三秒間の英断

 一二月二五日、二四時八分。世間を存分に賑わせたクリスマスが、まだその尾を引いている頃。
 よれた制服を脱ぎ捨てて気の抜けた私服姿となった私は、従業員用出口の戸を押し開けたところである。流れ込んできた外気の冷たさに思わず眉根が寄った。真っ暗な夜の闇の中には粉雪が舞っているようで、寄った眉根の皺が深くなる。しかし、刻まれたそれを解くように「よォ」聞きなれた声がゆるく響いた。扉の向こうを覗いてみれば、ちらつく白にまぎれて闇の中に浮かび上がる銀色がひとつ。
 
「……待ってたんですか」
「まァ?  俺優しいし?」
「普通、サンタって自分から人の家に出向くもんだと思ってましたけど」
「手厚い少年に感謝しろ」
 
 よくその歳で少年を自称できたものである。というかサンタを迎えに来るのはトナカイでしょ、フツウ。いやその前に私はサンタじゃないんだけど。あぁなんかもうよくわからなくなってきた。鼻先の冷たい空気を吸い込んで、混乱しつつある頭を冷やす。彼の肩に散らばる雪を見るに、バイトが終わる二四時きっかりくらいにはここに来ていたのだろうか。なんだよ。ウキウキじゃん。小学生かよ。緩みかけた口角をすんでのところでひきしめた。
 
「ヒマなんですね」
 
 憎まれ口を引っ提げて坂田さんの隣に並べば、「るせーな。行くぞ」コートのポケットに両手を突っ込んだ彼が歩き出す。
 貸出のサンタ服は今頃、休憩室のハンガーに着込まれて押し入れへの帰宅を待ち侘びているだろうか。そう考える私の肩には、売れ残りの冷えたチキンやらケーキを詰め込んだ使い古しのトートバッグがずっしりと食い込んでいた。
 そんな、全てがクリスマスの終わりを告げるこの瞬間。
 
「重いんで鞄持ってください」
「サンタの袋少年に持たせるとか夢配る気あんのかお前ェ」
「サンタじゃなければ少年でもないしこの中に詰まってるのは肉とケーキです」
 
 どうやら私のその日は始まったらしいのである。
 
 
「おー、こりゃ豪勢だな」
「まぁ全部廃棄なんですけどね」
 
 場所は変わって、いつぶりかの坂田さん宅である。以前と同じく部屋の中央にドンと置かれたこたつにおさまって、どこか陽気さが滲む声を交わした。
 現在机の上にそびえるのはケーキとチキンと日本酒と乾物、あとチョコとイチゴ牛乳、及び適当な缶チューハイだ。出自を考えなければ豪勢な品々に坂田さんはすっかり上機嫌だった。
 
「イチゴ牛乳とはわかってんじゃねーか」
「たまたま廃棄だったんですよ」
 
 実を言うと、コレだけはつい自費購入してしまったんだけど。なんとなく悔しいので言わないでおいた。
 BGM代わりに点けたテレビからは、未だクリスマスSPが流れ続けている。そんなものてっきり既に賞味期限切れだと思っていたけれど、一応まだクリスマスの残り香くらいは漂っているのか。しかしそんな残り香をかき消すかのように、手渡されたガラスのコップに思い思いの酒を注いだ。アルコールの匂いが、聖なる夜をかき消していく。「乾杯します?」一応尋ねてみれば、坂田さんが悪戯っぽく笑った。
 
「メリークリスマス」
 
 時刻は一二月二六日〇時三二分である。日本酒片手に滑り込みのクリスマスって。それ、さっきかき消したはずだったんですけど。
 そんなことを考えつつ、「ハイハイ、メリクリです」カチン。コップが音を立てた。まさか坂田さんとクリスマス(仮)を過ごす世界戦が実在するなんて思っていなかった。この間までただのバイトと常連客でしかなかったはずなのに。いや、今もそうなんだけど。いや、常連客の家でクリスマス会ってなにそれ。やば。
 直視しかけた現実をうやむやにするように、風情のないコップにおさまった日本酒をくいっとやって、早速ケーキを物色する坂田さんに視線をぶつける。常連客とかこれどういう関係とか、そんなもんはお呼びではないのだ。考えても仕方ない。棚に上げよう。そうしよう。余計な思考を抜かして冷静になってしまえばなんてことないこんなもの、ただのコンビニ廃棄品のケーキを嬉々として貪る二〇代後半独身男性の図である。
 ……いや、それはそれで普通に心にクるものがある。
 
「……現代社会の闇ですね」
「突然何だよ人の気持ち盛り下げないでもらえる」
「いやあ、なんでも」
 
 じっとりとした視線を受け流しつつ、日本酒をまた流し込んだ。「ちなみに一緒に過ごすカノジョとかいないんですか、坂田さん」乾物の封を切りながら尋ねてみると、「いるいる、五人くらい」案の定寂しい答えが返ってきた。「そうなんですね。傷口に塩を塗ってすみません」「おまえ会話って知ってる?」相手の本質を見抜くのは会話の基本である。
 
