その日は空気の澄んだ寒い日だった。
いよいよ冬の足音が忍び寄ってきているということもあり、目が覚めたその瞬間から「寒い」ただその感情が猛威を振るっていた。布団から這い出すのにこれほど時間を要したのは久しぶりである。けれどまぁいくら寒くともシフトが後退ってくれるわけではない。寒さと格闘しながらもなんとか出勤を果たし、その上労働まで果たし、そうして、「お疲れ様デシター」栄誉の退勤を叶えたのが、つい数秒前の話だ。
労働を終えた私が意気揚々と裏口の扉を開ければ、ヒュオウ。目の前を駆け抜けていったのは寒風である。
先ほどまで数時間の間留まっていた店内は生暖かかった。そのせいで朝あれほど痛感したこの寒さのことをついつい忘れていた。エ、この寒さの中を帰るのか、私。徒歩で? まじで? じわじわ沸いてくる絶望感から、ため息を吐き出す。吐き出した息の白さに驚いた。
けれども、いくら寒さに心が折れているといえど、帰宅を諦めるというわけにもいかない。意を決して一歩を踏み出し、その勢いが尽きぬうちに早足で歩を進める。コレはアレだ、そろそろコートをおろさなければならない。ついでに帰ったらコタツを出すことにしよう、そうしよう。そうでないと死んでしまう、私が。
冬支度の算段を練りつつ帰路を急ぐ。しかし、コンビニの敷地から出て、数メートルほどしたところで、行く手にそびえる人影に気が付いた。
「あ、」
思わず声が漏れてしまう。
多分、彼も帰宅のため歩を進めているのだろう。こちらに背を向けているからしてその顔は確認できないけれど、街灯の光を受けてきらめく銀色には嫌というほどの見覚えがあった。
「坂田さん」
反射的に発した声は彼に拾われたようで、その影がこちらを振り向く。「またお前かよ」右手のビニール袋を見る限りコンビニ帰りらしい。私がスタッフルームで帰り支度を整えているうちに来店していたのだろう。
坂田さんと私の帰路が途中まで同じであることが判明したのはもう少し前のことだ。一緒に酒を飲むというイレギュラーを引き起こしたあの日以来、たまに、本当にたまあにだけれど、こうして帰り道に鉢合わせることもあった。そうしてなんとなく、肩を並べて帰ることも。
本日も例にもれず、それである。
「それはこっちの台詞です。私の行く手を阻まないでもらえます」
「言いがかりにもほどがあんぞフリーター」
「寒いんで早く帰りたいんですよ」
ぶるり。ひと震えに耐えつつ零せば「まァそれは俺も同感」チェックのマフラーに顔を埋めながら、坂田さんも憂鬱げに呟いていた。
私がバイトを上がったのは確か二一時あたりのことだったから、今は二一時二〇分とかそのくらいだろうか。仕事帰りにしては荷物の少ない坂田さんを見上げて、その防寒具合を羨んだ。コートを着込みマフラーを重ねて完全に防御を固めている。きっと一度帰宅したのち体制を整えたのだろう。「男なら裸一貫で勝負しろ」「なんなの突然」理不尽をぶつけてみるも難なく躱されてしまった。
今日も今日とて特に理由もなく肩を並べて、歩調を揃える私と坂田さん。でも、寒さのせいか口数はいつもより少ない。一瞬、なんとなく視線を感じたような気がして坂田さんの方を見上げてみるも、その目は何か考え事をしているようで空中へ向けられていた。勘違いだったらしい。最近こういうことがよくある気がする。疲れてんのかな私。深夜アルバイトの闇を垣間見た気分である。
寒さのせいか、闇のせいか。なんとなく静けさの際立つ夜の中、ぽつぽつと灯る寒色の電灯を、辿るようにして足を進める。坂田さんのアパートと我が家を分かつ曲がり角が十数メートル先に姿を現していた。
そろそろ家だな、帰ったらまずお風呂入ろうか、いやコタツ出すのが先か、どうしよう。コタツ出す気力あるかな私。
なんということもない考え事が浮かぶのみだった私の脳内だけれど、「ちなみにさァお前」不意に投げ込まれたその声に、一旦思考が停止した。無論その主は坂田さんである。
「なんですか、突然」曲がり角まではもうあと少しだ。話題を展開させるには少々遅いタイミングに少し疑問を抱きつつ返す。彼はいつも通り何を考えているのかわからない顔をしていた。そして、そのまま一言。
