手のひらの上の砂糖を食む
「傑」
「どうかしたかい?」
「私ね、ほんとにね」
「うん」


それは、何の変哲もないある日のことである。傑と付き合うことになってからははや数年、住所を同じものにしてからも既に一年半ほどが経過した今日この頃。


「別れたいなあって」


一緒に食卓を囲んでいる彼へ向かって私が告げたのはそんな言葉だった。



別れたい。つまり、私と傑の間にある関係を清算したい。
順当にいけば本日の夕ご飯、味付けの上手くいった生姜焼きなどとは決して交わることなどなさそうなその言葉が、食卓の上を泳ぐ。自分が言い出したくせに心臓がバクバクして、血の気が引いたような気がした。

傑はどんな反応を示しているんだろう。
ちらとそちらを窺ってみれば生姜焼きを口に運んでいた彼の手が一瞬止まっていた。その表情まで確認するのは少し怖くて、視線をそれ以上上げることはなく自分の手元に落とす。

いくらなんでも、やっぱり突然すぎたかな。
よく考えたらご飯中に言うことじゃなかったかもしれない。ごめんね、傑。

そんな反省を抱いて彼の反応を待っていると。


「そっか」


返ってきたのは思いのほか落ち着いた声だった。どんな顔をしているのか確認しようにも、いつもならいくらでも見つめたいと思うその目を見上げることが、できない。代わりに傑と色違いで買い揃えたお箸をぎゅっと握りしめながら自分のお皿を強く見つめた。

そのいつも通りの響きには一体どんな言葉が続けられるんだろうか。
怒られるのか、悲しませてしまうのか。何にせよこの関係が、本当に終わってしまうかもしれないことだけは確かだ。
そう考えると自分が言い出したことだというのに胸が酷く痛んだ。でも、言い出しっぺは私。それに後悔をしているわけでもないのだ。ただ、怖いだけで。だから何が返ってきても受け止めなければ。

そんな風に様々な覚悟を固めていたら「とりあえずご飯を食べてしまおう」響いたのはそんな声。……一瞬固まった空気をほぐすようなその声に、固めたはずの覚悟が空振った。
動揺なんて見せないまま優しく言った傑の意図が読めない。何を考えての言葉なのかを探るように伏せてしまっていた視線をゆっくり彼の方へ上昇させれば、目が合ったところで優しく微笑まれた。


「今日はデザートに駅前のお店のプリンも買ってきてあるんだ」
「プリ……え!私が好きなやつ?」
「そう。君が好きなやつ。話したいことがあるならそれを食べながらゆっくり聞くから」
「あ、ありがとう……」


プリンと聞いてつい一瞬喜んでしまったけど、こんなに私のことを想ってくれている人に、私は別れ話をしようとしてるんだよね。
喜んでいる場合じゃなかった。そう思い出してしゅんと肩を落とした。





ご飯を食べ終わって、簡単な片づけも終えた頃。私たちはデザートタイムのためソファに二人並んで腰かけていた。自分用の珈琲と私用の紅茶を淹れてくれたらしい傑がローテーブルの上にマグカップを置く。白い箱から見慣れた容器を取り出して渡してくれた。
駅前のお店のトロトロのカスタードプリンはいつか傑と発見した時から私の大好物の一つだ。傑がこうして任務帰りにお土産を買ってきてくれることもいつからか当たり前になっていた。
紅茶が冷めるのを待ちきれず一口食べると、大好きな味が口の中に広がる。


「ん〜、やっぱりおいしい。ありがとう傑」
「君が喜んでくれるなら安いものだよ」
「へへ」


可愛らしいスプーンを口に運びながら、他愛ない会話をした。この前見たテレビの話とか、お互いの最近の仕事の様子とか。私は呪術師は志さず、高専を支援する省庁へ入ったから仕事内容もかなり違うのだ。

あれやこれやと話している間も、右隣の温もりはあたたかかった。
慣れ親しんだそれについつい安心してしまう。なんだかいつもよりぴったりくっついている気がするその肩に、このまま甘えてしまいたいなぁ――と寄りかかりかけて、ストップ。ここで我に返った。

そうじゃなかった。どこまでも優しく流れるこの時間にすっかり忘れてしまっていたけど、私は“今日こそは”と決意したんだった。


「……それでね、傑。私、別れたいなって」


気を取り直すように背筋を伸ばして再び先ほどと同じ言葉を繰り返せば、少し雰囲気が張りつめたような気がした。
傑は残り僅かになったプリンをテーブルの上に置いて私に向き直ってくれる。