「最近店に来ないから、実は恋人持ちだったのかと思って命を狙うところでした」
「会話する気ゼロかよ。昨日まで期末テストの採点でカツカツだったんだよ」
「うわ、いい気味」
 
 ていうか坂田さんてほんとに教師やってるんだ。と幾度目かの驚きに襲われる。でもまぁ確かに、部屋の隅には教材のような本が重ねられている気がしないでもないし、棚の上には赤ペンやらボールペンやらが乱雑に突っ込まれている。そして白衣が干してある。言われてみればそれなりに教師なのかもしれない。というかなんで私は常連客のプライベートゾーンここまで注視する状況にいるんだっけ。わけが分からない。っていやダメだった。棚上げですそれは。はい没収。脳内の自分を黙らせがてら手元の一杯を空にした。
 
「日本酒に溺れるクリスマス、悲しすぎて涙ちょちょぎれません?」
「そうでもねーよ」
 
 コップに二杯目を注ぐ私へ、どこか楽しげな声が投げられる。「それなりに上等だろ」見てみろ俺のクリスマス、そう口の端を上げた坂田さんの眼に映るのは、廃棄品と酒で彩られたテーブルと、実は賞味期限にまだ余裕のあるイチゴ牛乳、そうして、
 
「……いい趣味してますね」
 
 かち合ってしまった視線を逸らして言えば「そりゃどーも」意地の悪い笑みが返された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「あ〜!  ばっきゃろーそこは左だろーがよ!」
「右かもしんないですって!」
 
 時刻は二六日の午前二時半を回った頃である。深夜特有のなんとも形容しがたいテンションで取り仕切られるバラエティ番組を眺めながら、私たちは完全に出来上がった酔っ払いと化していた。『運命のクリスマスSP……後ろ姿で憧れのヒトを当てられるのか?!』放映されているのは女装した芸人とゲストの憧れの人が横並びにされ、選んだ方と次週デートをしなければならないだなんだという、どこまでもくだらない企画である。普段であればその下らなさにため息くらい吐いてもおかしくなかっただろうが、今日の私はひと味違う。通常版よりもアルコール濃度が濃いのである。結果、坂田さんとふたり、ゲラゲラと腹を抱えながら視聴していた。
 このなんとも残念なクリスマス会が始まってから、既に数時間が経っている。この短時間でどのくらいのアルコールを取り込んでしまっているのか自分でも見当がつかないが、机上に転がる空き瓶やら空き缶を見るにまぁバカな飲み方をしていると形容するのが相応しいことだけはわかった。実際、私も坂田さんも潰れかけである。その証拠に、つい数時間前まではクリスマスへの恨みつらみが満ちていたこの部屋も、箸が転がるだけで爆笑が巻き起こる地獄の空間へと変貌を遂げていた。
 
「はぁ〜〜やっぱみぎだったじゃないですか!」
「あんなもんほとんどイカサマじゃねーか!  わかるかってんだよ」
 
 CM明け、見事憧れの女優とのデートを勝ち取ったレギュラーメンバーのガッツポーズをバックに、高速でエンドロールが流れていく。深夜番組特有のチープさがこれまたやけに面白かった。するめソーメンを齧りながらゲラゲラと笑っていれば「つーかお前呂律まわってなくね」赤ら顔の坂田さんが面白いものを見つけたとでも言うかのように言葉を投げた。
 
「そりゃ、こんだけのんだらね。お互いさまでしょ」
「まーそうだけど。明日バイトねーの?」
「ないです、クリスマス、ちょうはたらいたんで」
 
 あと年末も超働くんで。そう付け足せば憐みの目で見つめられた。「そのめやめてもらえます」「かわいそーになってきたわお前」「うざ」うざすぎる。こんなもん飲まなきゃやってられねえ。坂田さんを睨みつけながら、辛うじて空になっていない一升瓶へ手を伸ばした。こいつも飲み切ってやる。もう今日は限界まで攻めてやる。今決めた。覚悟しろよマイオウン肝臓。覚悟して生き延びてくれマイオウン肝臓。そんな気持ちを込めて、力強く一升瓶を握りしめる。
 正確には、握りしめようとした。しかし、私の気概に反して、伸ばした手は――スカッ。
 
「うわっと、」
「あっぶね、」
 
 どうやら、酔いのせいで視力まで落ちているのか。距離感を誤ったらしい。酒へ伸ばした左手が空を切り、空を切ったくせに見事に一升瓶にぶつかった。それなりの勢いで倒れかけた一升瓶を坂田さんが慌てて支える。坂田さんもかなり出来上がっているというのにさすがの反射速度である。酒も少し中身が跳ねた程度で、荒れた机上は平静を取り戻した。「ありがとうございます」とりあえず大惨事を免れたことにほっと胸を撫でおろす。久しぶりにヒヤッとした。深夜に盛大に零した酒の処理とか御免の代表。もう少しで酔いが冷めるところだった。
 
