愛犬ジェイはポケットに





 目を開けると白い天井が見えた。続いて目線を下に落とすと体に布団がかかってある。微かな風を感じてそちらを向くと、窓が少しだけ開いていた。ここがホテルではなく病院だと思い出させたのは、疼く左脇腹の痛みだった。
 私は昨日、北方司令部で傷の男の目撃情報を聞き、さっそく捜索に出かけた。月の綺麗な夜だった。私はブリッグズ行きの貨物列車に乗り込み、人造人間から探せと命じられていたドクターマルコーらしき人物を追い詰めた。しかし、彼はマルコーではなかった。呆気にとられた私の背後に、イシュヴァール人が襲いかかった。互いに誰なのかは分からない。が、明るい月が雲から顔を出した瞬間、相手の顔がはっきりと見え、私の記憶からある男の姿が鮮明に浮かび上がってきた。私が内乱で仕留め損ねた男――傷の男だ。
 彼によく似た眼鏡の男をイシュヴァールで手にかけたことがある。左脇腹から血を流してたいそう苦悶の表情を浮かべた男。彼と傷の男は兄弟だったのかもしれない。なるほど、それなら傷の男が私に強い恨みを持ち続け、列車の中で対峙した私をすぐ思い出したのは自然なことだろう。
 私たちは戦った。しかし、出所してから間もない私と内乱が終わってからも戦い続けた彼とでは、圧倒的にこちらが不利だ。だが所詮は壊すことしかできない相手だと思っていた。そう、少しでも見くびったのが私の敗因だ。彼はあの時の仕返しのように、私の左脇腹目がけて先端の尖った鉄の棒を槍のように投げつけた。その時の壮絶な痛みは、そこからの記憶を綺麗さっぱり奪うほど強烈なものだった。
 これで命を落とすかもしれないと思っていたが、幸か不幸かこうして生きている。私は世界に選ばれているのだ。これを誇りに思わない訳がなかった。だが、同じイシュヴァール人を二度も仕留め損ねたことは、私のプライドが許さない。彼をこの手で闇に葬るまで私は死ねないのだ。
 彼のように、私に強い恨みを持つ輩は少なくないだろう。死を築く者は死に追われる。私がこの先も死を築く者である限り、死もまた私を見逃したりはしない。それで結構。常に死と隣り合わせ、魂をかける仕事こそ美しさがあるのだ。なんとやりごたえのある、私の戦場。
 口元を緩めたとき、忙しない三回のノック音が聞こえた。返事をする間もなく扉はガラガラと開く。息を弾ませ飛び込んできたのはあの少女だ。
「キンブリーさんっ!!」
「アヤさん」
 驚いた。まさか彼女がここに来るとは。
「大丈夫ですか!? ってそんな訳ないですよね。あたし、キンブリーさんが入院したって聞いて、心配で心配でいてもたってもいられなくって……。あっあの、昨日もキンブリーさんの帰りを待ってたんですけど、いつまで待っても来ないし、ホテルの朝食バイキングでも姿が見えないから何かあったんだと思って、軍の人に尋ねたんです。そしたら、キンブリーさん、昨日の晩から入院してるって聞いて、本当にびっくりしちゃって、心配でここまで来ちゃいました……。ご迷惑でしたか?」
 彼女は動けない私を気遣う表情のまま一気に捲くし立てた。くり色の髪が乱れている。息せき切ってここに来たのだろう。彼女の一生懸命さがひしひしと伝わり、私は気持ちが良かった。
「そうでしたか。昨日は寒い中、待たせてしまってすみませんでした。急な仕事が入ってしまいましてね……。心配して来てくださってありがとうございます。おかげで元気が出ましたよ」
 少女の顔が俄かに明るくなる。彼女はホッと胸を撫で下ろし、良かったと呟いた。
「それにしても北方司令部まで行ったのですか? 軍の人間がよく私の居場所を教えてくれましたね」
「えへ、キンブリーさんの娘ですって言ったら、すぐ対応してくれましたよ!」
