父娘のルール





 フロントでチェックアウトを済ませ、ロビーのソファに座る。レイブン中将との待ち合わせは十五時きっかり。約束の時間まであと十分ほどある。さて、あの少女はいつ来るだろうか。
 彼女を置いてそそくさと待ち合わせ場所に行ってしまうこともできるはずだが、そうする気にならないのは、むやみやたらに自分の価値を下げないためでもある。約束を守るのが大人の常識であり、世間の常識であり、人としての常識だ。常識を逸脱した瞬間、私は常人でなくなってしまう。自らを異端と認めたからには、努めて常人であらねばならない。幼少期から芽生えたその意識が、いつでも私の背筋を伸ばしてくれるのだ。
 ゴロゴロと音をさせ、キャリーケースを引っ張りながら小走りで現れたのは、あの少女だった。彼女は私を見るなり、
「お待たせしてしまってすみません! すぐにチェックアウトしますね!」
 と早口で告げ、フロントに行った。まだ時間に余裕があるからゆっくりすれば良い、と言っても良かったのだが、それを言う前に彼女は駆けだしたので何も言わなかった。待ち合わせ場所には何の関係もない彼女もついてくるのだ。こちらが早く着いていた方が相手方の印象は良いだろう。
 ホテルから少し離れた所に、迎えの車は到着していた。レイブンはまだ来ていないようだ。
「キンブリーさん、ブリッグズ砦ってどんな所なんでしょうね」
 期待が滲む弾んだ声で彼女は言った。
「きっと貴女には退屈なはずです。砦近くのホテルに泊まり、観光するのが一番良いでしょう」
 私は仕事をしに砦に行くのだから、そこが彼女にとって面白い場所であるはずはない。それなのに、彼女は私に同行すると二つ返事をしたのだから、いよいよ不思議である。
「あの、お仕事中も一緒にいたいって言ったら、さすがにご迷惑ですよね?」
 そこまでして付きまとおうとする理由が分からない。私を好いているからだと彼女は言うが、私のどこを好いているというのだ。私の何を知っているというのだ。彼女が好いているのは、表層部分の私に過ぎないというのに。
 迷惑だ、と突っぱねても良かった。普段の自分ならそうしているに違いなかった。だから、少しでも返答に詰まった私は、普段通りの自分ではなかったのだろう。
「待たせたね、キンブリー」
 声の主はレイブンだ。彼は手を顔の高さに挙げ、人畜無害そうな表情を浮かべてやってきた。その仮面の下には、どんな執着と欲望が隠されているのだろうか。
「いえ、お早いお着きで」
「その可愛いお嬢さんは?」
 少女は緊張しているのか、一瞬肩をすぼめた。
「私、アヤ・K・キンブリーって言います」
 ミドルネームのKというのは、思いつきだろうか。以前私のミドルネームをKだと思い込んでいたが、そこから来ているのかもしれない。少女K。なるほど、この呼び名もしっくりくる。
 緊張を和らげるために彼女の両肩に優しく触れると、安堵と、なぜかは分からないが恍惚の表情が入り混じった顔でこちらを見上げた。
「中将、私の愛娘です。どうしても砦に行きたいと言ってきかないので、同行をお許しいただけますか。仕事の邪魔はさせませんので」
「驚いた、君にこんな可愛らしい娘さんがいたとはな。よろしくお嬢さん。私はレイブンだ」
 そう言って彼は握手を求めてきた。彼女はおずおずと手を差し出す。二人の手が触れ合うと、レイブンの笑みがいっそう深くなった。
 彼は助平と噂される男だ。何かと理由をつけてスキンシップをとろうとしているのではないだろうか。今回の握手は多めに見るが、「私の娘」に容易く触れるならば黙ってはおけない。彼には、睨みをきかす必要がある。
「ああ、同行についてだが、私は構わんよ。君の好きにしなさい」
「そうさせていただきます」
 そう言うと、彼女はぺこりと頭を下げ、礼を言った。その後に零れた笑みを見て、彼女が本当に喜んでいると分かった。
 車は五人乗りだった。後部座席に、少女、私、レイブンの順で座る。中央の席は嫌いだが、レイブンが変な気を起こし彼女が被害を被ってはならないので、致し方なく私が真ん中に割り入った。するとどうしたことだろう。発車してしばらくも経たないうちに、彼女は私の右手にそっと手を重ねてきた。変な気を起こしたのは、彼女の方だったのだ。
 ぎょっとする私をよそに、彼女は窓外の雪景色に夢中になっているふりをして顔を背けている。彼女は何を考えているのだろう。もしも事が露見したら親子の関係を疑われ、変な誤解を生んでしまうではないか。
