突然だけれど、私にはここ最近好きで好きでたまらない言葉がある。それはもう甘美な響きを纏っていて、口にした瞬間この身に幸せがほとばしる一言。きっと世界中のどこを探してもこんなに素敵な言葉は見つからないだろう。そして現在、私は今日も今日とてそれを発しようとしていた。秒針がかちりと動いて、やってきた二二時。あっどうしようドキドキしてきた。言うよ、言っちゃうよ私。それでは聞いて欲しい。
「お疲れ様でしたー」
うッス、と少し被ってシフトに入っていた男子高校生が愛想なく会釈する。そう、これだ、『お疲れ様でした』。仕事からの開放を意味するその一言。救世主である。メシアである。今なら海を割れそうな気がする。
本日の私のシフトは一〇時から二二時だった。珍しく深夜シフトではなかったにせよ、疲れるものは疲れるわけで。一二時間分の疲労を肩から下ろすように息を吐き、スタッフルームの扉を開いた。申し訳程度に置いてある椅子に腰掛けてみれば脱力感が身を襲う。うわ最早帰りたくない、帰りたいけど。帰る気力すらわいてこない。
安っぽい椅子に全体重を任せながら、緩慢な動作でスマートフォンを手に取る。これといった目的もなくメールをチェックして、インターネットを彷徨って。そうこうしているうちに十分ほどが過ぎてしまった。液晶画面が知らせる現在時刻は、二二時一八分。流石にそろそろ帰らなければ明日の私が後悔するだろう時間である。枯渇している気力をなんとか振り絞って重い重い腰を上げた。
「はぁー……」
立ち上がると同時、休憩室に響き渡った私の声。反響するそれには疲労しか滲んでいなくて驚いた。つまり、やっぱり労働なんて正常な人間のするもんじゃないということだろう。知ってた。常識である。
半日分の憂鬱が染み付いた制服をハンガーに引っ掛けて、気の抜けきった私服を身にまとう。世間には制服を脱ぎ捨てた瞬間ふっと心が軽くなるという人もいるらしいけれど、私の場合相変わらず心身ともに重いままだった。着る服ごときでこの疲れが解消されるほど甘っちょろくはなれないのである。なんなら制服着る前から重かった気もする。
最近めっきり冷え込んだ夜の空気へ備えるように上着を着込んで、一本に結んでいた髪をといて、帰宅準備はばっちりだ。心の帰宅準備の方はかれこれ一二時間ほど前から整っていることだし不備はない。さあいざ帰らんと裏口を開いた。店内の明るさとは対照的に、いっそ清々しいほどの暗闇へ足を踏み入れる。……といっても、暗いのはほんの少しの間だけなのだけれど。数歩歩けばやはり店内の灯りが足元を照らすのだ。
深夜へ片足を踏み入れたレジ台の中、未だバイトに従事している男子高校生へ同情しつつコンビニの前を横切ろうとした――そのとき。
「あ」
うぃーん。自動ドアの合間をぬって、ちょうど店から出てきた客がひとり。無感動に落とされた声をたどるようにその姿を見上げてみると。
「……げっ」
なんだろう、ここまでくるともう嫌がらせか何かなのだろうか。この人なんでどこにでもいるんだろう。いやどこにでもっていうかコンビニなんだけど。なんでこの人いつもコンビニにいるんだろう。もしかしてアレ? コンビニ大好きマン?
