本日は#name一#と飯を食って酒を飲もうと約束したその日である。字面だけ受け取ればどこの海賊団だよと言いたくなるような約束だが、一方で海賊団らしからぬ思惑が渦巻いていないこともない。そいつが家を訪ねてくるだろう時間まで数分を残し、特に準備することもない俺は手持ち無沙汰にテレビを点けた。
俺が看病の礼をする、と奴に持ち掛けたのは先週の話だった。深夜のコンビニでいつも通り死んだ目をしたそいつはきょとんとした顔……、目が死んでいるせいで『きょとん』などという和やかな擬音が似合わない顔ではあるが、ともかくどこか拍子抜けしたような様子を見せていた。というのも俺が礼をするだなんだと言い出したことに不信感を抱いていたらしい。どこまでも失礼な話である。まぁ、確かにただ単に礼をしたかっただけかと問われるとそうでもねーけど。真意はなんというか、そろそろ潮時かと思ったというか。
そのフリーターと初めて面を合わせたのは去年の夏の終わりころになるのか。最初は不愛想な店員雇ってんな、といった程度の認識をする以外これといった印象も持ち合わせていなかったが、コンビニで顔を合わせるうち、なんやかんやで距離が詰まった。最近ではコンビニ以外で顔を合わせることも多くなっている。なんなら多少手も出した。
だからつまりアレだ。流石にそろそろこの関係もはっきりさせといた方がいいんじゃね、と思い至ったというわけである。大学生のガキならともかく、お互いいい大人だし。なんなら俺は教職者だし。いつまでも曖昧さを濁し続けるわけにもいかねーだろ、とその区切りも兼ねて飯に誘ったのだ。それが結局、当の本人のリクエストにより、どこに出かけるでもなくいつも通り俺の家で適当に飲み食いをすることになったのである。
いくら節々にアホが垣間見えているとはいえ、#name一#とて二〇代も半ばの女だ。何も察していないわけではないだろう。少なくともこの距離がコンビニ店員と常連客のものではなくなっていることは確かだ。ついでに言えば、先日看病に訪れたそいつが見せていた赤い顔を思い返すに、そう悪く思われていないことも確かである。そんな状況下で、その選択となると。
なにお前、その気? 全然俺は大歓迎だけど。
無論口には出さなかったが多少そういった考えも浮かんだ。いや本題は別だけど。俺の男気が黙っちゃいねーけど。とにもかくにもそんなわけで、種々の思惑が絡んだ飲み会の開催が決定されたのだった。
まだ時間が早いせいか、番組の多くはニュースやらワイドショーやらで埋め尽くされていく。視界の真ん中に飛び込んでくる時事ネタを流しつつ、用意した酒を机にのせた。確かあいつコレ好きだったよな、いや覚えてる俺キモすぎかよ、だなんだと葛藤を重ねつつ購入した面々である。流石に今日はクリスマスの日ほど量は用意しなかった。アルコールに任せない方が良いタイミングもあるのだ。経験上今日はそっち寄りだろう。
そんなこんなで万全の態勢をとりながら、今日も出勤を終えてから来るらしいフリーターを待っていると、予定の時間を一分過ぎたあたりでインターホンが鳴り響いた。相手を確認するまでもなくドアを開ければ、そこには予想通りの――いや、予想より大分異なるその女の姿が映し出された。というのも。
「え、おまえ今にも死にそうだけど」
「……デリカシーって知ってます?」
向けられるうんざりしたような顔にはいつも以上に隈が目立つ。「コンディション最悪です」その言葉の通り全身が睡眠不足を主張していた。
とりあえず寒風の吹き込む玄関から暖房が最大火力で稼働中の居間へ移動しつつ、「何があったんだよ、いつも以上に人間力消えてね?」尋ねれば不機嫌そうに眉根を寄せられた。
「今週、早朝シフトか深夜シフトかの繰り返しで。生活リズムが殺されました。裁判です」
「早まるな、マジで生活が死ぬぞ」
こたつに入るなり机に突っ伏したその女の頭を軽く叩く。「今日は午前で上がりだったので、流石に仮眠してきたんですけど」寝起きで逆にめちゃくちゃ眠いんですよね、そうあっけらかんと言い放つその姿に思わず笑いが零れた。この年の女とは思えないほどの無頓着さだ、と言えばいいのか、気を許しすぎだと言えばいいのか。何にしろこりゃ今日のところは保留か、色々と。内心で方針転換を固めつつ、自身のコップに酒を注ぐ。「お前は水にしとく?」「なめないでもらえます、ロックで」あーコイツ絶対寝落ちすんだろうな。この時点で俺は確信した。
