※名前変換はございません。 1. 夜が満ち、男の部屋にも群青色の闇が立ち込めている。簡素な寝室には、女がかすかに鼻をすする音が聞こえ、続いてキンブリーの浅い嘆息が聞こえる。 「なぜ、泣くんです?」 女は壁に押し付けられるようにして立っており、手首を頭上で縫いとめられている。伏せた目尻には涙が光り、顎の下まで伝っている。男は目元のそれを優しく拭い、指の背でほんのりと色づいた頬を撫でていく。 考えなくても分かることなのに、と女は、彼の部下は、唇を噛んだ。 何度逃げても、彼は追ってくる。あっという間に捕まえられて、拒んだって組み敷かれ、執拗な愛撫にいつも息ができなくなってしまうのだ。 女は、決して彼のことが嫌いなわけではない。ただ、分からなかった。キンブリーほどの国家錬金術師が、優秀な軍人が、彼女のような平凡な部下に執着することが。 そして、歪んだとも狂ったとも言える愛情を、ひたすらに浴びせられることが。 女はもう、闇がはびこるこの部屋から出ることはできない。鍵は男が持っているし、念には念をと錬金術で封じてある。手錠やロープといった拘束具もベッド脇に用意されているから、男がその気になれば、すぐに手足の自由を奪われることになるだろう。 頬を撫でていた指が、紅い華の咲いている首筋に触れる。女はきゅっと目をつむり、首をすくめた。 キンブリーは彼女の耳元で、口の端を愉快げに吊り上げた。 「もう逃がしませんよ。貴女はもう私の手の中にいる。どう足掻いたとしても、誰かに助けを求めても、決して逃げられません」 女はかぶりを振り、か細い声でいや、と鳴いた。 キンブリーは喉の奥で笑い、首筋の華にゆっくりと舌を這わせた。 「ぁっ……」 びくりと肩を震わせた反応に気を良くしたのか、彼は顎をすくい、そのまま彼女の呼吸を奪う。舌を挿し込まれ、器用に絡め取られ、充分な抵抗もできずに、彼女の膝はがくがくと笑い出す。 どうして。どうして。 彼女の切なる疑問は、清らかな雫となって頬を滑った。 頭の中では、濁った思考の渦がぐるぐると巻き起こっている。答えの見えない疑問を自分にぶつけることに、どこか怯えてもいた。 どうして。どうして。どうかしている。こんな風に求められて胸が疼いてしまうなんて、ありえない。どうかしている! 自分の変化に気づいてしまい、彼女は絶望して小さく喘いだ。 闇の中で女の涙だけが、流星のようにきらりと流れていく。 (20190222) 2. キンブリー少佐がタバコを吸っていた。どこか遠くを見ているようなまなざしを窓の外に向けて。 人差し指と中指の間に挟まれたタバコの先から、ゆらりと白が上っている。彼がほとんど息の音を立てずに口内の白を吐き出すと、それはコーヒーに落としたミルクのマーブル模様のような複雑な線を描き、わずかに漂ったあと、消えていく。 その幻を見ることなく愛でるように、彼は小さく息をしていた。なにかを引き止めたいのか、少しだけ開いている薄い唇。淡いラベンダー色の瞳が、淋しげに揺れてしまいそうな、彼に似つかわしくない不安定さを湛えていた。 喫煙なんてレストランやバス停でよく目にする光景だ。なんでもないことだ。それなのに、煙にまとわれた恋人の、憂いや気だるさを滲ませたほの暗い影をその横顔に見てしまって、どうしても視線を逸らすことができない。私は確かに心配していながらも、どこか夢見心地で彼を見ていた。 不意に、少佐の視線が移動する。私の姿を認めた後、彼はそれまでの影のある空気を取り払って、普段の人の良い、完璧な笑みを浮かべた。 私も微笑みを返し、彼のそばに歩み寄る。副流煙の臭いが少し気になった。 「意外です。少佐、おタバコ吸われるんですね」 てっきり、服に臭いがつくからとか、そんな理由で嫌煙しそうだと思っていた。 「煙草の風味を味わいながら煙の中にいると、案外落ち着くんですよ」 彼はそう言って、手元から上る白を見る。 爆破の好きな彼のことだ、錬金術で起こした爆煙の臭いを思い出したりするのかもしれない。 「お言葉ですが……嗜む程度になさってくださいね」 「おや、心配してくださっているのですか」 「え、ええ」 もちろん、タールやニコチンによる身体への影響は気になる。それからもうひとつ、あんなかげりを帯びた表情をしていたことも。 そこまで言葉にしようか迷っていると、目の前にタバコが差し出された。それは箱から出したものではなく、彼がまさしく今吸っているものだ。 「一本いかがです?」 「え!? でも、それは少佐が今……」 「あいにく切らしてまして。これが最後なんですよ」 「あ……いや、その、遠慮します。吸ったこともないですし……」 いくら恋人同士といえど、職場で間接キスなどできやしない。もっとも、幸いなことに誰も通りかかりはしなさそうだけれど。 照れくささから少し顔を背けた私を見て、彼はくすくすと笑う。冗談ですよ、と。 「それが良いでしょう。初めてなら、ほぼ間違いなく咳き込みます。風味も、ただ不味いの一言で終わることでしょう」 それに、と続けながら、私の髪束を一房手に取る。 「貴女の良い匂いがかき消されてしまうのは、あまり喜ばしいことではありませんからね」 そう言って、毛先にキスを落とす。少佐、と窘める声を上げようとしても、実際に喉は震えない。心のどこかでは、嬉しく思っているからだ。誰かが見ていようと、この甘い余韻に浸っていたいと、思っているからだ。 少佐はまたタバコを吸った。手の甲、指の先、くゆる煙。その白とともに、手で隠れていた薄い唇が顔を出す。 かげりの代わりに、ひとりのときには現れないであろう微笑みが浮かんでいる。それを果たして、喜んでしまって良いのか分からない。 微笑みなどなくても良い。憂いの影がそこに存在していても、あなたのそばで煙に包まれたい。一緒にその陰鬱な煙を吸いたい。そうして、煙を共有するその間だけでも、あなたの心が安らぐならそれで良い。 そんなことを思いながら、彼の横顔を見ている。 「さて、そろそろ仕事の時間です。戻りましょうか、少尉」 テーブルに備え付けられた灰皿で、先っぽをぐしゃりと潰して、こする。煙は消えた。 「はい、少佐」 午前と変わらず私たちを待っている、執務室の書類の山を思い浮かべた。 (20190306) Afterword(やんわりとしてますが)監禁もの、タバコのSSの二本でした。こんな感じで気が向けば、24で短いSSを書く予定です。 |