手を上げて駆け寄る。
「倉持ー。もっち、くらもっちー!」
ふざけた呼び方で繰り返される名前に、倉持はぎゅうと眉を寄せ、渋い顔をつくる。
「その呼び方ヤメロ」
「かわいいのに」
刺々しく言われ、苗字は不服そうにする。呆れながらも、倉持は「何の用だよ」と問いかけた。
「これ。スコアブック、御幸に渡してきて」
差し出されたスコアブックを眺め、倉持の顔はますます渋くなった。
「……俺が渡すのかよ」
「だってさぁ……」
「あー、まあ。分かるけどよ」
珍しく曖昧な言葉を告げる苗字に溜息をついた彼は、観念したようにスコアブックを受け取った。
ほっと口元を緩めた苗字は、よろしく、と言ってその場を去った。振り返る様子はない。その背中が、なんとなく元気がないように見えなくもないけれど。友人と何やら言葉を交わした彼女は、すぐに嬉しそうに笑ってスキップまで始めたから、気のせいか、と倉持は背を向ける。
御幸のクラスへと向かい、廊下側から例の二人の様子を盗み見た。御幸の受け答えは平べったいものだが、花籠は楽しそうだ。
文庫本に視線を落とした女生徒の横を通り過ぎ、倉持は少しだけ声を張った。
「御幸ー。頼まれモン」
普段通りを装いながら呼びかける。その声に反応して視線を向けた御幸の顔はあからさまに安堵していて、何だその顔、と倉持は呆れた。指摘なんて、してやらないけれど。
差し出されたスコアブックに、御幸は「苗字は? あいつが持ってたんじゃねえの」と眉を寄せた。
「だから、渡してくれって」
「なんで?」
「はぁ?」
倉持の眉が深く歪む。
ふざけんな、なんでもいいだろ。つーか普通、気遣うだろ。
元々野球以外はポンコツな男だとは思っていたけれど、まさかここまでか。わざわざ指摘してやる気にもなれず、
「知るか」
と、雑に言い放ちその場を離れる。
御幸はまだ納得のいかない表情をしてきたが、やがて諦めたようにスコアブックを開けた。彼女ほったらかして何やってんだ、と倉持も周りも呆れるが、一応、花籠からの「これ何?」という問いかけには答えているようだった。
倉持はそれを眺めて、本日何度目になるか分からない溜息をつく。なんとなく、あのやりとりが長続きしない予感があった。
あと一ヶ月もすれば秋季東京大会が始まる。三年生が引退して初の公式試合に向け、チームの士気は高まっているし、正捕手の御幸はより野球にのめりこむだろう。二人の時間など、取れないに等しい。最も、本人にそんなことを伝えたら、「時間取れなくてもいいって言われたし」ときょとんとするのだろうが。
(しーらね)
予鈴のチャイムが鳴った。「またね」とかわいらしく手を振る花籠を、御幸は曖昧な返事で見送っている。
・
「なんで最近教室来ねぇの」
御幸が苗字に尋ねたのは、それから一週間も経たない頃だった。
部活後、用具室の前。帰り際、選手たちの情報を記録しているノートを手渡すと同時にそう言われ、苗字は丸い目を一層ぱちくりと瞬かせる。
「だって、用もないし」
当然だと言わんばかりに笑いながら返しても、御幸は不服そうなままだった。
「前はスコアブックとか取りにきてただろ」
「前はね、勉強中だったから」
「もうやめたってこと? 貴子先輩みたいに綺麗に書けてるわけでもねぇのに」
「……御幸、なんか機嫌悪い?」
どこか刺々しい言葉に、苗字は眉をひそめる。
通りがかった渡辺が空気が妙に張りつめていることを感じ取った。「どうしたの、二人とも」なるべく穏やかな声音を意識して呼びかければ、御幸は気まずそうに視線を逸らし、苗字は相変わらずの表情で首を傾げた。
「御幸。花籠さんが来てたの、知ってる? 部活帰りに寄ってくれたみたいだね」
声かけてあげなよ、と続けられ、御幸はしぶしぶといったようにグラウンドへと向かう。その背中を見送って、渡辺と苗字はそっと息をついた。
「何があったの?」
「や、よく分かんない……。なんか喧嘩売られた気がしたけど……、御幸、最近ピリついてる?」
「上級生差し置いての正捕手だし、やっぱり大変なのかな」
「そんな重荷に感じるタイプには思えないけど……」
「うーん。それは、確かに」
