※名前変換はございません。 「手枷を、はずしていただけませんか」 檻の中の囚人は、まるであわよくば許してもらえるだろうというように、遠慮しながらも小さな笑みをうかべながらそう言った。 眉をしかめて檻の前を通り過ぎようとしたとき、囚人は懲りもせずにまた私を呼び止めた。 「聞こえているでしょう、看守さん。はずしていただけない?」 「冗談はやめてちょうだい」 呆れ果ててため息すら出てくる。殺人鬼である国家錬金術師の手枷を一瞬でもはずせば、私も収容所も、果ては中央市街地までもが吹き飛んで、すべてが一巻の終わりだ。 どんなに願っても聞き入れられない注文だと、彼も重々理解しているはずだろうに。 「不便で仕方ないんですよ。両手を合わせられないのは」 「食事、運動、睡眠、呼吸……今でもすべて可能でしょう。そこまで不自由ではないはずよ」 「いえ、目の前にある一輪の花を抱きしめることすら叶いませんので」 「……牢獄に花は咲かないわ」 「無論、貴女という花ですよ」 「また新たな罪を重ねたいの?」 二度目のため息だ。囚人なぞに口説かれても、こちらは心底うんざりするばかりである。 女の看守が珍しいのは分かるが、毎日のように囚人たちからセクハラ発言をかまされるのはたまったものではない。 このキンブリーという囚人は、そのような戯言を言わない奴だとある意味では信頼していたが、考えを改めざるを得ない。収監された男たちは皆、頭が 「ふむ。果たしてこれも罪に値するのでしょうか?」 「当たり前でしょう。立派なセクシュアルハラスメントよ」 「貴女も私を気にかけているというのに?」 ……は? 頬を引きつらせる私と対照的に囚人は、にんまりと笑みを浮かべ、両の掌を広げながら続けた。 「貴女が私を見る目は、他とはまるで違います。他の囚人には目もくれず、私だけに確かな慈愛の眼差しを注いでいること――気づかないとでも?」 「な、なにを言っているのか」 「いいえ、貴女は気づいているはずだ。私に特別な感情を抱いていると。私を呼ぶ声や態度やかすか笑みが、すべてを物語っています」 「……やめてちょうだい。今の冗談は本当に笑えないわ」 きっ、と睨みつけてやると、囚人は目を細め、大きな声で笑った。 長い黒髪の隙間から覗いたまぶたが、すっと開く。蒼く濁った人殺しの眼が、私だけを捉えていた。 「いいですよ。その強がる姿も実にいい……。貴女は、この衝動には抗えないでしょう。すなわち、私を愛すること。そして、私をその手で解放したいと願ってやまないこと……」 「無駄なおしゃべりはもう終わりよ。もう行かないと」 「今の言葉を忘れないでください、看守さん。貴女は私を愛している。そして、私も貴女を愛し始めている。貴女をこの両の手で抱きしめたいと、心の底から願っているのですよ」 「だから手枷をはずせと? 話がひどくてもう聞いていられないわ。今日は早く寝ることね、ではおやすみなさい」 わざと靴音を鳴らして、足早に檻の前を通り過ぎる。 おやすみなさい、という独特な響きを持った囚人の返事は、連なる鉄格子にぼんやりと響いて消えた。 とっぷりと日が暮れた頃、私はようやく帰路に着いた。明るい満月を少しも美しく思えない今夜は、ひどく疲れているようだ。 私の頭の中では、先ほどの彼の言葉がまだ幾重にも渦巻いていた。 それはいくら振りほどこうとしても、確かな灯を滲ませたまま消えることはなく、いつまでも解けぬ呪いのように熱く沈殿していた。 『貴女はこの衝動には抗えないでしょう。すなわち、私を愛すること。そして、私をその手で解放したいと願ってやまないこと……』 『貴女は私を愛している。そして、私も貴女を愛し始めている。貴女をこの両の手で抱きしめたいと、心の底から願っているのですよ』 頭のおかしい囚人の言葉なぞに、振り回されている。 心をかき乱されて、混乱している。 「早く……忘れなきゃ……」 ――ああ、これでは、どちらが囚われているのか分からないではないか。 Afterword単に脱獄を手伝って欲しいから夢主を口説いたのか、それとも本当に夢主を愛しているのかは、皆さまの解釈にお任せいたします。 |