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4.
 黒髪ウェーブの女の胸元には、ウロボロスのタトゥーがあった。己の尾を噛む蛇の姿を胸元に刻んだ女に、キンブリーは少し興味が湧いている。器量は悪くないし、地味なロングドレスでは隠しきれない女らしさが主張するスタイルは、どこぞのモデル並みだ。無駄口は叩かない、しかし積極的に自分を誘い、面倒なことはすっ飛ばし自らベッドの上に横たえている。なにより自分のことを知っていて、自分と同じように身体に刻印を入れていた。
 だが、冷静に考えてみると、あまりにもできすぎていて、計算されすぎていて、これはハニートラップだろうという気もする。訝しんだキンブリーは、女を警戒したまなざしで観察した。
 しかし、前述したように、女は本当に無駄口を叩かない。彼に質問するでもなく、なにかについて喋らせようと誘導する気配もなく、ただ部屋の中央を占拠するダブルベッドの上で、手折られるのを待っている黒百合のように、ムスクの香りを漂わせて沈黙していた。
 キンブリーは、白い帽子をポールスタンドにかけ、ベッドの縁に腰かけた。ロウソク型のぼんやりと光るランプに目をやり、そのまま言葉もなくじっとしている。女の目的が分からず、下手に手を出せなかったのだ。女は不可解そうに、それから少し不満げにむくりと上体を起こし、窓のない壁の方を向いた。実際に雨が降り出し始めたかどうか、彼女たちには分からなかった。
 ふたりとも、まだシャワーを浴びていない。潔癖症の気があるキンブリーは、それを済まさずしてことを始められなかった。ひとまず先に女をシャワールームに行かせて、彼はなにをするでもなくじっと、壁紙のヴィクトリアン調の模様を意味もなく眺めた。
 キンブリーはそうしながら、女の首を絞めることについて考える。別に、先ほど出会ったばかりの名も知らない女に殺意が湧いたわけではない。無差別に人を殺めたいわけでもない。ただ、彼はこれが私のやり方なのだというように、行為中にしばしば女の首を絞めることを好んだ。そうすると、女の苦痛に歪んだ表情が見られるだけでなく、締まりも良くなるのだ。
 彼のかつての恋人たちは、必ずと言って良いほど首を絞められていたし、最初は嫌がっていても、それを甘んじて受け入れるうちに癖になってしまった女が多かった。キンブリーのサディズムが、あるいは女のマゾヒズムがそうさせたのもあるが、低酸素状態に陥ると、興奮と快感の脳内物質が放出されるのだ。
 もちろん、中には怖がる女もいた。首を絞められることはもとより、彼の錬金術で頭を吹っ飛ばされるのでは、と危惧する女もいた。だが、機嫌を損ねたくないあまり、関係が壊れるのを恐れるあまりに、今さら後に引くことができない。惚れた弱みに支配された女は、恐怖を覚えながら、彼に身体を、生命いのちをゆだねるしかなかった。
 キンブリーは、今シャワーを浴びている女の細い首に手をかける想像をした。最初は少しずつ、弱い力で絞める。それから段々と時間を長くし、四、五秒絞めてはふっと力を抜く。それを幾度も繰り返す。女は苦悶の声をもらしながら、汗で髪が貼りついた顔を歪める。涙が目尻で光り、喉の骨が跳ねた。力を強める。力を抜く。いつしか女は、もっと強くして、と顔を真っ赤にして懇願し始める。
 ときに、狂おしいほどの重い愛に溺れた恋人たちは、こうして生命をかけた究極の戯れに身を投じることがある。愛しているからこそ、信頼しているからこそ、成せる戯れだ。しかしながら、決定的な「なにか」を欠いているキンブリーには、愛情から相手の生命を握ったことは、たったの一度もなかった。
 後ろ髪を上げ、バスローブ姿で出てきた女と入れ替わるように、キンブリーはシャワールームに向かう。彼は鼻歌を奏でることはせず、無言で熱い雨に降られた。
 バスローブを着て部屋に戻ると、シャワーを浴びている間に注文したのだろう、女はワインを飲んでいた。グラスはふたつあるが、女は彼の姿を認めるとすっと立ち上がり、ワインを味わうよりも先にふたりで楽しみましょう、とでも言うように誘惑的な微笑を浮かべて、おもむろに彼に近づいた。
 女はベッドの前に佇むキンブリーの胸元に触れ、彼を見つめる。キンブリーは、彼女のボルドーの瞳に、長く鋭い瞳孔があるのを発見した。まるで、胸元で丸くなっている蛇の、母親のようだと思った。
「変わったタトゥーですね。蛇がお好きですか」
「そうね、好きよ。この刻印こそが私を私たらしめているから」
 女は結った髪をほどいた。波打つ黒髪がふわりと広がり、ムスクが香る。
