謹賀新年のお祝いムードやら年末年始のイベントラッシュも消え去り、ようやく日常が返ってきた今日この頃。クリスマスから年明けにかけての昼も夜もない連勤からは流石に解放された私だが、しかし今日も今日とてコンビニでバイトに勤しんでいた。
 私の本日のシフトは午前六時から昼までという普段から夜勤に慣れ親しんでいる人間からすると逆に不親切なものだ。まぁその代わり客層が良いのでギリギリ許せるかといったところ。そんな中、通勤通学ラッシュの繁忙時間帯を死ぬ気で耐えきり、上がり時間の一二時まで残すところ一時間まで漕ぎつけた私はもう無敵に等しかった。平日のこんな時間になってしまえばもうほとんど店が混むことはないのである。一二時を少し過ぎると昼休みにかこつけて来店するような迷惑客でごった返すこともあるが、今日は逃げ切りだろう。なんてラッキー。願わくばもう一二時まで誰一人来店しませんように。そう心の底から願う私をあざ笑うように自動ドアが開く音がした。
「……らっしゃいませー」
 いや、でもまぁ足音的にお客は一人らしい。この時間に一人の来店ならまぁギリギリ許してやらないでもない。入荷された商品を棚に詰めながらそんなことを考える。口に出した声は深夜仕様のやる気のなさだが及第点だろう。
 人影がチルドコーナーの辺りをうろついているのをなんとなく気配で感じながら、空になった段ボールを畳む。そろそろこの客がレジに並ぶ頃だろうか、と勘で察知し段ボールを抱えたままレジに入った。アルバイトの勘というのも伊達ではなく、ちょうどレジに並ぼうとしてたらしいその人影がレジ台の上へカゴを置いた。「ありがとうございまーす」棒読みを飛ばしながら何気なくその顔を見上げて――「え」そこで私は目を見開いた。というのも。
「坂田さんじゃないですか」
 何を隠そう、そこにそびえていたのは坂田さんだったのである。いつもならばどこかのタイミングで声を掛けられるので完全に油断していた。まさかこの人だったとは。でも平日の昼にどうしてこの人はコンビニなんかにいるんだ。とうとうクビになったのだろうか。なんとも判断の遅い教育機関である。
 内心好き勝手論評しつつ改めて彼を見上げれば、いつも通り怠そうな瞳と目が合い、……次いで、大きなマスクも目に入った。これもしや、と差し出されたカゴの中身を検めるとそこにはいつものイチゴ牛乳……ではなく、ゼリーがいくつか転がっているのみ。
「坂田さん、もしかして風邪ですか」
「悪りーかよ……、ゲホッ」
「ええ」
 バカは風邪ひかないんじゃなかったのか、とこれまた少し的外れな衝撃が体を打つ。言われてみればいつも通り怠そうな瞳というか単に風邪にやられて怠そうな瞳だったのか。確かに顔が少々赤らんでいる気もする。満足に言い返すことも叶わないらしい坂田さんは無言で代金を差し出していた。なんとなくこちらのペースまで崩れてしまう。
「あ……ハイ、どうぞ。お釣りです」
「おー、そんじゃ」
「お大事に……?」
 私の言葉に左手をひらひらと振るだけ振ってコンビニを後にする坂田さん。軽口も嫌味もなかった。イチゴ牛乳も買っていかなかった。坂田さんなのに。
 コレ、もしかしなくてもあの人、相当体調が悪いんじゃ。
 というか坂田さん、結局ゼリーしか買ってなくないか。それで大丈夫なのか?  何度か坂田さんの家にはお邪魔しているけれども、THE・男の一人暮らしというか、ありあわせで栄養が取れそうなものは何も置かれていなかった気がする、カップ麺が貯蓄されていたくらいで。ええ、それで風邪を耐え忍べるのか。
 本日のバイト終了時間、一二時に至るまで、私は悶々と坂田さんについて考えていた。いやでもアレ流石に放置はまずいんじゃない。こういうときってどうするんだっけ、保健所? いやそれはアレか、明らかに違うか。葛藤を引きずりながらタイムカードを切る。っていうかゼリーってそもそも栄養とれなくない?  なんなら坂田さん〇キロカロリー的なやつ買ってなかった?  バカかよカロリー調整のTPOを考えろって。様々な思考をよそに、気づけばカゴを手に取っていた。あれやこれやと考えているうちに、体は勝手にあれやこれやをカゴに放り込んでしまう。そうして、そのままグタグタ考えあぐねて二〇分ほど。
 
 
