愛してるって伝えたい

朝起きたら、何故か水辺に倒れていたらしく水浸しだった。やけに暗い湿気の多い場所で首を捻っていた。
「ココはどこ?」
「冥界なんだけど、見ないタイプだね、キミ……まだ生きてるなんて珍しいよ、本当」
急に聞こえた声の主は、青白い肌に黄色い目の大きな男だった。
「わあ!びっくりした。すみません、大きな声出して。えっと、こんにちは」
「ああ、こんにちは。良いんだ、気にしてない。しかし礼儀正しいコだ。何て名前?」
ぺこりと頭を下げて挨拶する娘に気を良くしたように男は頷き名を尋ねた。
「名前です。あの、貴方は何とお呼びしたら良いですか?」
「名前ちゃんね、聞き慣れない響きだけど良い名前だ。俺はハデス。一人寂しく冥界でお仕事してる」
「神様!?ええ?そんな?!ヘカテーとペルセポネーは?」
ハデス、と言う名を聞いて目を見開き、一人だと聞いて眉を寄せた。
「ああ、ペルセポネーは俺の姪だよ。もう一人は知らないね。それが?」
「あれえ?メンテーとレウケーは?」
「知らない」
「ヘラクレスは?」
「ヘラクレス?」
挙げられる名に正直に知らないと言うハデスに名前は首を傾げる。
「なんか私の聞いたギリシャ神話じゃあ無いんですけど?」
「神話?」
「あれ?えっと、あの、部下は?」
「ペイン、パニック、ケルベロスくらいかな?どうして?」
「そんなあ!お仕事、どうしてるんですか?」
何故部下の事を聞くのかと首を傾げると、忙しさについての心配だった。
「仕事ね、ああ、そりゃあ、もう!忙しくて忙しくて!事務職が俺だけ!」
「ええ!?ギリシャ神話で唯一まともな男神に部下も嫁も居ないの?信じられない!」
「え?俺が唯一まともな男神?」
驚いて目を見開き、ハデスは手を名前の肩に乗せて尋ねた。
「だって、ゼウスもポセイドンも、浮気ばっかりの変態よ!」
「ああ、まあ……否定出来ないね。わざわざ鳥とか馬に化けてまで女を追いかけたりしてたね」
まともな感覚ではそうだろうな、とハデスは事実を述べた。
「何で?!ハデスに奥さん居ないのに、そこだけ神話と一緒なの?」
「さっきから神話神話って、どう言う事?」
「へ?」
憤る名前の言葉にハデスは首を傾げ、ハデスの言葉に名前も首を傾げた。

びしょ濡れだったのを乾かしながら、互いの情報の齟齬を確かめた。
その結果、ハデスは名前が別の世界線の違う時代から来たのだろうと結論付けた。その説に名前も納得した。
帰られるまでココに居ても良いと言われて、何もせずに居候は気が済まない、と、少しでもハデスを手伝うと名前は言った。

「君は本来なら女神の治める死者の国へ辿り着くハズで、俺の管轄じゃあ無いけど、来ちゃったもんはしょうがない、しかも生きてるし。そうだな、とりあえず俺の侍女として働いてみる?」
「身の回りのお世話ね?オッケー、色々と教えてくれると助かるわ」

それから毎日、名前は掃除洗濯料理に精を出し、慣れない冥界の食材に四苦八苦しつつも、薄ぼんやりとしか知らないギリシャ料理をリクエストされて何とか作ったりしていた。
工程さえわかれば、魔法で何とか出来る名前は一か月程度たった頃には、指を指揮棒の様に振るだけで全てを終わらせられる様に成っていた。

「ねえねえ、ハデス様!事務仕事も教えて下さい!」
「良いの?俺は助かるけど」
「家事に関する魔法は得意だもの。もう、ココでのやり方で出来るように成った。だから他の仕事も欲しいの」
「働き者で感心。アイツらも、こうだと良いんだがな」
「そう言いながらも、追い出したりしないハデス様って優しい……」
「失敗にはお仕置きしてるのにか?」
「そりゃあ、もう!さてさて、私にお仕事下さい!」
「ああ、まずは、この書類なんだが……」

「名前ちゃん、死んだら俺の部下にならない?」
その日、一日が終わって終了した書類の山を見たハデスの心からの誘いだった。
「え?私は良いんですけど、出自的にはイザナミノミコトの黄泉の国に引っ張られそうですよね……」
「そうだよねえ、難しそうだな」
黄泉の国へと誘われるのは確実だろう。けれど、名前からココに居ても良いと言う言葉を貰えたからには、イザナミとの交渉をしてでも部下にしたい程にハデスは入れ込んでいた。


