三.
 ジョーへの手紙を書いた翌日、キンブリーは再びタイプライターに向かっていた。自分の胸に消えない染みを作った人間に手紙を書くつもりだ。しかし、キーボードの上に置いた手は昨日のようにスラスラと動かせない。自身の思いを書き表すのをためらっているようだ。
 ――こんな形でなければ、彼女について深く考えることなど、できなかったでしょうね。
 良い機会だ、とキンブリーは考えた。書くことは思考することだ。時間はあり余るほどにある。彼女について考え、自分の過去を振り返り、現在の自分を見つめ直すチャンスだ。幸いにも、この手紙が誰かに届くことはない。もちろん、墓の中の彼女には絶対に。その小さな安心がキンブリーの行動を促した。
 暗闇の中でまばたきをし、息を吐いて、彼はタイプを始めた。カシャカシャと音を立てて紡がれたのは、こんな内容だった。


 私の一番星 母様へ

 お久しぶりです。貴女を失って早二十年の年月が流れました。月日が経つのは本当に早い。人間の一生というのは、かくも儚い。
 天国での暮らしはいかがですか。もう、大きな物音にも、理不尽な怒号や暴力にも耐えなくて良いのですから、さぞのびのびと毎日を送っていることでしょう。いえ、貴女のことです、つまらないことをあれこれ心配しているのでしょうね。その必要はありませんよ。私はこの通りとうの昔に成人しましたし、憧れてやまなかった国家錬金術師の資格も取得しました。今は訳あって檻の中で過ごしていますが、心配は無用、本気で出たいと思えばそれはいつでも叶います。私は元気にしていますよ。
 貴女に手紙を書くとは、今日まで思ってもみませんでした。というのは、貴女について考えそうになるとき、その思考を意識的にかき消していましたから。ああ、別に貴女のことが嫌いな訳ではありません。貴女は私の、良き理解者でした。おそらく貴女が私の人生の中で、最も私を愛し、慈しんでくれた人です。感謝していますよ。
 では何故、貴女を記憶の片隅へ追いやろうとしたのか。それは、貴女が悪いのではなく、貴女の隣に立っていた男の存在も一緒に思い出してしまうからなのです。私はあの男のことを今でも考えたくはない。しかし、貴女を思い出すとき、必ず影のようにあの男の記憶がぬるりとうごめき、うるさいほどに鳴り響いてくるのです。蘇ってくるのです。私はそれが、耐えられなかった。
 ですが、私ももういい大人。そろそろ自分の中の消し去りたい記憶と向かい合っていかなくてはなりません。せっかくですから、貴女に私の思いを聞いていただくことにしましょう。昔の幼き日の自分に戻ったつもりで、湧き出る感情を隠さず、飾らず、赤裸々にお話ししましょう。その方がきっと、傷も癒えるでしょう。

 あれは大きな家でしたね。私と、貴女と、父と使用人たちとが住んでいたあの屋敷。当時、工場主であった父が、百人ほど来客を招いてパーティーを開きましたが、それでもホールは人で埋まることはなかった。私たちはあの大きな屋敷で、幸せな生活を送っていました。あるときまでは。
 私は昔から変わった子どもだったようですね。成績はいつも申し分ない結果でしたが、教師もクラスメイトも、私と深く関わることを避け、煙たがり、去って行きました。何故でしょうね。「私はおかしくない」と弁解すればするほど、人は離れていった。その主張自体が珍妙だったのかもしれません。……そうした、ある意味では孤独な人間でした。
 こう記してしまうと、貴女は青筋を立てるかもしれませんね。貴女は私を誰より愛し、また腕の中という安全地帯にかくまってくれましたから。そうです、貴女だけは違った。はじめから私に興味など持たなかった父とは、正反対でした。あの、仕事にしか眼中になかった父とは。
 家庭だけが私の居場所でした。貴女はもちろん、ドアマンも、ガーデナーも、コックもメイドも侍従も、皆が温かく接してくれた。その中で、父とだけ折り合いが悪かった。だから私は、父に気に入られるよう必死で勉学に取り組みました。父が唯一興味を持っていた錬金術も、独学で勉強しました。学校の宿題が終われば、錬金術の入門書を熟読するのです。私はいつしかそれに夢中になっていました。
 いつか、父に認めてもらえるように私は頑張りました。それだけを目標に、勉学と錬金術を学んだのです。少しでも私に興味を持ってもらえるように、あわよくば褒めてもらえるように、と。ですが、期待などすべきではなかったのです。私の淡い希望は、一度たりとも叶うことはなかったのですから。

