02-大阪での生活


大阪生活は、楽しかった。
クラスの子達には、両親は居ないけど祖父が福岡に居る事、大阪には親戚の兄さんらが友達を連れて、しょっちゅう遊びに来ると言ってある。
校門前に赤ジャージやスーツの兄さんが立ってる事も良くあった。強面な彼らも、大阪では案外馴染んでいていい感じだった。代紋を着けてないって事も有るんだろうけど。
よっぽどクラスメイトの父兄の方が、筋者っぽい風貌だったりした。
参観日には博多から、祖父が来ようと思った事も有ったらしいが、結局は兄さん達がジャンケンで決めて来てくれた。この兄さんはデカくて厳つい風貌だし、喧嘩っ早いところもあるけれど、祖父を慕ってくれてるから、私には優しい。
大阪の近江連合から見たら、弱小な地方団体ではあるが、組長が来たら勘繰られるって事なんだろうか。


私が暮らすのは普通のマンションだったが、左右の部屋は祖父の舎弟が住んでいる。
近場のアパートや借家にも、若衆が全部で最低5人住んでいた。
その舎弟や若衆が店屋物ばかり食べている事を知ってしまった私は、中学1年の秋頃から夕飯だけは極力、皆で一緒にとるようにした。ありがたい事に生活費には困っていない。
寒くなると水炊きやモツ鍋を囲んだりもした。基本の味付けはちょっと甘めの九州の味だ。九州は醤油の味も南側程、甘くなる傾向がある。流石に茶碗蒸しに砂糖は入れないけど。
高校に入学する頃には、いっぺんに大男10人分くらいの食事を作るのにも慣れていた。高校は、資格を色々持っていた方が後々便利だろうと、商業系資格を取得出来るだろう学校へ入学した。
夏休みや冬休み、春休みは実家のある博多へ帰り、両親の墓参りをしたり、時たま喧嘩に巻き込まれたりした。


流石に高校を卒業後は一人暮らしを認めてもらった。
新卒で入ったのは大阪の中くらいの大きさの建設会社だったが、会社の規模の割に社員が少なかった。そのせいで、事務員として入社した筈なのに、現場作業をさせられたりした。しかも力仕事もさせられた。立地的にみかじめ料を取られるらしいが、新人である私や同期の現場作業員の給料から5割も差っ引いた分の5割くらいを、みかじめ料にしている割に、残りは用途不明金だった。しかも色々と税金の類もちょろまかしている様だった。

ヤのつくお仕事のフロント企業なのかとも思ったが、それならインテリが仕切って、分からないようにバレないようにやるだろうと思った。少ない幹部連中には良く知る気配も、隠し切れない血の残り香もしない。こいつらが、売り上げ少なくて、みかじめ料が払えないフリをしていると確信したのは、事務所でここいらの組の若衆が怒鳴っているのを聞いた時だった。
2005年の11月、21歳だった私は元々ブラック過ぎて辞めようと思っていた事も有り、祖父達に迷惑をかけたく無いので、巻き込まれる前にと考えて、その日の内に辞表を書いて次の日に提出。あんなの見たからだと分かりやすい言い訳が出来た事も有り、すんなり辞められた。ついでに、自分と一緒に入社した奴から一番最近入社した奴の中で、食事の世話などをしてやっていた近しい奴ら3人を連れて辞めてやった。
が、週一で復職してくれと電話が来るのはいただけない。

即座に新しい土地で仕事を探す事にした。

2006年「新規立ち上げの為、事務員、現場作業員募集してます!」とあった真島建設という会社に4人で履歴書を送り、面接を受ける事になった。

2019/01/21 up
2019/11/20 移動

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