5. イシュヴァール戦について、きみの考えを聞かせてくれたまえ。 三日前、キング・ブラッドレイに率直な意見を求められたキンブリーは、別にどうも思いませんよ、と涼しい顔で言ってのけた。 「イシュヴァール人は国内の治安を乱した。だから制裁を加える。当然のことでしょう。東方軍には、その名に恥じない、国軍代表としてふさわしい仕事をしていただきたい。私からはそれだけですよ」 彼がさらりとそう言えば、ブラッドレイは瞳を閉じたまま紅茶をすすった。喉をうるおした後は、なにを言うでもなく、ただ頷くだけだった。 あの面会から三日後、キンブリーは再びブラッドレイの執務室の扉を叩くことになった。部屋の中は、香り高い紅茶の匂いが充満し、大きな窓からは淡い水色の空がよく見えた。 呼び出されたキンブリーは、窓の外を眺めるブラッドレイの立ち姿を眺めている。眼帯に隠れた横顔を見つめながら、キンブリーは思った。彼の身体のどこかにも、あの蛇が刻まれているのだろう。たとえば、そう。この眼帯の下の、薄い瞼に描かれているとしたら。あるいは、その瞼の下でひっそりと眠っているのだとしたら。 キンブリーは無意識に微笑する。すると、ブラッドレイが口を開いた。 「ラストとエンヴィーに会ったそうだな」 「ええ、色々と教えていただきましたよ」 人造人間と呼ばれる者たちの詳細、この国と軍と戦いの目的、そして、賢者の石が架空のものではなく実在すること。 「それからご丁寧に、閣下の正体まで」 「恐怖しないのかね」 「まさか、むしろ光栄に思いますよ。貴方は世界に選ばれた、たぐいまれなる御人……おっと、これはとんだご無礼を。たぐいまれなる存在、ですね」 ブラッドレイは、やっとキンブリーの顔を見た。キンブリーの態度は、相手が人であってもそうでなくても一貫して変わらない。人造人間に尊敬の意を表してはいるが、下手に媚びるでもなく、かといって臆する様子もない。世間一般の人間なら、果たしてこうはいっただろうか。 ブラッドレイは、表情らしい表情を浮かべぬままに言った。 「近々、イシュヴァール人の殲滅に取り掛かる。国家錬金術師を総動員する予定だ」 「ほう、根絶やしにするのですか」 「もちろん紅蓮の錬金術師、きみにも存分に働いてもらう」 「ええ、喜んで」 「……賢者の石に興味はないかね?」 キンブリーの双眸が見開かれる。 「もうすぐ優秀な研究員たちを集め、イシュヴァール人の生命を使って新たな石を生成させる。それをきみに託すとしよう」 キンブリーは、彼の言葉を上手く呑み込めない。 それは本当か。今の話は、自分の聞き間違いではなかったか。 「なぜ、という顔だな。きみは、マスタングやアームストロングと違い、答えに少しも窮することはなく、とってつけたような建前の言葉を一度も発しなかった。戦い、殲滅と聞いても、眉ひとつ動かさない。私の正体や目的を知ってなお、動じず好意的に受け入れた。ふむ、世の中には妙な人間もいたものだ」 「……褒め言葉として受け取っておきましょう」 落ち着いた声音だが、キンブリーの内心は驚きと喜びで、血管が脈打つようだった。 夢にまで見た、あの賢者の石が手に入る? 私だけが特別に使うことができる? ブラッドレイはおもむろに歩み寄る。キンブリーの正面に立つと、無表情のまま告げた。 「良い仕事をしてくれたまえよ」 キンブリーは恭しく礼をし、お任せください、と言って執務室を後にした。そしてドアが閉まると、信じられない、というように曖昧に破顔した。 その後の仕事をどのように片付けたのかは、珍しいことに覚えていない。部下や同僚には普段よりも笑顔で接し、会議の内容もしっかりと聞いていたはずだが、実際にそのように過ごしていたかはおぼろげである。誰かと接しているわけでもないのに、彼がひとりで微笑んでいるのを見て、部下たちは薄気味悪さを感じて互いに顔を見合わせたのだった。 