 あれは、私が九つのときでした。晴れた日曜の昼下がり、休日にもかかわらず仕事場の工場にいた父に、私はどうしてだか会いに行きました。危険だからと普段は入らせてもらえない場所でした。私はそこの従業員に頼みこみ、四度目の懇願の末、やっと父が働いている奥の部屋へと案内してもらいました。
 扉を開けたときの父の形相を、今でもはっきりと覚えています。目をかっと大きくみはり、鼻の穴を膨らまし、唾を飛ばしながら私を怒鳴った。「それほど危険な場所だから私を案じて怒ったのだ」と良い方に捉えたかった。ですが、私には「自分のテリトリーに容易く入ってくるな、仕事中におまえの顔など見たくもない」と言われているように思えてならなかったのです。
 私は、父につまみ出されるようにして工場の外へ連れて行かれました。胸がひどく痛み、意気消沈したのを覚えています。私は帰り道の心配をしながらも、仕方なく帰路に着こうとした。父も仕事に戻ろうと踵を返しました。
 そのときです。ドンという爆音とともに、工場が炎と煙を吹き上げました。
 私は驚いて固まってしまった。今のはなんだ、と考えている間に、次の爆発が起きました。ドン、ドン、と計三回の爆破音鳴り響きました。工場は、黒煙をもうもうと吹き上げながら、立ち上がった火に飲み込まれてしまいました。私はぞっと、身の毛がよだつ思いがした。背骨がぶるりとおののきました。
 父の顔を見ると、先ほどまで真っ赤だった顔が、死人のように真っ青になっていました。私たちは言葉もなく立ち尽くしたままでした。なにもかもが、あの一瞬で終わってしまった。工場内の人々の生命いのちも、父の仕事も、父の理性も。

 あの日から、妙な物音と悲鳴が夜な夜な聞こえるようになりました。気のせいではありません。なにかを投げつける音、ガラスの割れる音、女性の悲痛な叫び。それは、父に暴力を振るわれた貴女のものでしたね。私は心のどこかでそうだろうと感づいていながらも、どうすることもできず、ただ部屋の隅っこで耳を塞いで怯えるばかりでした。
 あの絶望感をなんと表現すれば良いのでしょう。戦争中、自分の生命を狙う敵国の兵士から身を守るように、息を潜めて、自分の肩を抱いて、うずくまって。恐怖と危機感と苦痛とが渦となり、自信を苛んでいました。どこかの狂人が弾く、破壊目的ではないかと思うほどの無秩序なピアノ演奏を、大音量で聴いているような感覚でした。早くこの音が、この悲鳴が止むように、私はただ震えながら祈ることしかできませんでした。
 私は貴女を守れなかった。ドアを開けて、「やめてください父様」と袖を引っ張ることができなかった。使用人に告げ口をして、止めてもらえるよう計らうこともできなかった。父の矛先が、私に向かうことを恐れていたからでしょう。申し訳ありませんでした。私が不甲斐ないばかりに、力がないばかりに。
 父の暴力は、水面下でひっそりと行われ続けました。貴女はそれに耐え忍んだ。私もそれに耐え続けた。爆破事故の日、父が私を怒鳴ったときの顔つきで、貴女に辛く当たっている想像をどうにか頭の中から消そうと努力した。貴女の左手の甲が赤く腫れているのを見ないふりをしてやり過ごした。私は、臆病でした。
 そんな毎日が続き、精神が磨耗した私は、悪い方へと成長していきました。もう、あの物音や悲鳴が聞こえても、なにも感じなくなったのです。いや、そればかりか、段々と感覚が麻痺してきた私は、悲しみを象徴するそれらの音を、音楽だと捉えるようになったのです。
 それは一種の防衛反応だったのでしょう。自分の心が壊れないよう、それらを「心地良い音」だと思い込もうとしたのです。それは、案外上手くいきました。いつしか私は、悲哀に彩られた美しい音楽に耳を傾けたくなる、非人道的人間へと化してしまったのです。
 そして、同じように爆発にも魅入られた。数ある音の中でも最大クラスの音を奏でるあの爆発が、なにより好きになってしまったのです。はじめて体験したあの事故の爆発は、恐怖以外のなにものでもなかったのというのに。一瞬で人の生命がいくつも消えるほどの強大なあのパワーが、あの頃の私の目にはとても魅力的に映ったのです。
 私は爆破の錬金術を学ぶことを決めました。そして、爆破を得意とする国家錬金術師を志しました。皮肉にも、すべて父の影響です。私に無関心で、愛する母を痛めつけた、憎い父の影響です。なんということでしょう、彼にはあれほどまでに憎悪の念を抱いているというのに。
 私は父が憎い。それと同時に、自分自身が憎くなります。あのとき、貴女を助けることができたのは、真に私ひとりだけだったというのに、私は保身にまわった。今でもそれは悔やみ続けています。私が声を上げていれば、貴女は過労で死に至ることもなかったでしょうに。
 貴女のことを考えると、父のことを思い出します。父のことを思い出すとき、弱い過去の私を思い出すのです。ああ、だから私は避けていたのだ、自分の罪を見つめ直すのを嫌悪していたのだ。私はまだ、子どもだったのだ。