会話しつつ、苗字はスポーツウォッチで時刻を確認する。普段通りなら、結城の素振りが終わる頃だ。
三年生引退後、新キャプテンに就任した彼は、一年生の時から引き続き学校と家で一日500回の素振りをしている。学校で300、家に帰ってから200。苗字とは家の方向が全く同じ彼は、学校でのノルマが終わると必ず「帰るぞ」と声をかけ、家まで送ってくれるようになっていた。
練習室に向かうと、ちょうど結城が素振りを終えたところだった。「呼びに行こうと思っていた」という彼に、苗字は改めて「わざわざいいんですよ」と言ってみる。結城は「どうせ帰り道が同じなんだ」と真面目な顔のまま言った。
「じゃーな、結城。苗字も」
「ああ、お疲れ」
「伊佐敷先輩、お疲れさまです!」
「おう」
寮のメンバーに挨拶をし、グラウンドの外へと向かう。
すっかり陽が暮れたなかで、御幸と花籠はまだ喋っていた。「御幸と……」誰だ? と不思議そうにする結城に、苗字が説明する。
「花籠さんっていう吹奏楽部の子ですよ。御幸の彼女」
「彼女がいたのか、御幸」
「ちょっと前に話題になりませんでした?」
「そうだったか。御幸とはたまに将棋をするが、話してくれたことはないな……」
結城の口から飛び出た「将棋」の単語に、苗字は御幸の困り顔を思い出す。ある程度将棋が指せる御幸は結城に対戦相手として度々指名されるのだが、どうも結城がかなり弱くて試合運びがたいへんらしい。結城ならけちょんけちょんにしても怒らないだろう、とか、一応先輩を立てた方がいいという思考はあるのか、とか、失礼な考えはすぐに御幸に見抜かれ、「何考えてんだよ」と小突かれたことをよく覚えている。
「苗字は指せるか? 将棋」
「やったことないです。駒の動きくらいは分かりますけど」
「十分だ。どうだ、今度一局」
「えへ、機会があれば?」
出会ったころと比べれば、結城との会話はかなり弾むようになった。ぽんぽんと言葉を交わしながら、御幸たちの横を通りすぎる。「御幸、おつかれ。花籠さんも」その流れのまま軽やかに声をかけた苗字の背中を見つめる花籠の目に、少しだけ羨ましげな色が浮かんだ。
「野球部でも、ああやって送ってくれるひともいるんだね」
「……哲さんは通い組だし、苗字とは家の方向が一緒だから」
答えて、御幸はふぅと息をついた。
この会話の直前、花籠は「一緒に……とか」と、上目遣いに御幸を誘っており、御幸はそれに「……自主練があるんだけど」と遠回しに断ったところだった。
ふと、結城と苗字が一緒に帰りはじめた日のことを思い出す。あれはまだ、三年生がいたころ。夏大会前だ。東と川上の練習に付き合って長めに残っていた彼女を心配した三年生が、ちょうど帰るところだった結城に「お前、送ってやれ。家の方向同じだろ」と声をかけたのだ。「もう暗いし、家近いって言っても危ない」という彼らの言葉に結城はあっさり承諾し、「もっと早く気づくべきだった」なんて謝罪までしていた。
「いやいや、何も起こりませんって。いざとなったらぶん殴りますし」とエナメルバックを振りかざすポーズを取りながら遠慮する苗字だったが、「どうせ帰り道は同じなんだ」と結城は譲らなかった。
以降、苗字は結城と帰ることが増えた。彼に「帰るぞ」と呼ばれては、笑顔でぱたぱたと駆け寄る姿が、御幸の脳裏にはやたらとこびりついている。
御幸は目を伏せて、「花籠さん」と彼女を呼んだ。「なぁに?」花のような笑みで、花籠が返事をする。
「もう暗いし、とりあえず今日は送るけど。毎日とか無理だから、これっきりにして」
「……ぁ、うん。そうだよね。御幸くん見てたら、かっこいいなって見惚れちゃって……。ごめんね、気をつける」
「うん。花籠さんかわいいし、危ないだろ」
「え、ぁ」
かぁっと頬を染めた花籠が、御幸には理解しがたかった。女心の分からない彼にとって、「かわいい」という言葉は客観的事実でしかなかったのだ。不思議そうに見つめながら、彼女の隣に立つ。「家どっち?」「あのね、駅のほう」すっと伸ばされた指は日焼け知らずで白くて細い。肌も、髪も、同じ女子なのに苗字とは違うんだな、とそんなことを思った。