 自慢気な言い方に思わず苦笑した。そうか、では一昨日の親子ごっこは一応役に立ったということか。
「……キンブリーさん、入院って、お仕事の疲れが出たんですか?」
「少し危険な仕事がありまして、そこでうっかり怪我をしましてね」
「お怪我!?」
 彼女の顔がまたもや心配そうな表情に戻る。わたわたと慌てる彼女の興奮を抑えるように、両手を向けた。
「心配いりません。すぐに治ります」
「でも……」
 そう言葉を切った彼女は、私の掌を見て目を大きく見開いた。
「……ああ、普段は手袋をしていましたからね、これを見るのは初めてですか。こうして右手に太陽、左手に月の錬成陣を刻んでいるんですよ」
「錬成陣を……刻む?」
「ええ」
 刺青です、と答えると彼女はひゅっと息を飲んだ。怯えたのか瞳が揺れる。良い反応だ。まあ誰かを怖がらせるために入れた訳ではないのだが。
「こう見えても私は国家錬金術師なんですよ」
「こ、国家……錬金術師!?」
 彼女の表情は、今度は驚きの色に染まった。先ほどから表情がころころと変わって、見ていて飽きない。
「二つ名は紅蓮。紅蓮の錬金術師です。主に爆発を専門にやっています」
「か、かっこいい……! すごい、すごい……!」
 国家錬金術師というと、一般人からは『軍の狗』だと大抵煙たがられるのだが、どうも彼女はその類の人間ではないらしい。私の目には純粋に錬金術師に憧れ、夢見ているように見えた。
「機会があれば錬金術をお見せしますよ」
 にこりと笑うと、彼女は何度も深く頷き、楽しみにしていますと言った。そしてあっ、と何かを思い出したような声を出し、コートのポケットを探った。
「あたしったら、お見舞いのお土産を買ってきたのに、渡すのをすっかり忘れてました!」
 そうして取り出したのは、掌サイズの小さな箱だった。開けて良いか聞くと、彼女はどうぞと言った。
「おや、可愛らしい」
 中に入っていたのは、白い子犬の置物だ。つぶらな瞳のそれは、笑うように口を開け行儀よくおすわりをしている。私よりも彼女が好きそうな代物だが(どことなく私に懐く彼女に似ている)、見ていると癒されるような気がする。彼女は、えへへと笑って説明を始めた。
「お花はお世話するの大変そうだし、キンブリーさんの好物は知らないし……。でもキンブリーさんのお洋服を思い出して、白がお好きかなって思ったんです。それからおばあちゃんがよく言ってた、『病気は<居ぬ>』って言葉を思い出したので、白いワンちゃんの何かを買うことにしました。あ、でもお怪我なんですよね。私なんでご病気だって決めつけちゃったんだろう」
 頬を掻きながら困ったように笑う彼女は、この犬に負けず劣らず――愛らしく見えた。色々と頭を悩ませ、思いを巡らせ買ってきてくれたのだ。随分と久しぶりに人の真心というものを受け取った気がする。悪い気は、しなかった。
「アヤさん、ありがとうございます。大切にしますよ」
「はいっ。じゃあ、あの、名前を付けてあげてくれませんか?」
「名前?」
「きっとその方が、愛着が湧くと思いますので」
 少女の考えることは面白い。生き物でもないのに名前をつけて可愛がるという発想が私にはなかったからだ。私は顎に手を当てて名前を考えるふりをした。今まで一度も生き物を飼育したことがないため、一体どんな名をつければ良いのか全く見当がつかなかった。少女はにこにことこちらを見ている。その時、名案が浮かんだ。
「そうだ。せっかくですので、貴女に考えてもらいましょうか」
「あたしがですか?」
「ええ、ぜひ。私は思い浮かばないのですよ」
 彼女はううん、と唸った。やがて小さくあっと呟き、何やら照れながら名前を提案した。
「じゃ、じゃあ、ケイはどうですか?」
「ケイ?」
「はい。キ、キンブリーさんのミドルネームから……」