「私と別れたいの?」
「……うん」
「それは、悲しいなあ」


マグカップに口をつけながら目を伏せる傑。胸の底で罪悪感がうめき声を上げた。しかしなんとか無言を保つ。
傑はまるでそれに置い打ちをかけるかのように切なげなため息を吐いた。


「君は、私のことを嫌いになってしまったの?」


悲しい色をのせてこちらを見つめるその瞳。垂れ下がった眉を見て、「そ、そういうわけじゃ……」私はついつい否を返してしまっていた。


実際、別れたいとは言っても私は決して傑のことを嫌いになったわけではないのだ。――ただ、傑を失うことが怖いだけ。

傑は呪術師、それも特級だ。ただでさえ危険な職業だというのに、その上特級。つまりその分強い呪霊の相手をすることも命の危機にさらされることも格段に多くなる。

高専時代からずっとそうだけれど、私はその大きな背中を任務へ送り出すたび、耐えきれないような痛みを感じるのだ。だって、――もし送り出したその背が帰ってこなかったら。あの笑みがなくなってしまったら。
そんなたらればがどうしても、怖い。傑と恋人になって、一緒に過ごす時間が増えて、傑から貰う幸せが増えるたび、反動のように恐怖も大きくなった。積年のそれはもうちっぽけな私ひとりでは耐えきれないほどにまで膨らんでいる。

無論この人は強くて、特級で、そう簡単に負ける人ではない。それもわかっている。でもやっぱり私は耐えられそうにないのだ。だから、どうせなら傑の傍から離れて、視界からその何より大切なものを追い出してしまいたい。一番の幸せが終わる瞬間を、それに終わりがあることを知りたくない、突き付けられたくない。そんなことになるくらいならばすべて幻想にして、私の中で永遠にしてしまいたい――だなんて、馬鹿げた話だけど。


そんな私のエゴなんてつゆも知らないだろう傑は、私の手の中から空っぽになったプリンの容器を取り上げた。代わりに甘えるようにして右手に大きな手が絡みつく。


「じゃぁなんでそんなこと言うんだい。悲しいなぁ」
「な、なんでも。なんでもなの」


幼稚園児のような私の返答を受けて彼は私の頭に片手をのせた。安心させるように、宥めるように頭をぽんぽん撫でられて、同時に顔を覗き込まれる。


「……なんでも、かぁ。理由を教えてもらえないのはこれまた悲しいな」
「…………ごめ、」
「悲しいから、今日も一緒に寝てくれるかい?」


それで私のこと、慰めてくれる?と。私の罪悪感が極限に達したところに落とされた一言。いつもは高いところにある綺麗な顔が気づけば至近距離にいた。強請るような、甘えるような、切なげで優しい熱を孕んだ瞳に晒される。

こつん。ダメ押しにおでこがそっとくっつけられて、「#name1#、お願い」甘い甘い、囁き。気づけば首を縦に振っていた。……私だって傑を傷つけたいわけじゃない、から。だから慰めるくらいは、いくらだって。

傑は私へクスと小さな笑みを向けた。「いい子だね」首元に大きな手が差し込まれたと思ったら、優しく唇を奪われる。ちょっとだけ珈琲の匂いがした。その心地よさに瞼を閉じればまたキスが降ってくる。


結局、その日はベッドの上に行くまでずっと甘やかされていた。お風呂上がりにはドライヤーで髪の毛を乾かしてくれるし、ベッドに入った後も温かい腕が私を抱き寄せて甘く眠りに誘われる。


「すぐる……それで、別れるってはなし……」
「もう瞼が落ちそうだよ。無理しなくていいから」
「ん、むり、してな、」
「トロンとしてるよ。可愛いからずっと見ていてもいいんだけど」
「やだ、はずかしい」


彼の喉がくつくつ鳴って、小さく笑われている気配がする。かと思ったらまるで私の眠気を煽るように、額へ、瞼へ口づけが降った。その心地よさにどうしようもなく溺れてしまう。ゆっくり意識を手放す私へ、「おやすみ、#name1#」くぐもった甘い声が落とされていたような気がした。



