八月、打ち上げ花火の切れ端を剥ぐ
「あっつー……」
近所のスーパーへ買い物に行くために三十分ほど冷房を切って家を出て、戻ってきた時には我が家はもはや蒸篭と呼んで差し支えない湿っぽい暑さになっていた。滲む汗で額に張り付いた前髪が煩わしい。
「私たちが中高生の頃ってこんな暑かったっけ?」
「暑い日はあったけど四十度近くなったことなんてほぼなかったろ」
「確かに」
「もうビール飲みてえ」
「あとちょっとだから! 我慢して!」
部屋に上がると急いで照明と冷房をつけた。熱帯夜が続く東京の街で、もう冷房なしの生活なんて考えつかなくなってしまった。寝ている間もつけていなければ寝苦しさで眠りにつくこともままならない。
「トマトどうすんだー?」
「ギリギリまで冷やしとこ!」
秋紀くんと買ってきた食材を手分けして整理しながら、冷蔵庫に手際よく放り込む。
「待って今何時?」
「十八時半」
「あと三十分しかない! 急いで準備しなきゃ」
ベランダに折りたたみ椅子を二脚と簡易的なローテーブルを置いて、網戸の前に扇風機を置く。
小さなクーラーボックスには氷を敷き詰めて、l缶ビールを突っ込んだ。
昼間のうちに用意しておいた焼きそばを紙皿に盛り付けて、タッパーに入った一本漬けのきゅうり、焼 たフランクフルト、冷やしトマトもテーブルに置けば、擬似お祭り仕様ご飯の完成だ。
「できたよー!」
「お、いいじゃん」
今日は、近所で一番大きい花火大会の日だ。
不動産の内見で『夏はベランダから打ち上げ花火も見れるんですよ』と担当者のセールストークもとい口車に乗せられて契約したのが今の部屋だった。住み始めてから三年経つものの去年も一昨年もコロナで大会が中止になってしまったから、今年が初めての打ち上げ花火だ。
プルタブを起こせば、小気味のいい炭酸の抜ける音がする。
「かんぱい!」
「おう、お疲れ」
こちんとビール缶で乾杯をして、一気に煽る。
暗くなったというのにまだ冷めやらぬ熱気の中で、冷えたビールが喉を伝っていくのが心地よかった。
「やっぱビールって夏が一番うめえ気がする」
「暑いから?」
「そうだろうなー、夏のビアガーデンとか会社の付き合いで行く時あるけど、冷房ある居酒屋で飲むのとちょっと違う感じするし」
「秋紀くん、前と比べてお酒強くなったよね」
秋紀くんは、そんなにお酒が強くない。二人で居酒屋に行くと、先に酔い始めるのは彼の方だ。付き合っていた当初は二日酔い全開の血色の悪い顔で出社していたのを度々見ていた。
「あんだけ営業回りで飲まされてると、酔わない立ち回りとかペースとか、体が覚えてくるからな……」
「秋紀くん、酔っ払うと抱きつき魔になるよね」
「それはお前にだけだから! いいだろ彼女にくっつくくらいは!」
そうこう話しているうちに、花火大会の開始時刻になった。二人でベランダの手すりにもたれかかり、その瞬間を待つ。
いよいよ待ちに待った花火が上がり、夜空に大輪の花が咲く……かに思われたが。
打ち上げられた花火は、私たちの数百メートル前方に聳え立つタワーマンションに大部分が阻まれ——空に消える間際の火花の端が夜空に煌めいて散っていく姿だけが視界に入った。
「あー!」
「見事に被ってんなー……」
二人の嘆く声は、花火にもタワーマンションにも届くことなく、空中に消えた。
「内見来た時はあんな建物なかったよね!?」
「去年駅前に建ったタワマンじゃなかったか?」
「あまりにもモロ被りすぎない?」
「タワマンの担当者も、売る時同じこと言ったんだろうな。“バルコニーは東向きですけど、夏は花火大会も見えますから”、とか」
「悔しすぎるー!」
冷やしトマトを口に突っ込んで、無念と共に飲み込んだ。隣できゅうりを齧っていた秋紀くんは、慰めるように私の肩を叩いた。
「来年は、ちゃんと会場行って見ような」
来年。当然のように“次”の話をしてくれるところがどうしようもなく嬉しくて、私も存外秋紀くんにベタ惚れなのかもしれない。
「……うん、来年は見に行こうね」
打ち上げ花火の切れ端を剥いで、私はその光景を瞼の裏に貼り付けた。