「――で」
「あ?」
「こんな時間に女連れ込んで何する気ですか」
坂田さんの手によって帰宅を断念させられてから、はや数分。彼に腕を引かれるまま歩を進めていた私は現在、何の変哲もない……というには少々年季が入っているアパートの一室にいた。多分おそらく確実に、ここは坂田さんの家なのだろう。生活感は溢れているものの、その一DKは案外整頓されていて驚いた。独身男性の部屋ってもっとなんかこう、えげつないもんなんだと思っていたから。
坂田さんの一DKではDのど真ん中にコタツが立派に鎮座している。どうやらこの部屋では既にコタツがフル稼働しているらしい。越冬準備万端か? 心の中でそうツッコみながらコタツの中へ足を突っ込んだ。
「内容によっては通報も辞さないですよ」
炬燵布団を肩まで引き上げながら睨み上げれば「くつろぎてェのか喧嘩売りてェのかどっちかにしろよ」コートを脱いだ坂田さんがマフラーをゆるめながら言う。呆れを滲ませつつキッチンに消えていったかと思えば、「ほらよ」湯気を立てているお茶とともに彼が戻ってきた。二人分の湯呑を木製テーブルの上に置いて、コタツの中へ入ってくる坂田さん。ありがたく受け取って冷えた指先を温めた。
「にしてもさっみーな、まだ一一月だってのに」
「まだっていうかもうですけどね、私もコタツ出さないと」
「マジかよコタツなしで生活してんの? 死にてェのかお前」
「いや生きるためにコタツ出さないとなって話で――って、いうか」
そうじゃないんですよ。じろり、いつも通りのアホ面をひっさげた坂田さんを睨みつける。「なァに世間話に興じてんですか」こちとら世間の前にこの状況を理解できていないのである。一体どうして私は坂田さんの家にいるんだ。どうしてこたつでぬくぬくとしながら緑茶を啜っているんだ。わけがわからない。「説明責任」「人を犯罪者みてェに言うんじゃねーよ!」坂田さんは常識人顔でツッコミを放っているけれど、客観的にこの状況を見つめればそこにあるのはコンビニの常連客と帰路の途中でその客の家に連れ込まれたアルバイトAだ。つまりもう十分に匂う、犯罪臭が。
寒さが緩和された代わりに今にも舞い戻ってきそうな疲労と眠気をなんとかどこかへ押しやって坂田さんを見上げた。「あーアレだアレ」彼はガシガシ頭をかいたかと思うと。
「お前、なんかつけられてたぽかったからな。まァそんな珍しいことでもねーけど」
それはもう、なんてことのないことを言うかのように、そう言った。
つけられる。付けられる。ツケラレル。珍しいことではない。へえ、なんだ、それはつまり、ええと。
「あーなるほど、つけられ…………ハア? つけられてた?」
「気づいてなかったのかよ、コンビニのあたりからずっと尾行されてたぞ」
「…………それは、ガチのアレですか?」
「ガチガチのガチ」
「……ハイ? そんな……ハア? いや、そんなの、」
――珍しいことだろうが!
