七月、器用貧乏の嘆き


夏は、いつもより太陽が近い気がする。
家を出て三秒でやや挫折しかけた心を、何とか持ち直して電車に乗る。じりじりと車内も関係なく頸を焼いてくる直射日光。準急列車に揺られて二十分。黒と白のユニフォームを着たそれぞれのサポーターたちが同じ駅で列を成して降りていった。自分たちもそれに続く。

今日は年に数回しかない推し選手を間近に見れるチャンスなのだから地を這ってでも行くしかない、と隣を歩く彼女は息巻いてそう語る。三年間俺は無料で見てたけどな、と言えば心底羨ましいと言わんばかりの目を向けられて、俺は彼女のお目当てこと木兎光太郎に対して何度目かも分からない嫉妬心が沸いていくのを感じた。おのれ木兎。

「アリーナだよ!アリーナ!」
「見りゃ分かるよ。アリーナだよ」

今日はブラックジャッカルとアドラーズのリーグ戦の日だった。ブラックジャッカルは本拠地が大阪だから、東京ではアウェイ試合でしか観ることはできないのだが、なかなか関西まで足を運ぶというのも難しい。
そんな中でコートの真横というベストポジションを押さえられたのは僥倖だった。席に着くとスマートフォンを立ち上げてとある相手へメッセージを送る。すぐに既読マークがついて『まもなく着きます』と何の飾り気もない返信が返ってくる。

「今日は木兎の関係者を連れてきたぞ」

試合前なのにすでにテンションの高い彼女にそう声をかけると、目を丸くさせてきょろきょろと辺りを見回した。
「関係者!?誰?」
「――お疲れ様です」

その時、背後から聞き馴染みのある声がした。声の主は手におにぎりの詰められたパックを片手にアリーナの階段を降りてくると、俺の隣に座る。

「お疲れー。よく来れたな」
「原稿が立て込んでるのでこれを見終わったら編集部にそのまま戻りますが。今日は木葉さんに呼ばれたので」
「お前はいつもできた後輩だな」

声の主――赤葦京治は、眼鏡にラフなポロシャツをまとって現れた。よほど忙しいらしく、飲み会には誘ってもほとんど来られないし、来ても一次会は大体終わっているような時間にようやくやってくる有様だ。今日も仕事だろうとダメもとで誘ってみたところ、意外にもあっさり二つ返事が返ってきた。

「あ、秋紀くん……どなた?」

反対隣に座っていた彼女は俺の脇腹を突くと小声で尋ねてきた。そういえばこいつは知らないのか。俺はすでにおにぎりを頬張り始めた生真面目な後輩を紹介してやることにした。

「木兎光太郎の高校時代を知る生き証人の一人、元相棒の赤葦だ」
「木兎さん死んでませんけどね。初めまして、木葉さんの高校の後輩だった赤葦京治です」
「こいつ、俺の彼女。木兎のファンなんだよ」
「あ、相棒……!? よろしくお願いします……」

赤葦は食べる手を止めて軽く会釈をすると、俺に怪訝そうな目を向けてきた。言いたいことは聞かずとも視線で分かる。“彼女?この間の飲み会でもう結婚するとか言ってませんでしたか?”、多分要約するとこんな感じだろう。梟谷バレー部の同窓会のような体で今年の初めに行われた飲み会では酔った勢いで『今年中に結婚しまぁす!』と高らかに宣言してしまったのが事の発端だが、未だどこかタイミングを逃したままでいる。彼女を前にして気を遣って聞いてこない赤葦は本当によくできた後輩だ。後で説明する、と目力だけで訴えれば、察したようですっと視線は逸らされた。

「赤葦さ、覚えてるか? 南高にさー、タッパ結構あるお前とタメのスパイカーの奴いたろ?」
「ああ、はい。いましたね」
「そいつの姉ちゃん」
「え、そうなんですか」
「世界って狭いよなー。俺も初めて知ってビビったもん」
「弟さん、主将やられてましたよね? 三年生の時練習試合で挨拶したので覚えてます。言われてみれば苗字、一緒ですね」
「あ、そうです! その節は弟がお世話になりました……」

俺を挟んで二人が律儀にぺこりと頭を下げた。
それからはお互いの共通点――主に木兎のこと――をあれこれ話しているうちに選手入場が始まった。途端に場内の熱気が数段上がる。

「あ!木兎選手出てきた!」

彼女が指を差した先には、かつてのチームメイトが歓声を浴びながらコートの中へ飛び出していったところだった。
……やはりそこは、俺ではない。
まるでスポットライトのような照明を一身に浴びて、縦横無尽に走り回る。その姿は俺のものではないのだ。