『あのう、突然すみません! あのっ、もしかして、キンブリーさんですか?!』
『ええ……いかにも』
『うわぁやっぱり! あの時の、私を助けてくれたゾルフ・K・キンブリーさんなんですねっ!』

 ――ああ、そうだ。そうだった。中央で再会した彼女は私の名前を勘違いしていたのだった。それも無理もない。幼い頃迷子になっていた彼女に名前を教え、それから10年が経つ。長い月日が経っているにもかかわらず、中央で私を見つけた途端、彼女は私の名前まで言い当てた。細かい所が間違っているなど煩いことは言わない。再会して自己紹介をする前だというのに、10年前に一度だけ会った軍人の名前を憶え、口にしてくれた。それだけで十分だ。だが、もうそろそろ訂正しなくてはいけない。
「アヤさん、実は」
「も、もしかして……あたし、間違えて……?」
「貴女の名づけ方に倣うなら、この子の名前はジェイですね」
「ごっごめんなさいキンブリーさん!」
 手を口元にあて、彼女は申し訳なさそうに眉を下げ、頭を下げた。
「いえ、気にすることはありませんよ。顔を上げてください」
 微笑みながらそう言うと、彼女は私の顔色を窺うようにゆっくりと目線を上げた。そんな顔をしなくても、何も怒っていないというのに。
「そうですね、ジェイとは良い名です。とても、気に入りましたよ。……ですが」
 彼女の無垢な瞳を見つめて言った。
「私は貴女の思っているような『良い人』ではありません。このような親切を受け取るに値しない人間なのです。ですから今後は……」
 コンコンコンとノックの音が聞こえた。少女は何か言いたげだったが口を噤んだ。私はドアに返事をする。入って来たのは看護師ではなく、雪眼防止用なのか丸いサングラスをかけた褐色の肌の男だった。軍服を着ているが、北方司令部では見かけない顔だ。少女は頭を下げ、三歩後ろに下がった。
「取込み中すまない。あなたがゾルフ・J・キンブリー氏だな?」
「ええ、いかにも。貴方は?」
「私はマイルズ。少佐だ。ここにはブリッグズ砦のアームストロング少将の命令で来た。怪我をしたようだが、具合はどうだ」
「ええ、まあ。心配はいりません」
 砦の人間なのか。もう少将殿に報告が行ったとは驚きだ。
「すみませんがアヤ、仕事の話をするので少し席を外してくれませんか」
「分かった。また来るねお父さん」
 彼女は、私の意図をすぐに汲んでくれる。賢い娘を持ったものだ。彼女はもう一度マイルズに礼をし、そそくさと出て行った。
 傷の男を追っている旨と、彼との戦闘の際負傷したことをマイルズに伝えた。すると彼は協力したいと言ってきた。ありがたくない提案だ。傷の男の捜索は私の仕事、貴方がたには引っ込んでいてもらいたいと突き放せば、彼はサングラスを外し、顔を近づけこちらをまっすぐ睨んだ。血のように赤い目。彼は傷の男と同様、紛れもなくイシュヴァール人だった。彼は低い声で脅し文句を残して、病室を出て行った。
 イシュヴァール人はやはり面白い。思わずそう呟くと、また新たなノックの音がした。やれやれ、今度はどんな客人だろうか。入って来たのは色黒の初老の男、レイブン中将だった。私が心配で仕方ないと愛想の良い笑みを見せて言うので、貴方がたが心配しているのはこれでしょうと、賢者の石を二つ取り出して見せた。彼はよろしいと言うようにすっと笑顔を消した。
 中将は私と同行して砦に向かうという。しかし私はこの有様、しばらくは動けそうにない。どうしたものかと思っていたが、彼には何か考えがあるようである。ドアの方を見るともう一人客人がいた。眼鏡をかけた、金歯の光る年老いた怪しげな男だった。彼は錬金術師の医者だそうだ。レイブンはほくそ笑んだ。加えてこの賢者の石がある、あっという間に全快だよと。

 錬金術師の男と賢者の石のおかげで腹の傷はすぐに癒えた。私はベッドから起き上がり、シーツを整え、出発準備を始めた。これからホテルに戻り、荷物をまとめて一時間後に中将と合流するのだ。コートを着て、帽子を被る。テーブルに置きっぱなしのジェイをそっとポケットの中にしまう。自分のミドルネームから取った名前だと改めて思うと、乾いた笑みが零れた。さて、これを贈ってくれた少女に会いに行かなくては。
 病室を後にすると、休憩所でココアを飲んでくつろいでいる少女と会うことができた。案外、早く見つかったのを幸運に思う。彼女は目を丸くし、がたりと席を立った。
「キンブリーさん!? お怪我しているんじゃ……」
「もうすっかり治りましたよ」
 信じられないと絶句する彼女の向かいに腰かけ、小声で事の成り行きを説明する。
「錬金術師の医者に治してもらいました。この通り、もう元気ですよ」
「えええっ……!?」
「アヤさん、私はこれからブリッグズ砦に向かいます。しばらくそこに滞在することになるでしょう」
「あの、私もついて行っちゃだめですか?」
 ああ、予想通りの反応だ。きっと断ったとしても、意地でもついてくるだろう。
「お好きなように。しかし仕事の邪魔は」
「絶対しません!」
「良いでしょう」
 約束ですよ、と念を押すと、彼女は頷いて小指を差し出してきた。小さな指だ。先日彼女の手を握ったときも思ったが、少女の手とは、かくも小さいものか。その白い指に私も小指を絡める。少女は指切りげんまんと呪文を唱え、いつものようにえへへと笑った。


(了) 20171121


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