次に私が意識を取り戻したのは朝だった。
どこからか視線を感じてうっすら瞼を開ける。ぼやけた視界の真ん中では、既に支度を済ませたらしい傑がベッドの脇で私を見つめていた。


「ん、すぐる……?」
「おはよう、よく眠れた?」


くしゃ、と前髪を崩すように撫でられる。大きな手が心地良くて頬が緩んだ。


「ふふ、おはよ……」
「今日も任務なんだ。早めに帰ってくるから待っててくれるかい?」
「ん……」


微睡みの中、肯定ともとれる呻きを零すと傑は満足げに頷いている。「約束だよ」甘い縛りを施すかのように、額へ口づけられた。くすぐったくて身をよじった私に向かって、愛おしそうな笑み。


「名残惜しいけれど、行ってくるね。また夜に」
「いってらっしゃい……?」


薄く開いた目でその後姿を見送って、欠伸をひとつ。まだ私の起床時間までは少しあるというのに、もう仕事かぁ。大変だなぁ。そんなことを考えていると少しずつ頭が覚醒してきた。覚醒ついでに昨夜の諸々も思い出して、「あっ」間抜けな声が寝室にとける。


「またやっちゃった……」


昨日、別れ話を切り出せたところまではよかった。でもその後よく考えたら返事をもらっていない。それどころか。


「何回目だろうなぁ、これ」


私はまた、傑の帰りを待つ約束をしてしまった。







「別れたい……」
「またそんなこと言ってるのか」
「だって硝子〜」


昼休み、高専医務室。見慣れた顔が思いつめたように泣きついてくる姿を見て、硝子はため息を吐いた。

硝子と#name2##name1#は高専の同級生だった。学年に二人だけの同性ということもあって仲も良く、お互い社会人になった今も#name1#が高専に用事がある時やたまの休日には度々こうして時間を共にしているのだ。
素直を極めたような彼女と会話をするのは中々心地よく、硝子はその時間をどちらかといえば気に入っていた。今日も例に漏れずそれ、であったのだが。


「本心なんだもん……」


#name1#は高専を卒業したあたりから同じく同期の夏油傑と恋人関係を続けている。硝子や後輩の七海あたりからはつくづく男の趣味が悪いと思われているが、当人同士が想い合っているのは傍から見ても確かだ。しかしその事実に反して彼女が硝子にこの相談を持ち掛けてくるのももう幾度目かの話だった。
決して実行されない“別れたい”という言葉を硝子が受け止めるのも何回目になるかわからない。最初こそ驚いた硝子だが、今となっては微塵の動揺も生まれていなかった。


「そんなに別れたいなら別れればいいだろ」


その陰鬱な響きが、当たり前のように切り捨てられる。

付き合っていたいなら付き合っていればいいし、別れたいなら別れればいい。簡単な話だ。
何を当たり前のこと、硝子は呆れたようにため息を吐く――が。

だがしかし。そう思う一方で、流石の硝子もあの夏油傑がそう簡単に彼女を手放すとは全く思えていなかった。なんなら彼女の方も別れたいとは言いつつ夏油から離れるなど無理なんじゃないかとまで思っていた。
なにしろ#name1#はいくら夏油を喪うのが怖いといえど、というか怖いと思うほど根底ではあの男に惚れてしまっているのだ。離れる苦痛も大きいだろう。
勿論あのクズに友人が生涯食われるというのも癪なので硝子からすると破局には割と賛成なのだが。

しかし、そんな推察を覆すように「別れたいって言ってはいる、何度か」#name1#が大きなため息と共に言葉を放った。硝子は珍しく少し驚いた顔をする。


「言ったのか。アイツ死ななかった?」


硝子の記憶では夏油はまさに#name1#に“ベタ惚れ”だ。それは高専時代からずっと変わらない。彼女を手に入れるためなら手段は選ばないような男が、そんな言葉を告げられて黙っていられるとは思えなかった。ショック死くらいはしていてもおかしくない。が、治療の依頼も解剖の依頼も来ていないあたり今のところは無事なのか。それともそこら辺で野垂れ死んだか。
一方彼女はなんともいえない表情で頭を抱えている。


「別れ話するはずなんだけど、気づいたらいつも通り甘やかされてて、一緒に寝て、朝起きたらなんだかんだ帰り待ってる約束して仕事行かれちゃう……」
「そんなの待たずに出てけばいいだろ」
「あんな顔で言われたらムリ、傷つけたくない」
「チョロ」
「硝子??」