『秋紀くんは、プロ目指してたの?』

ふとした時に、彼女にそう尋ねられたことがあった。プロになりたいと思ったことがない、と言えば嘘になるだろう。
『明確にプロ!と思ったことはあんまないけど、まあ本気でやってたら漠然と考える最終地点ってやっぱそこだよな』
『ふーん、全国大会でちゃんと成績残してるなら難しい話じゃないんじゃないの?』
『んー……多分、それだけじゃダメなんだよな』

木兎のような第一線で活躍できる選手はプロの中でもほんの一握りだ。プロに上がってもプレーが振るわなければ生き残ってはいけない。

『俺は何でもできるけど、何にもできないんだよな。木兎みたいに一芸のあるなんつーかさ……才能とかセンスとか、そういう世界の話になってくるんだけどさ……』

俺はバレーボールの神様には選ばればかった、数多いる人間のうちの一人なのだ。もうこの歳になってさすがに悔しさなんてものは持ち合わせてはいないが、時折そんな現実を思い起こさせる。
俺の話を聞いていた彼女はしばらく目を瞬かせていたが、やがて口を開いた。

『秋紀くんって普段から器用貧乏ムーブかましてるけど、』
『器用貧乏ムーブ』
『何でもできるって、誰にでもできることじゃないんだよね』

ほら、あるじゃん。“一芸”。
事もなげにそう言ってのけた彼女の、その屈託のない笑顔が今でも瞼の裏に浮かぶ。

『秋紀くんのそういうところに助けてもらってる人、私も含めてたくさんいると思うけどな』
『!……そうか。それもそうだな』

俺はそこで、背負い続けてきた荷物の一つをようやく地面に下ろせたような気がしたのだ。少しだけ、今までの自分が救われた、そういう気がしたのだ。

人生は常に二者択一だ。どこでどう転ぶか分からない。
それでも今俺はこのコートの外にいて、サラリーマンとして働いていて、休日は時たまバレーをして、隣には恋人がいる。バレーボールをプロとして続けていたら、彼女には絶対に会うことはなかっただろう。そう思えば今の現状も選択肢の一つで、俺は道を違えては決していないのだと、そう思える。

「高校の頃の木兎さんたちの写真ありますけど、見ますか?」
「赤葦さん、全部見せてください」
「どさくさに紛れて俺の昔の写真も見ようとしてねえか!?」

それはそうと、恋人が自分以外の男に歓声を上げている光景は至極真っ当に腹が立つので、木兎は爆発してほしい。……爆発はなんかアレだな、転べとかも選手生命に関わるかもしれないし……あ、そうだ。クソ急いでる時に限って改札通ろうとして絶対残額不足で捕まれ。それぐらいなら願っても許されるだろう。

「ヤバい!今日の木兎選手調子良すぎ!」
「オイ木兎ばっか褒めてねえでアイツが絶不調の時にフォローしまくってた俺のことも褒めろよ!」
興奮冷めやらぬ様子の彼女には届く事なく、俺の嘆きはアリーナの大歓声にかき消されて、熱気の中に溶けていった。



「――で、結婚しないんですか」

見事ブラックジャッカルはストレート勝ちを収め、上機嫌で駅への道を先行く彼女の後を赤葦と追って歩いていると、真っ向から疑問が飛んできた。赤葦は良くも悪くも、昔から先輩相手には物怖じしない性格だった。

「いやー……結婚はしたいよ。超したい。今ここでプロポーズしてもいいくらいには」
「…………なるほど?」
「でもさあ、本当に俺でいいのかなあ!?みたいな迷いがあるわけよ」

人生のパートナーとして、結婚は決して軽くはない契約みたいなものだ。それに縛られて彼女が不幸にならないだろうか、俺では幸せにできるだろうか。先月の結婚式の帰りに見た、彼女の複雑そうな表情を思い出す。様々な不安が浮かび上がっては迷いを生じさせて、自分の中でまだ踏ん切りがつかないでいる。

「あんまり迷ってると結婚する気がないと思われて見捨てられるって、たまにSNSで見ますよね」
「なんつーこと言うんだよ赤葦!」
「でも五年付き合ってるんですよね」

お互いのことを見定める期間は、もう終わってると思いますけど。
赤葦の言葉が胸の中で鉛のように重く沈んでいく。
人生という線路の巨大なポイント分岐は、存外すぐそこまで迫ってきているようだった。




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