「蛇の交わり方はご存知?」
 女の脚が、キンブリーの両膝の間に差し入れられる。白い太腿が彼の脚にぴたりと当てられ、両手は彼の首の後ろにまわされた。女は誘うように、しかし矢のような鋭さをはらんで目を細めた。
「こうして身体を絡めて、何日も何日も身体を繋げたまま、続けるのよ」
「それはそれは、人間には到底できそうにもない」
 キンブリーはわざとらしく、両肩を上げてみせた。
「私が満足したら、あなたの欲しいものについて色々と教えてあげる」
「欲しいもの? 新品の蛍光灯のことですか?」
「違うわ。あなたたち錬金術師が、血眼になって探しているものよ」
 女は、キンブリーの胸板を強い力で押し、自分も一緒になって彼を白布の海に沈めた。スプリングがぎしりと鳴き、埃が舞う匂いがかすかにした。
 かつてない積極性に遭遇したキンブリーは、一瞬目を丸くしたが、やがて喉の奥で短く笑った。この私が女に押し倒され、組み敷かれてしまうとは。
「まあ良いでしょう。ああそうだ、途中で首を絞めても?」
「首を? 変わった人間ね」
「よく言われます」
 あのランプのぼんやりとした頼りない灯りでは、女の顔をはっきりと見ることができない。だが、暗闇に覆われた彼女が、影の中で意味ありげに笑うのは分かった。
「それじゃ、大サービスよ。一度だけなら殺して良いわ」
 キンブリーは片眉をくいと上げた。一度だけなら殺して良い、とは? 
 言葉の意味を問おうとしたとき、部屋の扉をノックする音が聞こえた。女は浅くため息を吐いて、時間切れね、と呟きながらベッドを離れた。キンブリーはまだ、彼女の言葉の意味を考えている。
 女がドアを開けると、ホテルの男性従業員が部屋に入って来た。またなにか注文していたのだろうか。キンブリーはそう思ったが、男の手にトレイはなく、後ろにワゴンが控えているようでもない。
「お楽しみは済んだかい?」
 目つきの鋭い男は後ろ手でドアを閉め、あろうことか女に馴れ馴れしく尋ねた。女は不満そうに腰に手を当てた。
「悪いけど、あと一時間待ってくれないかしら」
「なんで、遅くない? いつもさっさと済ませてるじゃん」
「今日はそういうわけには行かなかったのよ」
 どうやら、ふたりは面識があるらしい。それも付き合いの長い、関係性の深い間柄に見える。しかし、いくら親しい者同士とはいえ、自分を無視して会話を続けられるのは、キンブリーにとって不快だった。この男が本来のなすべき仕事を忘れて、客室で怠けているのも気に入らない。彼は、長い脚をベッドの上で組み、無表情のままふたりのやりとりを眺めた。
 やがて、男は彼の方を振り向き、やあ、と挨拶をした。
「初めまして、紅蓮の錬金術師。会えて嬉しいよ」
「貴方、客に対する態度や言葉遣いがなっていないようですね」
 一瞬、男の表情が固まった。だが、彼はすぐに声を立てて笑い出す。キンブリーの眉間に、薄い皺が刻まれた。
「あぁ、そうそう! ちゃんと立場をわきまえなきゃね!」
 キンブリーは思わず目をみはる。男が自身の姿を、足先から順に変化させていくのだ。革靴や白いスーツは、太腿やへその出た露出の多い黒の服装に変わり、ブロンドの短髪は、無造作な漆黒の長髪になり、額にはヘアバンドが巻かれた。目つきの悪さはそのままに、彼はわずか数秒で別の青年に変貌を遂げたのだ。
 錬金術、だろうか。いや、なんのモーションもなくこのような変身は、果たして可能なのか。もし錬金術だとすれば、自身を錬成し直すというハイリスクな術を、この男はなんのためらいもなくやってのけたということになる。ただのパフォーマンスのために? なにが目的だ?
 キンブリーの戸惑いや思考回路を嘲笑うかのように、男は黒い笑みを浮かべる。そして、キンブリーが座っているベッドを、片足で思い切り踏みつけた。その太腿には、女と同じウロボロスが刻まれていた。
「もちろん、ただの人間であるあんたが、俺たち人造人間ホムンクルスを敬うんだよ」
 その一言で、キンブリーは即座に理解した。この男の正体も、隣の女の正体も。彼らは異質な存在なのだ。一度殺されたぐらいでは死にはしないし、錬金術などなくても特殊な技が使えてしまう。そうした、世界に選ばれた特異な存在なのだ。
 未知なる生体を目の前にして、彼の錬金術師としての好奇心が、胸の中でぶるぶると揺さぶられる。キンブリーは、汗ばむ掌を握り、ゆっくりと口端を持ち上げた。
「人造人間ですか。非常に面白い」




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