思わず漏れ出た本音が拾われてしまったようだが硝子は特に意に介さない。どころか友人のあまりの単純さにため息が漏れ出ていた。
どうやらあのクズは彼女の鈍さ、というかここまでくると最早頭の軽さと言った方がいいのか。ともかくそれを良いことに力技によるはぐらかしを重ねているらしい。
硝子の口からまたため息が顔を出す。『私に別れる気はないよ』と今ここにはいない男の胡散臭い笑みが脳裏を過ったような気さえしていた。

#name1#にもアレにも、双方問題ありだな、これは。知ってたけど。

硝子はうんざりした顔を#name1#に向ける。#name1#は硝子の呆れになど全く勘づかぬまま突如自身へ飛んできた罵倒に顔をしかめていた。高専時代と比べるとその姿は大分大人びたように見えるが、中身はてんでダメなままらしい、と硝子は内心でまた呆れる。ついでに改めて見つめた彼女の姿から、いくつか気になる点を見つけていた。


「……お前たちはよく服とか選び合ってるよな」
「うん、そうだけど……?」


突然の話題転換に#name1#は少し戸惑いながらも質問に答えている。「傑のセンスが良すぎてほぼ一方的に選んでもらってるだけになっちゃってるけどね」えへへ、と付け足された苦笑は惚気以外の何物でもない。が、既にそんなものには慣れたものである硝子は特に気にせず言葉を続けた。


「ネックレスは前の誕生日プレゼントだったっけ、確か」
「そうだよ。よく覚えてるね硝子」
「ちなみにそのピアスはどこで買った?あまり見覚えないけど」
「あ、これねちょっと前に傑がプレゼントしてくれたやつ」
「香水は?最近つけてるよね」
「先月ね〜傑がお土産で買ってきてくれたの。傑の使ってるやつのレディースが出たらしくて」


照れたようにはにかむその顔を見つめて硝子は「ふうん」平坦に言い放った。一方質問攻めをされた#name1#は友人の珍しい挙動に不思議そうな顔をしている。


「硝子、突然どうしたの」
「別に。アイツの魂胆が透けて見えてキモイなって」
「え」


分かり易く顔をゆがめた硝子の意図をやはり#name1#は汲めていない。
夏油によるこの怒涛の囲い込みにも全く気付いていないことは明白だった。


「……まぁ、別れたい件に関しては諦めた方がいいだろうな。アレが素直に頷く道が見えないし、なんだかんだあの重さに付き合えるのもお前くらいだろうし」
「重さ?」
「その鈍さが功を奏したと言うべきか、仇になったと言うべきか。常人なら泣いて逃げ出しててもおかしくないよ」


硝子は全身を夏油傑・・・で染められているらしい友人の姿を見つめる。どこをとっても胡散臭いツラが見え隠れするようだ。
辛うじて染まり切っていない箇所はもう僅かだろう。それに、硝子にはそれすらも時間の問題のように思えた。「――次は指輪だろうな」無論、左手薬指の。


「え、なんて?」
「いや、なんでも」


小さく呟いた硝子の声は#name1#には拾われなかったらしい。
旧友があのクズの食い物にされるのは面白くないけど、気づいたら完全に逃げ道を塞がれているこの子の図はちょっと面白いかも。とすっかり観戦モードに移行してしまった硝子によって白々しく濁される。

きょとんとした顔をする#name1#を尻目に硝子は珈琲を口に運んだ。――あのクズならこの子がぼけっとしているうちに実家に挨拶くらい済ませていても不思議ではない。心底驚きながらもなんだかんだ流され、また丸め込まれて、それを幸せと認識してしまう彼女の姿まで見えた。


「ご愁傷様」


無論、彼女の葛藤の中身は知っている。でもどれだけ#name1#がそこを離れたがろうと、アイツが彼女を手放すことはないだろう。それこそ天地がひっくり返ったって。それが硝子の出した結論だった。
心の底からの同情が込められた一言に#name1#は「えっ何の話!?」目を丸くして疑問符を背負っている。硝子に教えてやる気は無かった。そもそも全て予想に過ぎないし、と#name1#へ視線を向ける。


「まぁ頑張りなよ」


なお、その予想が的中していたことを硝子が知るのは、これからすぐの話である。




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