「こ、こーんにーちワー……」
 ピンポーン、と響き渡ったインターホン。目の前にそびえる見慣れたその扉は他でもない、坂田さんの家の扉だった。――って、どうして私はこんなとこまで押しかけてきちゃってんの!? ここへきてようやく我に返った気がするが、既にインターホンは押してしまっている。後の祭りである。
 明らかに調子の悪い坂田さんがコンビニへ来店したのはもう一時間と少し前の話である。彼が店から出ていったあと、いつもと様子の違う坂田さんのことがどうしても気になり、バイト終了後についつい色々と買い込んでしまったのだ。そして今はそれを届けに来てしまっているというわけである。
 いや、でも届けに来ただけだから。あの状態をゼリーで耐えるとか死にかねないし。なんなら玄関先にビニール袋だけ置いて帰るだけだから。それだけだから、セーフ。
 最早何に言い訳をしているのかも定かではないが、脳内でそんなものを並べながら坂田さんの返答を待った。これで返答がなければドアノブにビニール袋を提げて、書き置きでもしておけばいい。幸い食べ物が傷むような季節でもないし。なんならそちらの方が良いかもしれない。坂田さんが顔を覗かせた場合、なんて言い訳をすればいいかわからないし。
 坂田さん、出てきませんように。とてもインターホンを押した張本人とは思えないそんな願いに反して、薄いドアの向こうで足音が聞こえた。あーコレ、終わったかも。よく分からないタイミングで襲ってきた緊張に耐えていると、ガチャリ。鍵の開く音がする。
「おまえ何しに来たの」
 開口一番、発されたのはそんな声だった。ドアの向こうから顔を覗かせた坂田さんはスウェットにちゃんちゃんこという出で立ちで、心なしか先ほどよりも汗ばんでいる気がする。その寝ぐせを見るに寝ていたのだろうか。まぁそうだよな、病人だし。彼の姿を分析しつつ、大きなマスクを鼻までずり上げながら私を見下ろすその影から、私はそろりと目を逸らした。
「いや、全然なんでもないんですけど、まぁアレです、知り合いが大分体調やばそうだったんで、こう、なんか、なんとなく」
 早口で紡げば「へー」風邪のせいかいつもより力のこもっていない坂田さんの相槌。「心配してくれたんだ?  ……ゴホッ」今ばかりは挟まれるその咳に感謝である。病人の言葉に惑わされるな、と紅潮しかけた頬をなんとか鎮めた。否定できないことがなんとも悔しいのだ。
「とりあえず入ったら」
 立ち話もなんだろ、と促すように一歩退いた坂田さんと連動して、私も玄関へ足を踏み入れる。背後でドアが閉まる音がした。しかし病人に負担をかけるわけにもいかない。そもそも長居する気はないのだし。
 靴は脱がないまま玄関先へビニール袋を置いて、「お邪魔するのもアレですし、なんなら全然玄関先に物だけ置いて帰るとかでも」大丈夫です、と続けようとした、そのとき。
「ぐうぇっ」
 完全に油断していた私の上に、坂田さんが降ってきた。……そう、完全に、降って≠ォた。
 先ほどまでは辛そうではあるもののしっかり自立していたはずのその人が、何を思ったのか「あー力抜けたわ。限界」だなんだと棒読みをぬかし覆いかぶさるようにこちらに倒れてきたのである。全身でそれを受け止めた私は瀕死だ。勢いに押されてドアで後頭部を強打した。この大人何を考えているんだ。ぶちとばしてえ。そんな殺意を存分に込めながら両手で押しても坂田さんはビクともしなかった。
「おっっも……」
「運んで。ベッドまでで」
 上半身の大部分を使って二〇代後半男性を支えている関係で、彼の顔は耳の後ろあたりに位置している。直接注ぎ込まれる低音はすこぶる心臓に悪かった。「病人だからってなんでも許されるとでも」「仕方ねーじゃん不可抗力だし」ここで放り出すのか非道フリーター、ととても病人とは信じたくない煽りが聞こえる。何にしろ自力では逃げ出せない状況の完成である。こなくそ、今に見てろよダメ人間、と私はスニーカーを脱ぎ散らかした。


「――どーぞ」