 長く、長く書いてしまいましたね。これは貴女への手紙というより、いわば私の思考をまとめたノートでしょうか。この体験は、きっと私に必要なことだったのでしょう。ですが、こうして自身の弱さを書き表すのに、どうしても貴女の力が必要でした。貴女に宛てた手紙だと思えたからこそ、こうして自身を丸裸にできたのですから。やはり、貴女は偉大だ。
 私は、貴女の子で良かったと思います。貴女はどうでしたでしょう、貴女も「普通の子」が良かったですか。いえ、優しい貴女はきっと本心を語らないでしょう。どうかそのまま、嘘を吐いていてください。
 貴女の血がこの身体に通っていること、それが私の誇りです。どこまでも善良で非力な貴女を、愛していますよ。

貴女の子ども ゾルフ・J・キンブリー


 キンブリーはふう、と息をついた。テーブルの上には計四枚の手紙が散らばっていた。
 久しぶりに母と対話し、自分と対話したように思えた。書きたいことが次から次へとあふれ出て、止めどなかった。しかし、すべてをそこに記せたわけではない。ここには書けなかった記憶や思いももちろんあった。
 たとえば、「母を除き、皆に理解してもらえないのは自分が変わった考え方をするからだ。自分が異端だからだ。だが、この異端な自分を認めてもらいたい。誰かに、できるならば世界に認めてもらいたい。異端の自分がこの世界で生き残れば、世界が自分を認めたということになる。そう、生き残れば良いのだ……」そういうふうに、満たされない承認欲求が膨れ上がったために、生き残りに執着するようになったこと。
 たとえば、勉強に熱中したのも、錬金術を独学で学び出したのも、ある種孤独からの逃避だったこと。独りでなければ、ここまで自分は頑張れなかったかもしれないということ。
 たとえば、成長するにつれ、自分の冷めた見方が強くなっていったこと。あるときなんぞは父に対して、「そんなに母が気に入らないのであれば消してしまえば良いのに」、「事故の日のように爆破してしまえば跡形もなく消せるのに」と思ってしまったこと。自分の唯一の理解者である母をないがしろにすることを自然と考えてしまったこと。
 また、いつかこの錬金術で父を消せたら、と思っていたこと。そうすれば父も、自分と自分の錬金術を死の淵で認めてくれるのではないかと思ったこと。しかし、もはや自分は、父に認められるだけでは満足できなかっただろうと予想したこと。
 そして、父の無関心、暴力性を「こうであってはいけない」「人間として美しくない」と常々思っていたこと。「美しい人間とはどのような人間か」と追求し、人間性の美学に敏感になったのは、憎い父がいたからだということ……。
 キンブリーはそこではっとする。憎むべき父に、誰よりも影響を受けている。自分が仕事にこだわる仕事人間な部分も、情に厚くないところも、いやに冷めた性格も、すべて嫌悪する父に似ているのだ。
 突然、完全な暗闇に放り出された気分になった。キンブリーは瞠目どうもくし、うなだれた。
 さらり、と彼の長い黒髪が顔に垂れる。キンブリーは虚ろな瞳をゆっくりと動かし、自身の髪をひと房摘んでみた。
母と同じ髪の色に、母と同じ髪の長さ。
彼は傷んでしまった黒をじっと見つめ、そうして天井を見上げた。
 母の存在だけが支えだったのだ、と改めてキンブリーは思う。そして、空虚な虚空こくうの中に、母の優しい横顔を思い描こうとした。
 しかし、それは何故だか上手くいかなかった。




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