「かんいっぱつ、ですね」
「おまえ手濡れちまってるけど」
「これくらい。ぶじの範囲内でしょ」
「拭くもんあったかね」
 
 坂田さんが点検でもするように私の右手をつまんだ。「へーきですって」このひと、酔うと細かいこと気になるタチなのか?  ティッシュでも探そうとしているのか、あたりを見遣る坂田さんへ、指先に数滴したたる酒を飛ばしてみる。お、命中。「てめーやりやがったな」「かわきました」力の抜けた威嚇などなんのそのだ。酔いどれ頭でけらけら笑えば、「酔っ払いがよ」とても怒っているとは思えない声色で坂田さんがため息を吐いた。諦めたようにつままれていた手が無罪放免を言い渡される。こたつの上に投げ出した右手は、ほんの少しだけ坂田さんとふれ合ったままだった。そうして、そのままひとときの沈黙が訪れる。沈黙の中で、視線は自然と右手に向いた。
 
 あの時以来だな。この手と触れ合うのは。
 骨ばったそれのあたたかさが、ふれる小指からじんわりと伝わる。どうしてか、お互い手を引こうとはしなかった。その意を探るようにゆるりと視線を上げてみれば、酒のせいか熱っぽい坂田さんの瞳に絡み取られる。
 蛇に睨まれた蛙だな。
 その眼に射抜かれながら、頭の冷静な部分がそんなことを考えていた。何かを狙われているような危機感をどこかで感じ取る。どうしよ、命の危機?  それにしては、少し心地よすぎる気もするけれど。
 
 目を逸らせないままでいれば、不意に坂田さんの指先が私の手の甲をなでた。まるで何かを乞うような、ねだるようなその動きに、頭がぼうっとする。酒のせいか、雰囲気のせいか。まどろむ視界の中で、吸い寄せられるように坂田さんとの距離が縮まっていく。
 あ、どうしようかなこれ。これでいいんだっけ、あれ。流されるってこういうことを言うのか。
 そこに意思があるのか、ないのか、あるけど見えないだけなのか。感情なのか本能なのか、理性なのか。頭を回すほどの余裕も、冷静さもない。どちらから、なんてそんなことは分からない。
 ただ、気づいたらお互いの吐息が混ざっていて、かと思えば柔らかいものが触れ合っていた。
 
 先ほどまで騒がしかったバラエティー番組はエンディングテーマを終え、放送休止までの時間繋ぎなのか、クリスマスソングメドレーなるものが流れ始めている。もう二六日だってのに。朝になったらどうせ年末がどうとか騒ぎ出すくせに。踊らされるコンビニバイトの身にもなってほしいものである。
 
 そんなクリスマスソングを背に、坂田さんがもう片方の手を床について、私は啄むように唇を奪われていた。机の上に置いたままの左手はすっかり坂田さんの手のひらの中に収まってしまっている。やわらかくて、あつい。アルコールと共に坂田さんの匂いが鼻孔をくすぐった。あまりにも非現実的な状況だけれど、しかし陽気に空いた日本酒の残骸たちがこれは現実だと知らしめていた。
 どこまでも陽気なメドレーの中、アルコールと坂田さんに溺れて、幾秒が経ったのか。段々と深く、絡めとるような口づけに右も左もわからなくなりかけたころ、不意に私は解放された。ひゅ、とようやく酸素に触れることを許された唇が音を立てる。まだ、少しでも身じろぎをすればそれが触れてしまいそうな距離の中、鼻先で互いの吐息が混ざった。出方を探るように、また視線が絡み、そして、数秒。
 私はゆっくりと息を吐いた。
 
「…………といれいきます」
 
 至近距離の男に囁くには、少々場違いすぎる言葉だろうか。まだ、流された方がよかったか。……私も、流されて、いたかったか。
 様々な感情が濁流のように渦巻く。しかし、なんとか踏みとどまった自分にどこかで安心もした。
 
「……おー、右のドア」
「どーも」
 
 おぼつかない足取りで坂田さんの支配下を抜け出し、右のドアにたどり着く。個室に入るとすっかり飛んでいた理性が少し戻ったようで、ずるずると崩れ落ちた。何したっけ、今。わかりきっているのにそんな疑問が頭に浮かぶ。無意識に唇を手で覆った。
 キスをしてしまった。坂田さんと。
 思い返すまでもない。彼の目には明らかに情欲が宿されていた。多分、私にも。のぼせ切った頭を冷やすようにため息を吐いて、冷静さをかき集める。もう、ほんとうに――危なかった。
 
 あと三秒遅かったら、消せない火がついてしまっていた。これもきっと、お互いに。


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