 体調不良らしい坂田さんの家についつい突撃してしまい、そして狡猾に家の中へ招き入れられた現在。ここまできたら乗り掛かった舟である。なんとか坂田さんをベッドに押し込むことに成功した私は、とりあえず坂田さんの額に買ってきた冷えピタを貼った。そしてそのまま開き直った。そっちがその気ならやってやろうじゃん。よく分からない部分に灯された火が燃え上がった。「坂田さんお腹すいてますか」それだけ確認し、「病人は静かにしててください」と釘をさしたのち、キッチンを借り、お粥の作成に勤しんだのである。そうして出来上がったそれを差し出すと坂田さんは驚愕の視線でお粥と私の顔を見比べた。
「お前料理できたの」
「なめないでもらえます、全部既製品です」
「安心した」
「クソ野郎」
 やっぱりな、早すぎると思ったんだよ。そんなことをぬかしながら、のそり、ベッドで半身を起こす坂田さん。たまに咳が混ざっていたり、やはり本調子ではなさそうだ。秒数を指定しスタートボタンを押し盛り付けるという複雑な工程を経た玉子粥を手渡すと「うまそー」そんな呟きが聞こえた。企業努力に感謝あるのみである。
「坂田さん、バカなのに風邪引くなんて珍しいですね」
「家まで来て喧嘩売りさばくつもりかお前」
「素直な感想です。この前スポドリ当てた甲斐があって良かったじゃないんですか」
「バカヤロー、名前にスポーツって入ってるもんスポーツしたとき以外に飲んでやるなよ可哀想だろ」
「何時代を生きてんですか。……一応、冷蔵庫の中にプリンとかイチゴ牛乳とか入ってるので、そっちは元気になったら食べてください」
 不愛想に言い切った私を、坂田さんが興味深そうな目で見つめた。「……オイオイ、どういう心境の変化?」なんとも失礼な問いである。こちとら生まれてこの方慈愛に満ちているというのに。徳積みまくりなのに。
 と、まぁそんな冗談は置いておいて。
「坂田さんにはいろいろ借りもあるので。看病くらいはしようかと」
 多少正直を吐き出せば、そういうことである。それこそ、命の危機を救われたことだってあるし。小さなことまで数えたら中々色々と借りを作ってしまっているような気がする。いつの間にこんなことになったのやら、と苦笑が零れた。案外その苦みは薄かったけれど。
「ゼリーで治そうとするとか風邪舐めてるみたいでしたし」なんとなく空気を茶化すように付け足せば坂田さんが笑った。「確かにこっちの方が治りそうな気がする」「当たり前でしょ。企業努力を舐めないでください」心なしかその顔色もコンビニ来店時よりはマシになっているようである。良かった、と思わず安心してしまった。不本意ながら。
「今日は仕事休んだんですか、坂田さん」
「そーそー。流石にコレで授業できねーだろ」
「坂田さんが授業できそうなコンディションに見える瞬間無いですけどね」
「おまえそれどういう意味」
 全く全快とは程遠いけれども、コンビニでは聞けなかった坂田さんの軽口が聞けてまた安心してしまった。そしてそんな自分を見つけて頭を抱えた。別に常連客のひとりやふたり、風邪に倒れようとどうでもいいはずなのに。もう随分前から見えていて、しかし見ないようにしているそれを突き付けられるようで落ち着かなかった。
 そんな落ち着かなさの反面で、一応、坂田さんに負担をかけすぎないようぽつぽつと言葉を交わしながら、彼がお粥を食べるさまをぼうっと見つめる。「夜用のレンチンお粥も冷蔵庫入れてあるので食べてください」「夜はいてくれないわけ?」「……ふうん?」ぼうっとしている中に不意打ちで投げ込まれるものがあり、間抜けな声が漏れた。表情だけは一丁前に無表情を保っているが、その実動揺しきりである。いてほしいんですか? と聞いてやろうかとも思ったが、しかし返り討ちに合いそうなのでやめておいた。
「……あしたもバイトなんで」
「へー、そりゃ残念」
「お粥食べ終えたなら器もらいます」
 からかうような視線でこちらを見つめるその男。病人なので流石に頭をぶん殴るのは思いとどまった。代わりに空になった器をふんだくる。更に面白がるような視線を背後に感じるが、きっとこれもまともに取り合ったら負けだ。無視。無視に限る。
