三月、晴れ間を待ちわびて
雨の匂いって、何の匂いなんだろう。湿っぽくて、なんとも言えない不思議な匂いがする。でもそれが雨の匂いだということは、嗅げばはっきり分かるのだ。
「あー!雨降ってるよ!」
「予報通りか。こりゃ今日は中止だな」
その雨の匂いがしたレースカーテンの向こうは、確かに春時雨の最中にあった。降水確率は八〇パーセント。三月唯一の祝日がこんな天気では少し気落ちしてしまう。不忍池を一周して上野動物園で人間よりヒエラルキーの高いパンダを見に行こうよ、と私が立案して秋紀くんに初めは理解を拒まれたプランは、雨天延期となってしまった。
「今日は何する?」
せっかくの休みだし、と隣で外の様子を伺っていた秋紀くんの方を振り向くと、少し考える素振りを見せたのち
「んー、たまには映画でも見るか?」
と言ったので、急遽今日の予定は映画鑑賞会となった。
「今はサブスクとかで色々見れるから便利だよなー」
ソファに座り、ローテーブルには即席で用意したお菓子やおつまみが並ぶ。サブスクリプションには無数の映画が配信されていて、逆に選択肢が多すぎる気がするけれど、ウィンドウショッピングみたいで楽しかったりもする。あれ見たことあるとか、あの映画気になってるとか、色々話題には事欠かない。
「これにしない?」
私が指差したのは、最近話題の洋風ホラー映画だった。ジャケット画像には血走った目の洋風人形が刃物を持って立っている姿が映っている。
「……それ、ホラーだろ」
「秋紀くんホラーダメだっけ?」
「いやもう、全然平気……! 超余裕……!」
「目、めちゃくちゃ泳いでるよ」
他のにしようかとリモコンを手に取ったが、お前が見たいならそれでいいと秋紀くんが強がるので、二人でそれを見ることにした。
人形に取り憑いた悪霊が、人形を買ったカップルに災いを呼び起こす——といったベタなストーリーの中に、恋愛要素が少し入っているようだった。人形に追い詰められている最中にも関わらず、唐突にカップルのベッドシーンが画面いっぱいに映し出された。これまでジャンプスケアに慄いたり、展開についてあれこれ口出しをしていた私たちは、一様にして口を噤んだ。嫌な沈黙が流れる。
「……洋画あるあるかもしれねえけどさ、時々ちょっとこういうシーンを予告なしに入れるの、どうかと思うんだよな」
「あー、親とかと見に行ってすごい気まずくなるやつ、あるよね」
「俺知らないで実家のリビングで兄貴と妹と見てた時にそういうのあって、気まずすぎて画面直視できないから天井の隅見てたもんな」
「でも何でこんな展開になるのかな。危機感を感じてドキドキするといい感じの雰囲気だと勘違いしちゃうってこと?」
「吊り橋効果ってことか?」
「そうかも」
話しているうちに場面は切り替わり、今度は人形がカップルに襲いかかるシーンになる。ドアップでいきなり映る鬼気迫る表情に、二人して喃語に近い小さな悲鳴が上がった。手と手が、ソファの上で触れる。秋紀くんの手のひらは、手汗なのかほんのりと湿っていた。
「今、ドキドキしてる?」
「……多分?」
「——ちゅー、してみる?」
揶揄ったつもりだった。はあ、今かよ?とか、今それどころじゃねえって、そういう答えが来ると思っていた。
私の予想に反して横から腕が伸びてきて、彼の両手が私の両頬を捉えたかと思えば、すでに唇が重ねられていた。自重で二人分の体重を支えられず、ソファに倒れ込む。
「悪い、吊り橋効果……ちょっとあるかもしれねえ」
手首を掴まれて導かれた薄いTシャツの上から、胸が早鐘を打っている感触が伝わった。
「これ絶対吊り橋効果じゃないよ〜」
照れ隠しの言い訳も通じそうになく、彼はじっと上目遣いで私を見つめて、こう尋ねるのだ。
「続き、してもいい?」
「……秋紀くんが選んでいいよ」
私の答えにじゃあ、と言って、秋紀くんは再び噛み付くようなキスをした。
驟雨は、まだ止みそうになかった。