ドン。テーブルへ拳を叩きつけながら叫べば「うっさ」坂田さんは冷静に耳をふさいでいた。いやでも、ちがう。そんなことを言っている場合ではない。え。つけられてた? 尾行? 普段なら間違っても日常生活に飛び込んでくることのない単語たちに頭が真っ白になる。脳みそが理解を拒んでいるのかもしれない。それほど頭に入ってこなかった。
「尾行ってつまり、アレですか、あのアレ、アサシンてきな?」
「さァな。お前色々と恨み買ってそうだしソッチかとも思ったけど覚えねーんだろ?」
「私の心象どうなってんですか殺しますよ」
「ってなると不審者的な線もあるんじゃね、しらねーけど」
向けられた殺意を総スルーして憶測をこぼす坂田さん。不審者? 不審者といえば黒ずくめに紙マスクの中肉中背の男性像が思い浮かぶ。よく通学路の角の張り紙に描いてある奴。まさか自分に関わりが出てくるとは思わなかった。もしかしたらそっちじゃなくてアサシンなのかもしれないけれど。
いまだ少し放心状態の私とは対照的に、坂田さんは呑気だった。感心ヅラで「いやーでもありゃストーキング初心者だな、尾行ヘッタクソだったぞ。引きいいじゃんお前」何ガチャの話してる? 思わず天井を仰ぎ見た。
「引いたらもう終わりなんですよ、ババなんでそれ」
「手練れよか初心者の方が安心できるだろ」
「ストーカーいる時点で安心もクソもないんですが」
私がほしいのはストーカー(SSR)ではなくてSPだ。相対的安心ではなく絶対的安心を求めているのである。というか普通に聞き流してたけどなんでこの人ストーカーレベル判定機みたいになってるんだ。やっぱりストーキング経験者なのか。尾行の件についても私は全く気付いていなかったし。色々な意味で、やはりこの男は只者ではないらしい。
なんとも形容しがたい視線を坂田さんの方へ向けていると「そんで」ちらとその目がこちらを向く。「お前心当たりとかあんの、そのストーカー」それはまたなんとも難しい質問である。
「そもそもどんな人だったかも見てないですし、なんなら存在を認識できてないので」
「最近妙なこととかなかったワケ」
「妙な?」
その言葉にここのところの生活を思い返してみる。妙なこと。あっただろうかそんなもの。
最近の私といえば、いつも通りバイトにいそしんで寝て起きてバイトにいそしんで……アレ、涙出そう。あまりにも無味な自分の毎日を直視せざるを得ないこの状況は一体何なのか。ストーカー許すまじ、とよくわからない脈略からまだ見ぬアサシンへの恨みがつのった。いやしかし今はそれどころじゃない。涙をなんとか飲み込み、日々のルーティンの合間合間に入り込むものも思い起こしていく。けれども、坂田さんとのおしゃべりやら同僚との愚痴の言い合いやら面倒な客やら、変わったことは何一つとしてない気がした。強いて言うなら。
「ここ一週間くらい、なんか人の視線を感じる気はしてたかも、しれないですね」
先ほどの夜道においても、坂田さんから視線を感じた気がしたけれど気のせいだった。ずっと疲れてんだな私と絶望することで納得してきたけれど、坂田さんが言うストーカーとやらがもしも本当に実在するのだとしたら、それは、もしかしたら。
そこまで考えて、気を紛らわすように温くなったお茶を啜った。
「犯人に心当たりもねーのかよ、ヤベェ客とかいんだろ絶対」
「まあそれは今筆頭が隣にいるんですけど」
「誰が問題客??」
「でも、ストーカーに発展しそうってなると……」
坂田さんのツッコミはスルーだ。先ほどの報復である。それはそれとしてコンビニの問題客ズを思い浮かべた。
タバコの番号を言わないクソジジイから始まり、クレーマーババア、エロ本を山ほど買ってはこちらの反応をニヤニヤ見つめているニート野郎などなど、社会の沈殿から粒子をピックアップしていく。でもアレも違うなコレも違いそう、とまた沈殿の中へ思考を飛ばして、そして、――あっ。
思い当たったのはとある人物である。問題客の中でも割と目立った問題を抱えていて、なおかつ私に執着している節がある。そしてやることが気持ち悪い。そう、件のハゲ親父だ。最近特別変わったことがあったというわけではないから見落としていたけれど、最初から継続的にヤバイ奴であることに違いはない。「坂田さんちなみに」客観的意見を考慮するため彼の方を見上げた。