そんなやり取りから、三か月が経った頃、いつもの様に家事を済ませて、名前はハデスのもとで事務仕事をしていた。
「おやおや、珍しいお客さんだ、名前ちゃんの故郷方面から来たみたいだねえ」
「あら、其れは大変!ハデス様が行く必要がありますね」
「そうだな。参拝者が間違えて入り込んだなら良いんだけどね」
そうじゃないのはハデスにはわかっていた。ここ数か月、交渉が難航しているイザナミに違いない。
「やあ、まさか直接来るとは思わなかったけど、相変わらずセンス良いね」
「直接、本人に会わなければ分からん事もある。さあ会わせて」
「ああ、勿論。しかし良い娘だ。神の子なら嫁にしたかった……」
嫁にとハデスが口に出した時、イザナミはニヤリと笑った。

「名前ちゃん!お客様だよー!」
「はあい!って、私にですか?」
「そうそう、こちらイザナミさん」
ハデスの横に立つ女性は確かに古事記の中に描かれている女神の姿に違いない。さらりと告げたハデスに対し名前は目を白黒させたが、直ぐに気を取り直した。
「え?あ、お初に御目文字仕ります、私、こちらの冥界はハデス様の下で世話に成っております、名前と申します。よしなに」
「ふうん、まだ黄泉竈食ひはしておらんな。その割にこちらの空気によく馴染んでおるものよ……どれ、手を出してごらん」
礼儀正しく挨拶する姿に、そう言って差し出された名前の手を握りしめて数秒後、イザナミは手を離してハデスを手招きする。
「この娘は、日の本の民に違いない。つまりは、我らが遠い子孫の更に遠い親族だ……良かったじゃあないか。二千年以上経っておる故、血は非常に薄いがな。まあ、ちゃんとチカラは持っておる様で安心したよ」
「で、こっちで貰って良いの?」
「娘よ、覚悟を見せよ!さあ、何を見せる?」
ハデスの問いを手で制し、イザナミは名前に迫った。

「準備して来ます!」

「なあ、あの娘は何をすると思う?」
走り去る後姿を見ながらイザナミはハデスに問うた。
「え?さあ?俺には思いつかないけどねえ」
「そう?私は一つ予想しているよ」

「お待たせしました!」

名前は笑みを浮かべて、魔法でその場に何時もの夕飯の支度を始めた。それにハデスは首を傾げ、イザナミは頷いていた。

「ハデス様!今日はハデス様と同じ物を食べます!」

「おいおい、ちょっと待て、そりゃあ、つまり、ソレをしたら二度と地上で暮らせないんだぞ?それに、俺の、冥界のものになるって言う事なんだ……分かってる?!」

「黄泉竈食ひ……その魂の中に死の国の食物を取り入れて、死の国の存在に変わる行為は知ってるだろう、ハデス。この娘の覚悟って事さ……見守ってやるんだよ」

「ハデス様?私はココに居ても良いんですよね?」

「そりゃあ、勿論!だけどねえ?」

「じゃあ、見ていて下さい。私の覚悟」

いつもはハデスだけが口にする、冥界の材料を使った食事を、名前が口に入れた。一口目を咀嚼し嚥下するまで、誰も言葉を発さなかった。飲み込んだのを確認出来てから、イザナミは「これでこの娘は、お前のものだよ、ハデス」と言ってさっさと帰って行った。

「名前ちゃん……」

「さあ、ハデス様!一緒に食べましょう」

「待ってくれ、俺がイザナミに何を言ったかを知らないだろう?俺はお前が神の血筋なら嫁に欲しいと言った……そしてイザナミはお前を神の血筋だと言った。ソレで良いのか?」

「え?それって、良いんですか?私てっきり……」

「ああ、神話では、何て今は言わないでくれ……俺にとっては違う世界線の話だ」

「私、香草にされちゃうのは嫌ですよ?」

「メンテーだったか?そんな事にはならないさ。その娘は愛人だったんだろう?名前には俺の嫁になってほしいんだよ。前提が違う」

「ハデス様がそこまで仰るんなら……でも、私よりも好きな誰かが出来たら、ちゃんと仰って下さいね?」

「ああ、そんな事にはならない。さあ、婚約しようか」


あっという間に、名前は居候から冥界の王ハデスの妻と言う立場に変わっていた。
目まぐるしく変わる立場と裏腹に、やる事は殆ど変わらない。

文化の違いに互いに戸惑う事も有るけれど、時代や生まれた国の違いと言った差を二人とも自覚している故に、すり合わせを積極的に行う名前の言動は正しかった。
すり合わせの為に疑問をハデスに聞けば
ハデスは名前が、自分の中では当たり前だった事が、名前にとっては違うと認識し気遣う事が出来た。


2019/09/09 記
2020/07/04 移動、加筆