きっとげっそりしているだろう顔で私が硬直していれば、「『げ』ってなんだよ『げ』って」彼が不服そうにこちらを見下ろした。だからつまり、お察しの通り。
「アナタもしや私のストーカーですか」
「何がどうなったらそうなるんだよ!」
蛍光灯の無機質な眩さを背負って立つその男は、お馴染み天パの坂田さんであったのだった。コートの下から薄い桃色のシャツと紺のネクタイが覗いているあたり仕事帰りなのだろうか。やはり教師にしては少々派手な出で立ちである。
「何がどうなってっていうか最近二日に一回以上のペースで見かけてる気がしたんでつい」
「こっちがコンビニ行く度働いてやがんのはテメーだろーが!」
「こちとら働きたくて働いてるわけじゃねえんですけどね」
「つーかそもそもストーカーってのはもっと実害生むもんだろ」
勝手に弁当作ってきたり気付くとつけられてたり、と坂田さん。なんともリアリティがある気がするのは気のせいだろうか。まさかストーキング経験があるとか? 正直あっても不思議ではない。なんなら逮捕歴くらいあるんじゃないだろうか。とりあえず深く聞かないでおこうと心に決めた。
「……ちなみに今日も甘味ですか」
話をそらすように、話題の矛先を彼のビニール袋へと向ける。彼はにやりと笑って袋をつりあげた。
「よくわかったな。むしろお前がストーカーなんじゃね」
「名誉毀損で訴えます」
「どういう意味だよ!」
と、まぁそんな具合になんだかんだいつも通りなやりとりを繰り広げてしまっていると、不意に冷たい風が身を襲った。そこでいつの間にか身体が寒さを蓄えてしまっていたことに気づく。
「……冷えましたね」
「いつの間にかな」
いくら客の少ない時間帯といえども、いつまでも店の入り口を塞いでいるわけにもいかないし、多分ここら辺が帰りどきだろう。「じゃぁそろそろ」軽く会釈をすれば「おう」坂田さんも右手を上げて応えてくれていた。そんな彼を視界から追い出すように、回れ右。帰路へ左足を乗せる。
……乗せたは、いいのだけれど。
「……」
「……」
「……あの」
数メートルほど遠ざかったコンビニの灯りとゆっくり響く足音、……がふたつ。どうしてか横並びのままついてきている坂田さんを、訝しむように見上げた。
「本気でストーキングですか」
「なワケねーだろ! 俺ァただ家に帰ろうとしてるだけだ」
「……私もなんですけど」
と、そこで私は恐ろしいことに気づいてしまった。お互い自身の家に帰ろうとしているだけなのに足並みは並んだまま――それはつまり、……家の方向が、同じ?
「……悪夢ですかねこれ」
「誰と帰るのが悪夢だコノヤロー」
坂田さんと帰るのが、である。家が同じ方向にあるということは生活圏が近いということ、つまり、コンビニ以外での遭遇リスクも高いということだ。冗談きついって。何が嬉しくてこんな間の抜けた顔を無給で見なければいけないのか。こんな偶然があって良いのか。
絶望感増し増しで頭を抱える私に反して、坂田さんはいつも通り何も考えていないような顔でまた足を進め始めていた。つくづくマイペースな男である。
まぁでもこれ以上打ちひしがれていても仕方がない。ため息とともに諦めて、私も彼に続いた。沈黙の中、どういう状況だよコレ、と内心でぼやいてみる。冷たい空気と月明かりの下に、坂田さんとふたり。世にも奇妙な帰宅の路である。
いつもならひとりで切り裂いているはずの冷え切った夜の空気。その中に、今日はふたり分の足音が響く。どういう状況だろコレ、と頭はクエスチョンマークだらけだ。
外灯の薄明かりにのびる影を目で追いながらただ足音だけを響かせていると。
「そういえばお前仕事帰り?」
思い出したように尋ねてきたのは坂田さんである。彼の横目がちらり、こちらを向いた。
「そうですよ」
「通りで疲れた顔してんな」
「満身創痍の疲労困憊なんで」
「まあよく考えたらお前いつも疲れた顔してっけどな」
「うるせえだまれ」
右隣を睨み上げるも鼻で笑われただけだった。今すぐその顔に鏡を突きつけてやりたい。目の死んでいる分際でよくそんなことが言えたものだ。
「坂田さんは目が死んでるくせに毎日が楽しそうですよね、何も考えてなさそうで」
「仕事中じゃなくなった途端露骨に喧嘩売りさばいてんじゃねーよ」
「褒めてるんですよ、頭軽そうで羨ましいなって」
「俺は頭より尻が軽い方が好みだな」
「そんなもんは聞いてねえ」
何が嬉しくて坂田さんの好みを聞かなければならないのだ。というかその毛髪と同様好みの方もねじ曲がっているらしい。誰かお願いだからこの人の性根にストレートアイロンをあててあげてほしいものである。キューティクルなんぞ焼き切って構わないから。いやほんと切実に。
「……坂田さん、人を疲れさせることにかけては天才的ですよね」
なんだか疲れが先程の三割増になってしまった気さえした。あてつけのように大きなため息をついてみるも「そりゃどーも」やはりくらりと躱される。