赤い夕焼けが中央の街を包んでいる。声もなく飛ぶカラスたちのシルエットが、遠く小さく見え、帰宅ラッシュでごった返す人々の群れが足早に行き交っている。 キンブリーは、雑踏の中で歌い出しそうな気分だった。それも鼻歌ではなく、舞台の中央に立っているアーティストのように、高らかに歌声を響かせたかった。それほどまでに清々しく、また歓喜に満ちあふれていた。 このまま電器店なんかに寄るのはもったいない。キンブリーはもっと心躍る場所に行こうとした。具体的な場所はまだ決めていない。どこかではなく、どこにも行かずに歩き続けるのも良いだろう。一体、いつになれば新しい蛍光灯を買えるのかは分からなかったが、そんなのは今の彼にとっては些末なことであった。 東の空が夜の色に染まるまで、キンブリーは目的もなく歩き続けた。段々と人も建物もまばらになったところを見ると、郊外に出たようだ。彼はふいに足を止めた。そばには川が流れていた。 薄闇の色に染まった水面に心を惹かれた彼は、少しばかりの階段を降り、背の低い草を踏みしめて、川に近寄った。穏やかな水流の、ささやかな音がする。足場の悪い小石だらけの場所に立つと、深く息を吸い込んで、ふっと吐いた。水と夜と、期待の匂いが混じり合っていた。 胸の中の喜びを持て余している。これはどうしたって消えてくれそうになかった。川も、石も、夕闇も、彼の気持ちの昂りをすべて肯定し、祝福しているようにさえ思えた。 キンブリーはなんとなく、足元の小石をひとつ拾い上げる。楕円形ですべすべとしたそれを目の高さまで持ってくると、すいと目を細めた。一体、あの石はどんな形をしているのだろうか。どんな色で、どんな輝きを放っているのだろうか。 キンブリーは、その小石を口元にやり、そっと前歯で噛む。そして、両腕を広げて瞼を閉じ、イメージする。 岩でさえも溶けだしそうな熱砂の地。陽炎があちこちで揺らめく中、強い日の光が私とこの石を照らす。逃げ惑う褐色の罪人たちの背中を眺めながら、両掌を静かに合わせ、掌の錬成陣と石がまばゆい光を放つのを合図に、私は地面を叩く。聴覚を麻痺させる凄まじい爆発音が起こり、爆炎と爆風が町を、人々を、すべてを葬り去る。この石が私の力を何倍にも、何十倍にも底上げしてくれるのだ。私は、びりびりと震える全身で生ぬるい風を受けながら、創り上げた惨状をこの目に焼きつける――。 そこまで想像を巡らせたキンブリーは、恍惚として眉根を寄せ、小石を強く噛んだ。 そうだ。いつ死んでも良いと思えるような、美しく完璧な仕事をしよう。自分に託された仕事を全身全霊でまっとうしよう。たとえそれで生命が尽きることがあったとしても、一片の悔いもないと断言できる、信念を貫いた仕事をしよう。 人に造られた人間でない限り、永遠の生命を手に入れることなど不可能だ。踏み潰された蟻のように、この世に生を受けた者はいつか必ず死ぬ運命にある。片手を吹っ飛ばされた男でなくても、首を絞め続けられた女でなくても、死の影は予期せぬ瞬間にやってくるのだから。そこが戦場ならば、爆風、銃弾、拳ですら、生命を奪うには十分だ。そんな一瞬のことで死んでしまうはかない生きものなのだ、私たち人間は。 これから始まる戦いは、ただの一方的な殲滅戦ではない。アメストリス人とイシュヴァール人。互いの生命を、生き残りを賭した、究極の闘いだ。 さて、誰が勝負を制するだろうか。まだ見ぬ赤い目の貴方か? それとも、私だろうか。残念ながら、そう安々と勝利を譲るわけにはいかない。私は全力で戦う。貴方もまた、全力で向かってくるだろう。 だが、生命の灯火が消え、砂地に紅蓮が染みゆくとき、できたての亡骸をこの目に焼きつけるのは、きっと……。 キンブリーは瞼を開き、闇夜に薄い笑みを浮かべた。 |