 皿を洗う数十秒の間、手元に冷水を浴びてなんとか心に平静を取り戻す努力をした。どうしてか、最近坂田さんと危うい雰囲気になることが多い気がする。これは狙ってやっているのか無意識なのか、それとも私の気のせいなのか。どれにせよ厄介なことこの上なかった。彼の真意が見えないから余計に。こんな状況では今日も長居は得策ではないだろう。時期を見て帰らなければ。絶対に。
 大分冷えた両手と、何があっても早く帰るという小学生もびっくりな覚悟を携えて坂田さんのもとへ戻れば、彼は再びベッドに大人しくおさまっていた。いつも頭上にあるその顔を見下ろすのはなんだか新鮮な気がする。ここまで大人しい坂田さんも中々珍しいから余計にだ。
「坂田さんを寝かしつけたらお暇しますね、鍵はポストに入れておくので」
「おー、悪りーな」
「素直で気持ち悪いですね」
 俺は子どもかよ、とかそういったツッコミが返ってくるかと思えば直球の御礼が返されて少々身じろいだ。坂田さんはまどろんでいるのかさして気にも留めず、「たまにゃこういうのもいいかもな」とどこか優しさの滲む瞳でこちらを見つめている。
 そう広くはない坂田さんの部屋にて、軽口も冗談も挟まず、素面でその人と向き合うのはもしかしたら初めてじゃないだろうか。窓から差し込む太陽の光が、昼下がり特有のあたたかさを伝えている。寝ぐせのついた坂田さんの銀髪もつやつやと暖色を纏っていた。ベッドに寝そべる坂田さんと、その横に座り込む私を阻むものは何もなく、交わった瞳が心地よい。心地よさのあまり、なんだか、くらくらしてくる。耐えきれず彼から目を逸らすが、あまり効果はなかった。
 一方、そんな私の気などつゆも知らないだろう坂田さんは、「風邪ひくと人肌恋しくなるよな」と。それは雑談を持ちかけるようでもあり、しかしどこかに実感を伴っているようでもあった。
 だからついつい、それに押された。
「……手ぐらいは貸しましょうか」
 いや、何言ってんだ私。完全に空気に酔ってしまった、かも。撤回するため口を開いた瞬間、坂田さんと再び目が合い、閉口した。先ほどまで優しさがのせられていたそこに、今はまた異なる色が宿っていて――あ、この熱、知っている。いつか至近距離で見たそれに思いを馳せたその瞬間、右腕をぐいと引かれた。
「さ、坂田さん」
 完全に油断していた私を坂田さんは容易くベッドに引き込んだ。シングルベッドの中、至近距離に熱を感じる。胸板かたっとか意外と肩幅あるんだなとか今は決してそんなことを言ってる場合じゃない。あっという間に抱きしめるかのように全身を包み込まれて、極めつけに目の前には坂田さんの顔。病人のくせに色香が漂うのはどうしてなのか。熱のせいか、この前よりも吐息が熱いな、と思った。
「抵抗しねェと、どうこうするけど」
「な、」
「――なーんちゃって」
 ぱっ、と。全身を包んでいた坂田さんの力が緩む。その目にのせられていた色も引っ込んだ。未だ状況理解が追い付かない私へ「伝染ったら悪いしな」と言葉が続けられる。……そういう問題?  問題は本当にそこなのか?  言葉にならないツッコミがもごもごと口をついた。
 ともかく、解放は解放である。恐る恐る坂田さんのベッドから抜け出し、先ほどまでの定位置に再び腰を下ろす。油断も隙もないとはこのことだ。病人だと思って甘やかしたからいけなかったのか。
「……そのうち訴えてやる」
「受けて立ってやらァ」
 けらけら笑うその顔をつねり上げたい気分である。この男、フリーター相手なら何しても良いと思っているんじゃなかろうか。私の右手がふさがっていることにせいぜい感謝しな、と内心で吐き捨てつつ、「ちなみに」その塞がれた右手に視線をやる。
「手、返してもらえないんですか」
「貸りたもんは中々返さない主義なんだよ」
「最悪ですね」
 普段より熱いその温度を握り返せば、坂田さんが口角を上げる。「おやすみ」上機嫌で告げられたそれを受け止めながら、今日もなんだかんだでこの男を許してしまっている自分に苦い苦い溜息を零した。


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