「週四でセクハラしに来てた客ならいますけど、だからってストーキングなんて始めますかね。確かにこの前坂田さんと付き合ってるのか聞かれはしましたけど」
「いやもうそれそいつじゃん。一択じゃん。答え出てんじゃん」
逆になんで今まで思いつかなかったんだよ、つーか俺巻き込まれてんの!? 坂田さんのそんな言葉は右から左へ抜けていった。フル回転で頭が動く。バイト仲間の子持ちギャル、ヤマちゃんにあのハゲには気を付けたほうがいいとかそんなようなことを言われたのは少し前の話だ。彼女によるとあのハゲは私以外のバイトにセクハラ行為を働いてはいなかった。つまり多少なりとも私に執着しているということ。
無論これは仮定の話だ。まだ坂田さんが感じた気配の主がストーカーかアサシンかもわからないし、そもそもその気配だって坂田さんの気のせいかもしれないのだから。だから、とても、ものすごく、仮定。仮定として、もしもあのハゲ親父が私のストーキングをしていたら、と考える。
私が誰かからの視線を時折感じるようになったのはここ一週間あたりの話だ。視線はふとした時、バイトの最中や買い出しの途中、帰り道なんかで感じたような気がする。もしそれがストーカーによるものだったとしたら、それは、結構、かなり、つけられていた、のではないか。ちなみに私の家は家賃最重視のボロアパートである。さらにちなむと一階で、もっとちなめばオートロックもなし。もしも家までバレてたとしたら……、そのあたりで、一旦仮定を放棄した。いやいや、むりむり。きもいって。
ゾゾゾ、と背筋を悪寒が駆け上る。もう湯気の上っていない湯呑を、じいと見つめた。つのるのは恨み言のみである。
日々重労働及び多大なストレスを課されるうえ、ストーカーって。聞いてませんよ店長。ハイリスクローリターンにもほどがあるのではあるまいか。今すぐ時給を五兆円にしてほしい。ストーカー処理作業が就業時間外に発生だなんて求人には記載されていなかった。これは違法だ。慰謝料が必要。そして同時にとてつもなく、だるい。だるすぎる。労基に相談するほかない。
衝動的に脳内では労働組合への請願書の作成が開始された。そこに自らのサインをしるしつつ、大きな大きなため息を吐き出す。
「面倒極まりないですね」
「面倒、ねェ」
「ストーカー野郎、女の趣味だけは認めますけど。コンビニ客のくせにお目が高い」
「ふーん、……ちなみにお前、」
左手、リズム刻んでるみたいだけど。
彼の視線を辿って少し動揺する。反射的に、テーブルの上に置いていた左手を床へ下ろした。
「……BPM三〇〇なんで」
「フロア大熱狂かよ」
無意識に大熱狂を引き起こしてしまっていた居たたまれなさから、視線の先を空に投げた。こんなの、坂田さんだって見ないふりをしておいてくれれば良いものを。毛根と同じく性根もひねくれている。
静かな空気の中刻まれたBPM三〇〇と、不意に訪れた沈黙。僅かな気まずさの混じるこの空気を切り裂いたのは坂田さんだった。
「ま、頼れるもんは頼っとけば」
どこまでも他人事のように響く言葉のわりに、「警察なり、常連客なり」付け足されたソレの中にはしっかり坂田さんも入ってしまっているけど、大丈夫だろうか。それに。
「……常連客ってコンナコト頼んでいいんでしたっけ」
ライン越えてません? コレ。
まだ微かに震えている私の左手。そしてまるでそれを抑えるかのように、恐怖と不安を、和らげようとするかのように、上へ覆いかぶさった大きな手。骨太で、あたたかくて、明らかに私のものとは違うそれを見つめて、言う。
「今更だろーがよ、暴言アルバイター」
そっか。今更か。まあ現在地坂田さん宅だし。私暴言アルバイターだし。たしかに。いまさらかも。
今日の私は疲れているのだ。仕事もしたし寒さにも耐えたし、ストーカー発覚事件なんかもあったし。時計を見れば今日はもう終ろうとしているし。だからちょっともう、思考は放棄させてもらう。坂田さんが何を考えているかなんてわからない。今日はわからないままでいいや。今わかるのは、その熱に、言葉に、少しだけほっとしてしまったというどうしようもない事実だけ。あとはもう、全部知らんぷり。今日の私は営業終了だ。思考回路、閉店。残業は明日以降ということで、強制シャットダウン。
飽和した情報量の理解を私は諦めた。諦めついでに、左手のあたたかさも今のところは振り払わないでおこうと思った。
急募:安心と安全