十月、飛んで火に入るなんとやら
もう、ダメかも。
帰宅早々廊下にスーツのまま突っ伏して冷えた床の感触を頬で感じ取った時、私は疲労の限界に達していることを悟った。悟ったとて、もう動けない。指先一つ言うことを聞かない。
「おかえりー……っておい! どうした!?」
私の帰宅に気がついた秋紀くんがリビングから顔を出して、そしてこの惨状を見て慌てて駆け寄ってくるのを耳だけで聞いていた。
「立てるか? 大丈夫か?」
「多分立てる……」
「いや立ててないだろ」
ゆっくりと上体を起こして、スーツのジャケットを脱がせてもらう。もう時刻は日付が変わりそうな頃合いだと言うのに、秋紀くんはどうやら起きて私を待っていてくれたようだった。ルームウェアを手渡されるままに袖を通す。
「経企、そんな忙しいのか今」
「来年度の予算策定と年度計画関係でちょっと……」
営業職の秋紀くんの繁忙期は新薬発表後だが、事務職の私の繁忙期は決算期とこの予算取りの時期である。おかげで毎日のように終電ギリギリの退勤になってしまう。
「あー……もうそんな時期か」
俺より帰り遅いってよっぽどだよな。
秋紀くんは顎に指を当てて考え込むと、何か思いついたように拳を手で打った。
「次の休みにさ、ちょっと外出てみないか」
▽
秋紀くんの運転する車に揺られて、やってきたのは郊外の山間にあるカフェだった。
彼は営業で外回りが多いからか運転が上手い。そのせいかいつのまにか私は助手席で微睡んでしまい、気がつくとすでに目的地に到着していたようだった。
「ごめん、寝てた……」
「気にすんな」
店の中に入ると、焚き火台の置かれた周りにキャンプ用の折り畳み椅子が置かれた、テラスのような空間が広がっていた。外は崖のようになっていて、眼下には沢のような小川が流れている。
「……焚き火?」
「リラックス効果とかストレス軽減とかあるらしいんだよな、焚き火って」
でもやったことねえし道具もねえからどうしようかと思ったらここ見つけてさ。カチカチと着火剤に着火ライターで火をつけながら秋紀くんはそう言った。
「キャンプファイヤーとか、高校の時に校外学習でやって以来かも」
「最近東京じゃ、火が使えないキャンプ場とかバーベキュー場ばっかりだし、花火とかもできないからな」
二人で焚き火台を覗き込んでいると、着火剤に移った火はじわじわとその上に積まれた薪へ広がっているのが分かった。肌寒い空気の中で、ほんのりとした熱気が頬を掠める。
「今日はこれもやろうと思ってさ」
秋紀くんが携えていたビニール袋から取り出したのは、大きなマシュマロの袋だった。
「……焼きマシュマロ!」
「焚き火の醍醐味って言ったらこれだろ! ココアも持ってきたし後で飲もうぜ」
テーブルに並べて、秋紀くんは得意げに笑う。今日ここに連れてきてくれたのも、彼なりの気遣いなのだろう。
「秋紀くんって、ホントいい人だよね」
焚き火に手を翳しながら私がそう言うと、秋紀くんは椅子の上で飛び退いた。
「なんだよいきなり! 死亡フラグみたいで怖いからやめろ!」
「でもさ、なんかここまでしてくれるの、嬉しいなって思ってさ」
「こういう時はお互い持ちつ持たれつだろ? どっちかが困ってたらどっちかが助けねえと二人とも転んじまうし……」
ゆらゆらと揺れる炎を無心で見つめていると、確かに言われた通り心が落ち着くような気がする。マシュマロを溶かしたほろ苦いココアも、体を芯から温めてくれているような。そんな心地がした。
「……少しは元気出たか?」
「うん。ありがとね」
「お前が元気ないとこっちも調子狂うからな」
安心した表情を浮かべる秋紀くんとは裏腹に、私の憂慮は中々晴れそうになかった。
……あの話、いつしよう。
『お前、来年地方支社に異動の話来てるけどどうする?』
上司からの言葉が脳裏をよぎる。
先日私の元に舞い込んできた、異動の話。新しく北陸に事業所を新設するにあたり、本社からも人を派遣しようという話が持ち上がったのだという。それに抜擢されたのが私というわけだ。私じゃ力不足ですよ、と言ってみたものの、お前ならなんとかなるしステップアップにもなると取り合ってくれず。
栄転なのかもしれないが、少なくとも同じ家に住むことは叶わなくなるだろう。当然物理的にも精神的にも秋紀くんとは距離ができる。
いつかは話さなくてはならないことは頭では分かっているのに、言い出せない。この生活が終わってしまうのが、何よりも怖かった。
秋紀くんのことが好きだから、あと一歩が、踏み出せずにいる。