「しかし、観光もろくにできんのはつまらんだろう? 今度私がお茶にでも連れて行ってあげようか。いいだろうキンブリー」
「中将、お構いなく。折を見て私が連れ出しますから」
 私は手を後ろの方に移動させた。すると、彼女の手も一緒についてくる。
「そんなことしなくていいよ。私、お父さんのお仕事見ていたいから」
 彼女の手がまたもや私の手の甲に重なる。控えめな笑顔をこちらに向けておきながら、アプローチは積極的とは、あなどれない。
「アヤ」
 触れないでくれ、と窘めるつもりで名前を呼んだ。しかし、彼女は「なぁに」と首を傾げている。分かってやっているのか、分かっていないのか。
「勉強熱心なお嬢さんだな。もしかして、将来はお父さんのような錬金術師になりたいのかね?」
 彼女は満面の笑みで答えた。
「はい、もし錬金術師になれるなら、私、恋の錬金術師になりたいんです」
「恋?」
「そうです。惚れ薬を作って、好きな人を私に夢中にさせるんです」
 それは怖い。彼女の心が移ろわなければ、真っ先に犠牲になるのはこの私だ。子どもの作った得体の知れぬ薬など、飲まされてはたまらない。
 私は顔を引きつらせていたが、レイブンは顎に手を当て薄気味悪い笑みを浮かべて「いいな、私も欲しいぞ」などと呟いている。ああ、嘆かわしい。この中にまともな人間が一人もいない。むしろ異端である私が一番まともだとすら思えた。
 でも、と少女は続ける。
「やっぱりそういうのは嫌だなぁ。薬の効果で好きになっているだけだって思うと、余計に悲しくなりそうです。惚れ薬なんかなくても、私を好きになって欲しい。それが自然なことだもん。そのために自分を磨かなくちゃいけないですよね」
 そして彼女は頑張らなきゃ、と胸の前で手を握り、もう片方の手で私の手を強く握るのだ。
 もし私が彼女と同年代であれば、この手のアプローチは効果的に働いただろう。この子は良い娘だと、恋人にしてみたいと、意識してしまうのかもしれない。
 けなげで、積極的。その言葉と行動はしかし、三十を過ぎた私の心には小さなさざなみを落としただけに過ぎなかった。
「お嬢さんは良い娘になる。私が言うのだから間違いないぞ」
「あ、ありがとうございます」
「君の成長が楽しみだよ――おや」
 少女を舐めるように移動していたレイブンの視線が、座席の間に止まる。ああ、不運にも気づかれてしまったようだ。
「手を繋いでいるのかね、仲の良い親子だな」
「長く家を空けていたためかファザコン気味で。もう年頃だというのに、困ったものです」
「はは、そう言っているが本当は嬉しいんだろう?」
「ええ。嫁いだら会う機会が減るでしょうから、今が最も幸せだと思っていますよ」
 返答はなるべく否定しない。一般の父親が思うであろうことを口にする。そうした、娘を持つ常人の父親という役を私は演じている。
「お父さんったら……」
 そうしてはにかむように笑う彼女も、立派に娘役を演じている。
 父親役、娘役、それに気づかない愚かな男を乗せて、車は雪深い道を走っていく。砦は、まだ見えない。

 目的地に着いたのは、夕方だった。天険の地ブリッグズの砦は、北のドラクマ国だけでなく、私たち中央の人間の侵入を拒むかのように凛々しくそびえ立っている。国境を守るに相応しい建物と言っていい。
 中でアームストロング少将の到着を待っていると、現れたのは見舞いに来た男――マイルズ少佐だった。レイブンに紹介され、私は帽子を取る。そのときの彼の無言の動揺が、彼のサングラス越しに見てとれた。
 面倒はブリッグズ支部が見てくれると、マイルズは病院でそう告げた。だから「面倒を見てくださるのでしたね?」と言ったのだが、彼は固まったまま返事をしない。私の娘も同行させる旨を伝え、彼女は頭を下げるが、彼の反応は薄い。私の傷の回復力にかなりの衝撃を受けたのだろう。
 そんなマイルズに連れられ、私たちは砦内を歩いていた。廊下でバッカニアと呼ばれる軍人と、縄で拘束されたエルリック兄弟に出会った。大きな鎧姿は遠くからでも目立つ。彼らは牢に移送中ということだった。
 鋼の錬金術師は、二つ名から大きな鎧の方だろうと思っていたのだが、予想に反して背の低い金髪の少年の方であった。私を見上げる金の瞳は、本来備わっているであろう鋭さを影に潜ませ、冷めた色をしていた。