「誰かの恨みかった覚えとかある?」
「どんな質問?」
話題選びがヘタクソすぎないだろうか。いくら沈黙に耐えられなくなったからと言って急にぶつけるような話題ではない。むしろ前置きをいくら踏んでも足りない種の話題ではなかろうか。「あるわけがないでしょうが!」少々キレ気味に返答をお送りすれば「ふーん」興味なさげな、坂田さんの声。
「私今喧嘩売られてます?」
「そんな金にならなさそうなもん売るわけねーだろ、ゴミ箱行きだよ」
「私売られた喧嘩は買いますよ」
コンビニ出禁も辞さない覚悟で睨みつけるも、「ハイハイわかったわかった」どうにも相手にされていないらしい。自分で喧嘩を売り捌きに来ておいてよくそんなことを言えたものである。外道とはこのことだ。
今すぐにでも坂田さんを蹴り飛ばしたい気持ちが膨れ上がる一方、私たちの足は曲がり角に差し掛かっていた。無念、この泥試合は次回に持ち越しだ。
押し入れの中でコタツが待つ我がアパートへ帰宅するため、曲がり角で足を止める。いつも通りだ。
「じゃ、私はここらへんで」この台詞もいつも通り。そしてそのまま私の足は左手へ向かっていく――はず、だったのだけれど。
「いや、」
悲報、延長戦開幕。方向を転換しようとした私へ、待ったをかけるものがあったのだ。物理的に。
私の右腕を掴んで方向転換を妨害したのは紛れもない坂田さんである。降ってわいたこの異常事態に、思わず眉を顰める。区切られた言葉に続くものを待っていれば、
「お前今日はこっち」
「…………ハイ?」
ハイ?
心の声と実際口に出た声が脳内で共鳴した。オマエ、今日ハ、コッチ。いやいや、むりむり。反芻したところで理解が進むわけがない。こっちってなに? 普通に考えたら坂田さんの方ってこと? つまりなに? 家? 家へのお誘い?
この男は一体何を言っているんだ。もしかしてアレ? 自分のこと少女漫画ヒーローか何かだと思ってる? だとしたら一度鏡を見て出直してきてもらいたいものである。いくら私がおもしれぇ女だからといってこんな唐突に家に連れ込んで良いわけがないのである。だってその死んだ目をよく見てほしい、爽やかさが圧倒的に足りないから。風早くんになれると思ったら大間違いなのである。だから、ほんとうに、
「……ナイわあ…………」
「いやなんでお前ドン引いてんの」
「この状況でドン引かない女がいたら教えてほしいですけどね」
女を家に誘うなら、もう少し工夫を凝らしてほしい。お洒落な感じで。……いや別に全然どんな言葉を持ってこられようと坂田さんからのそれに同意することなんて絶対何があっても確実にないんだけれど。天地がひっくり返っても決してそんなことはないんだけれど。
憎き銀髪天然パーマによって自分のペースが崩されたようで気に食わない。その気に食わなさをエネルギーに、今度こそ帰路につくため掴まれていた右腕を振り払った。
正確には、振り払おうとした。
「……坂田さん」
「なに」
「コレ、取れないんですけど」
ブンブン腕を振ってもビクともしない、坂田さんの左手。「掴んでるからな」当たり前だとばかりに返されるけれどこちらは暗にその手を離せと言っているのである。ナメてるのか。
坂田さんへの怒りでふつふつと体に熱が漲っていっているとはいえ、外気の冷たさが和らいだわけではない。その上私は仕事終わりだ。つまり、早急に帰りたい。寒いし疲れた。つまり、早急に坂田さんから解放されねばならない。「なんで離さないんですか」その真意を見定めるように、彼の瞳を見つめると。
「詳しいことは後で話すからとりあえずついてこい」
真意の全く滲まない一文が、耳に流れ込む。一瞬苛立ちはした。したけれど――思いのほか、その目がオフザケを孕んでいなくて驚いた。
むしろどちらかというと真剣なその眼差しに、……私は少し気圧された。気圧されるまま、腕を引かれるまま、本来曲がるはずだったその角を通り過ぎる。
端的に言えば、私は諦めた。
「坂田さん、ちなみにコレどこ向かってんですか」
「俺んち」
へえ。あっそう。ナルホドね。
もはや思考を放棄した私は、寒さも疲れも一旦投げ出して、坂田さんに腕を引かれるまま夜道を進んでいくのだった。
役立たず思考回路