こたつを二人で囲み始めてから、はや二時間ほど。絶対寝落ちするだろうなコイツ、という予想を見事に裏切らなかった#name一#は、序盤も序盤で飲みの席からリタイアしていた。隣で酒を煽る影がうつらうつらと船を漕ぎだしたのは乾杯をしてから一時間も経たないあたりでのことだ。「まだ一九時だぞお前、乳児か」「……るさ……」そんなやりとりの果て、そいつは愛想どころか語彙も失い、ゆっくりと意識も失っていったというわけである。
まぁだがしかし、先ほどまで仮眠していたとのことだから、どっかのタイミングで復活するだろ。そんな気楽な予想を携え、アルコールというより睡魔にやられたらしい#name一#の傍ら、一人でしっぽりと飲み続けることはや一時間以上。
「おまえこれじゃ一人飲みなんだけど」
流石の俺も我慢の限界である。
こたつの上に頬杖を突きながら、未だ寝入っているその顔を覗いた。そろそろ起きねーのコイツ。バラエティ番組を肴にするのもいい加減限界だった。自然と手がそちらに伸びてしまう。酒が入っているせいか、その頬は少し紅潮していた。邪魔そうな横髪を耳にかけてやれば、ん、と身じろぎと共に零される声。そこで少々、スイッチが入った。
眼前の無防備に誘われるように、思わず指先が伸びる。伸びた先で#name一#の唇をなぞった。「、」下唇の縁を撫でる俺に対し、声が漏らされることはなかった。代わりに、ぴく、とそのこめかみが動く。そしてまた何もなかったかのように、安らかな寝息のみが戻る。
そこで俺は少々の違和感を覚えた。
腰を浮かしてそいつとの距離を少し詰め、様子を窺う。指の背で耳を撫でても、軽く頬を摘まんでみても、相変わらず微動だにしない。ただ寝息が返ってくるのみ。……へえ、なるほど。
やっぱりこいつ、起きてんな。
勘でその狸寝入りを察知し、思わず口角が上がった。本当に寝ているにしては寝息が一定過ぎるし、反応も薄すぎる。バレバレなんだよフリーター、そう内心で零しながら、表面上は無言を貫いた。
お前、起きねェってこたァそういう解釈すっけど。いいんだな。無言のうちに、再びその唇に親指を軽く沈める。一瞬、#name一#の呼吸が乱れた。そこで自身のどこかに火が点くのを感じる。……つーかコレほんとにガチ寝だったらどうしよ。でもまぁこの前何回かしちまってるし、アウトではねーだろ。九割方狸だし。そもそも単身男の家に乗り込んできて寝やがった方が悪い。
一瞬過った懸念にも見当たる限りの正当化の理由をかき集めて、大義の下距離を詰める。――しかし。もう一息でその唇に触れるか、というその時。ぱちり、目の前の瞼が開かれた。
そしてそのまま、無言で見つめ合うこと数秒。
「坂田さん」
「なに?」
やっぱお前起きてんじゃん。絞り出された俺の名に、内心したり顔で返事をする。酔いにも睡魔にも特に襲われていないらしいその瞳には、案外大きな動揺も見られなかった。むしろ、どこかに納得感を滲ませているような気さえする。「ずっと気になってたんですけど」この距離の中、落とされる声はどこまでもいつも通りだった。手持ち無沙汰を誤魔化すようにそいつの髪を一筋弄びつつ、続く言葉を待っていると。
「――前、私にキスしたとき、」
「……お前覚えてたの」
「まあ。……あのとき、やっぱり酔ってなかったんですね」
この状況を見る限り、と。呆れたような響きだ。
てっきり忘れ去られたと思っていた以前のあれこれに言及されて、正直一瞬は動揺した。が、しかし。お前、それ記憶した上でこんなとこ来てるって、どういう意味だかわかってんの。瞬時に思考は切り替わる。そもそもあのときの記憶の有無などさして重要ではないのだ。重要なのは終着点のみ。現在俺が王手をかけている、それ。
「だったらどーした」
今度は特にアルコールに押されるわけでもなくその距離を詰めれば、抵抗らしい抵抗はされなかった。口づけに呼応して、縋るようにその細指がニットの裾を掴む。うすく瞼を開けば、ちょうど同じくこちらを観察していたらしい瞳と交わった。なんだよお前、余裕あんじゃん。なら手加減もナシっつーことで。
重なりは段々と深くなっていき、重心も下がっていく。いつもは不愛想な面を晒すその女が、濡れた瞳に俺のみを映す姿はいい気味で、柄にもなく愛おしかった。
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