「まあ疲れなんざ家でせいぜい癒やしとけよ」
「癒やすも何も寝て起きて食べて仕事してですからね、日々に救いがないんですよこちとら」
今日だって帰っても特に美味しくもないカップ麺を食べて特に興味もないバラエティをぼうっと見つめて寝るくらいしか予定はないのだ。そろそろ泣くぞと声を大にして叫びたいレベルに達しつつある。誰か私を癒せよという気持ちである。というかそもそも疲れを発生させた張本人が何を言っているのだという話だ。
「いやなんか聞いてて悲しくなってくんだけど。ふつう趣味とかあるもんじゃねーの?」
没頭できる趣味の一つでも持てていたならばきっと私の心も今よりは多少穏やかでいられたことだろう。「人並みに好きなものはありますけど、趣味ってなると何も」特にこれといった感情ものせずに言えば、坂田さんからの憐れみの視線が向いた。いやどうしてだ。憐れまれる筋合いないんだけど。屈辱の極みである。
「私も甘いもの食べて嫌なこと忘れられるくらい頭が単純だったらなとは思いますよ」
「ナチュラルにディスるな」
甘ェもんは世界を救うんだよとかなんとか言っている坂田さん。その論理は到底理解できそうにないけれど、まあ好きなものがあるというのはそう悪いことでもないんだろう。多分。きっと。
「疲れたフリーターの八つ当たりなので気にしないでください」自らの吐く息がいつの間にか白く染まっていたことに少しだけ驚きながら言うと、「へえ」興味なさ気な声を返された。そしてふと何かを思いついたように、彼が続ける。
「お前明日も仕事?」
「いや、明日は休みです」
「へえ」
聞いてきたくせにまた死ぬほど興味がなさそうな返事だ。なんとなく坂田さんの方を見上げてみるも、やはりというか目が合うことはない。両手を上着のポケットに突っ込んで、死んだ目であさっての方向を見つめたままの彼。その息もまた、白かった。
中身のない会話にも一段落がつき、沈黙を保ったまま足を進めて、さらに少し。眼前には曲がり角が見え始めていた。ここを右に曲がれば、我が家までは一本道である。『じゃ、私はこっちなんで』さよーなら、と。隣に並ぶ坂田さんにそう発しようとした、そのとき。
「さか、」
「――さっみーな」
「はい?」
坂田さんへサラバを告げる筈だった私の声は、たった二音で遮られることとなってしまった。「寒みィな、クソ寒い」ぼやくように続ける坂田さんを訝しんで見上げれば、「さっみーから、アレだな」
「――一杯引っかけてくか」
「……はい?」
降って湧いた予想外に、一瞬反応が遅れた。
「俺も明日休みなんだよ。こんだけ寒みィんだから熱燗の一杯でも十杯でも飲まねーとやってらんねェっての」
「……はあ?」
思わぬ方向に舵を切られた話題の矛先に私の目は点である。酒? 酒を飲む? いやまあ嫌いじゃないけど、でもそういう問題とはまた別の問題がある気がしなくもない。そもそもが唐突すぎる。
アレ、こういう場合ってどう返すのが正解だっけ。私と坂田さんって飲みに行くような仲だった? そもそもこの人何考えてんの。そんな思いで、脳内に溢れかえるクエスチョンマークの中から必死でなにかを見繕おうと足掻くけれど、まともな文章が成り立つ気配は一向に見えず。
「なにをたくらんでるんですか」
結局飛び出たのはそんな、日常生活ではまず発することのないような言葉だった。自身のポンコツ加減に絶望しそうである。
しかし、一方の坂田さんは微塵の動揺も何も見せず、表情も声色も先程から何も変えぬまま、
「別になにも」
「……へえ」
どうしよう、本当に何も考えていなさそうだ。いやこの人はそんな感じの人だと前々から分かっちゃいたけれど。ひとり混乱させられているというこの状況への気に食わなさからため息をついて、一度冷静さを呼び戻す。「酒、ですか」酒を飲むのは好きだ、ふつうに。そういえば考えてみるとしばらく飲んでいない気もした。飲み友達なんていないし、一人で飲むのも虚しいし。そう考えるとこれはもしかしたら酒を飲む良い機会ではあるのかもしれない。相手がこの人なのは、大変不本意であるけども。
私の心が微妙に傾きかけたそのとき、まるでもうひと押しをするかのように、冷たい風がヒュウと抜けた。
――あ、寒いな。寒い。ちょうさむい。無理だ、コレはアレだ、確かに熱燗なしでは耐えられない。小さなお猪口をくいっとせねば、迫りくる冬にやられてしまう。
つまるところ、不可抗力。
「……坂田さん」
「あ?」
「――寒いから、引っかけましょ」
私の言葉を受けて、彼はにいと笑った。「そうときたら近くにツケの利く店があんだよ」ツケ前提でいるあたり、やっぱりこの人は相当なダメ男らしい。……まあ当たり前か、深夜のコンビニ客の一人だし。なにより坂田さんだし。そんなことを考えながら、いつもは曲がる角の前を、軽い足取りで通り過ぎたのだった。
常時準備万端