 少女が彼らに挨拶をする。彼女が鋼の錬金術師の横に並ぶと、身長は同じくらいだと分かった。私の娘だと紹介すると、例の少年は私を見て、彼女を見た。私たちは顔の造作が似ている訳でもなく、髪の色が同じな訳でもない。怪しまれているのだろうかと思ったが、彼は何もコメントしなかった。
 その夜、私は大総統に連絡を取った。引き続きレイブンに従って行動しろとのことだった。私は、鋼の錬金術師に会ったこと、彼らは「謎の生物兵器」について何も喋らないから、スパイ容疑がかかり牢に入れられていることを話した。
 謎の生物兵器とは、スロウスと呼ばれる人造人間のことだ。七つの大罪のうち、怠惰の罪を宿した彼は、地下トンネルである目的のために穴を掘ることを任されていたが、間違って地上に出てきてしまい、砦の者に捕まってしまったらしい。
 地下トンネルの様子を調べに先遣隊が出発していたようだが、彼らは生きて戻らず、一人の男の腕だけが発見されたという。それを見たレイブンが、生物兵器はトンネルに戻し危険な穴は塞げと強要した。ここの掟は弱肉強食、力に従え、と。
 「ブリッグズの北壁」と呼ばれるアームストロング少将はどう返答するのだろうか。力に屈するのか、はたまた異議を唱えるのか。事の行方が気になるが、続きは明日だ。
 大総統との電話を終えると、柱にもたれて待っていた少女が駆け寄って来る。砦内は広いから、迷わないよう単独行動は避けてくれとマイルズに言われていたため、私と少女とマイルズの三人で行動することになっていたのだが、肝心の彼の姿が見えない。
「お待たせしましたアヤさん。マイルズ少佐は?」
「少し用事があるからここで待っててくれ、って言われました」
 迂闊に動いて後から小言を言われるのは面倒だ。ここは大人しく待つことにしよう。
 彼女は手を後ろに回し、にこにことしている。何か良いことでもあったのだろうか。
「えへへ、二人っきりですね」
 そうして屈託のない笑顔をこちらに向ける。一瞬私は、彼女と交際していたという錯覚に襲われた。が、断じてそんなことはない。彼女が誤解しやすい言葉を使うからだ。
 二人きり。誰もいない今だからこそ、言えることがある。
「そういえば、昼間の車中ではずいぶん好き勝手にやってくれましたね」
「えへ、すぐそこにキンブリーさんの手がある、と思ったらもう重ねずにはいられなくて」
「今後あのようなことはやめていただきたい。中将が鈍感だったおかげで救われたものの、あらぬ誤解を生むでしょう」
「ご、ごめんなさい。気をつけます」
 彼女はしゅんと俯いていた。二秒だけは。
「でも、こんなこと言うと怒られそうですけど、レイブンさんに見つかって私、少し嬉しかったんです。私たちはただの親子じゃないんだぞーって言えたみたいで。欲を言えば、私たちの本当の関係を知って欲しかったっていうか……」
「本当の関係? そんなことを匂わせてしまってはお終いでしょう?」
 本当の関係などと笑わせる。恋人同士でもないというのに。
「わ、分かってます! でも、でも、キンブリーさんとはただの仲じゃないって、私たちは運命の相手同士なんだって誰かに知って欲しくて――」
 夢見がちにもほどがある。彼女はもう十五、充分に現実と理想の違いはつくはずだ。それなのに、どうして運命などという、確証のない癖に特別ぶった言葉を頻繁に使うのだろう? 十年ぶりに再会しただけで、どうして私たちは運命の相手などと、簡単に決めつけられるのだろう?
 何度聞いても、いや聞けば聞くほど、彼女の言うその言葉は好きになれなかった。
「アヤさんいいですか、私たちはただの親子です。関係を偽っている以上、他人同士だということは知られてはならないのですよ」
 彼女の目をまっすぐに見つめる。視界の隅で小さな喉がごくりと動いた。
「そのルールを守れないようなら、守りたくないというのなら、すぐにここから出て行ってもらいます。いいですね」
 念を押すと、彼女は雲った表情で、いや正確に言えば傷ついたような表情で頷いた。これで言うことを聞いてくれればいいのだが。
 靴音がこっちに向かってくるのが分かった。マイルズが帰って来たのだろう。ああ、今日は部屋に戻って早めに休むことにしよう。就寝前に紅茶でも淹れても良いかもしれない。
 ふと隣を見ると、少女Kはまだ眉間に皺を寄せていた。私は見て見ぬふりをし、マイルズの到着を静かに待った。




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