01-総てを得る日


おかしな話だとは思うが、名前は子供時代をやり直している。しかも1980年代の生まれだったはずが、1977年生まれに変わっている。それはまだ良い。
オカシイのは小学校に上がる筈の年齢を過ぎても学校には行っていない事だった。両親の顔も声も全然知らないで祖母らしき人と暮らしていた。
別に小学校低学年の勉強は何とかなるだろうけど、学校に行きもしないのに、問題になっていないらしいのがオカシイのだ。もしかしたら出生届が出されずに戸籍が無い状態なのでは無いかと、名前は思い至ってしまった。そして、それは合っているだろう。
少し離れた町には男の人向けの女が商品な卑猥な店がある。そこで望まれぬ子として生まれた可能性は高い。
それでも、一緒に暮らす祖母らしき人は、己れが先に逝くだろうと見越してか、普通の鍋での御飯の炊き方から、細々とした昔ながらの生きる知恵を教えてくれた。和裁に着物の洗い方、着方、草鞋の編み方、火の起こし方、掃除の仕方、食べられる道端の植物まで教えてくれた。
このおばあちゃんは、若い頃に戦争を経験した世代だ。女1人だけで慎ましくも強く生きる人だ。だから、とても尊敬していた。ある日、おばあちゃんと自分の関係を知った。二人目の旦那との一人娘の産んだ忘形見らしい。そう教えてくれた時に、旦那に貰ったと言うトンボ玉の根付けをくれた。そして、おばあちゃんの一人目の旦那側の親族に見つからない様に逃げなさいと、古びた巾着袋と着替えの入った風呂敷を渡された。この時の名前は知らなかったが、おばあちゃんは病気で、もう長く無かったのだ。そして自分が死ねば、自分をほったらかしにしていた親族が金目のものを漁りに来ると分かっていた。その時に、自分を慕い何を話しても真剣に、時には笑って、泣いて聞いた子供が女衒にでも売り飛ばされると、そう心配して当面の生活費を入れた財布と共に逃がしたのだ。

いつものお使いのふりをするんだよと、言われて名前はひたすら東へ向かった。
歩いて歩いて、時々は電車に乗って東へ向かった。幸い、財布には千円札ばかりが入れてあった為、大金を持っているとはバレずに移動できた。けれど育った街に似ている、より大きな街に辿り着い時には小銭しか残っていなかった。

靴は履き潰してしまい、道端の枯れ草で草履を編んだ。道端の草を毟って公園の水道で洗って食べて、水飲んで、あても無く裏路地を彷徨った。落ちている新聞紙に包まって眠ると、少しはマシだった。誰彼か見ている時も有ったが、声を掛けられる前に逃げる様に狭い路地へ向かった。

どこかで雇って貰うには、あと7、8歳足りない。
もう、無理だと思い、諦めていた名前は、何時ものように知らないボロいアパートの軒下で雨を避けて、古新聞に包まって横になった。寒くて震えていた。空腹はもう通り過ぎてしまっていた。ゴソゴソと動くと足が新聞紙からはみ出る。このまま死ぬのかもしれないと、名前はぼんやりと考えていた。
「子供?何や、迷子か?」
急に知らない男の人の声が聞こえて、名前は逃げようと立ち上がるが、足がもつれて転んでしまった。
「大丈夫か?」
黒い服を着て眼帯をした男は転んだままの名前を抱き起こして、ボロボロな姿に眉をひそめた。
「にいちゃんがメシ食わしたる。ウチ、ここなんや」
男に促され名前は、しばらく迷っていたが、ややあって小さく頷いた。

「大したもんは無いけどな」
そう言って男は自分の分として買っていたのだろう弁当から握り飯と卵焼きを、弁当の蓋に乗せて名前の前に置いて、湯のみに水を注いだ。
「……ありがとうございます」
ひどくかすれた声に名前は自分で驚き、口を噤んだ。
「水も飲みぃ」
コクンと頷いて湯のみを両手で持ち、ゆっくり飲めば、思っていた以上に喉が渇いていたらしく、直ぐに一杯目は無くなった。男は二杯目をヤカンから注いで、名前の方にまた置いた。
「ソレ飲んだら、一旦、手ぇ洗わなゴハン食べられへんな」
「はい」
今度はマシになった声に、名前はホッとして二杯目を貰った。
「こっちや」
男に案内されて洗面台へ行くが、背が届かない。
「抱っこしたるわ」
有無を言わさず男に抱き上げられ洗面台で手を洗う。洗い終わったのを確認した男は、名前を床に降ろした。

久しぶりのマトモな食べ物に、名前はちょっとずつ口に入れながら泣いていた。
「嬢ちゃん、そない旨いか」
泣きながら食べる少女の姿に驚いた男は、自分の分と見比べながら聞いた。
「うん。おいしい……お兄ちゃん、ありがとう」
口に入った分を飲み込んでから、笑って礼を言う名前に男も少しだけ笑みを浮かべた。
「オレは真島吾朗や。お嬢ちゃんは何て言うんや?」
「吾朗さんやね。わたしは名前」
「名前ちゃんやな。名字は?」
「……分からない」
「え?……どこから来たんや?」
予想外の答えに真島はちょっと考えて別の質問をする。
「合ってれば西の方から来ました」
「西?そうか、親はこっちに居るんか?」
曖昧な答えにクエスチョンマークが浮かぶが、一番気になる事を聞く。
「わたし、生まれてないから」
「……そうか、まあ今日はもう風呂入って寝よか。ワシ、風呂のお湯張って来るわ」
名前以外、よくわからない子供にワケありの気配を感じた真島は、もう後で聞こうと思い風呂の準備を始めた。
湯船に湯を張り、既にTシャツ姿だった真島は、いつもの感覚で服を脱いで、しまったと思い、ワイシャツを着直して、トランクスに靴下、ワイシャツと言う変な格好で脱衣所に入った。
だが、着替えはいつも通りトランクスしか持って行っていないのを思い出す事はなく、風呂に入った。

風呂から上がり、タオルで体を拭いてからTシャツが無いと真島は気付いた。
「あ!トランクスしかない……まあ、どうせ一晩泊めるだけや。そうや」
ブツブツ呟き、髪を乾かして眼帯を付けて、部屋に戻ると、小さなテーブルを流し台の前に起き、テーブルに風呂敷を広げて、その上に乗って湯のみを洗い、流し台を掃除しているらしい名前の姿があった。
「名前ちゃん、掃除してくれとるんか。ありがとさん」
「いえ、ゴハン食べさせてもらって、泊めてくれるって吾朗さん言うから……」
声を掛けられて振り返った名前が見た真島の上半身には、鮮やかな彫り物があった。
「わ、スゴい。これ、本物?わあ、墨って入れるのスゴく痛いんでしょう?ねえ、吾朗さん、背中も見せて!」
生まれ育った街に、喧嘩の時には上半身裸になって墨を見せびらかす奴らも結構居た。おばあちゃんと川縁に座っていると、妙に気さくに話し掛けてくるスーツのお爺さんも居たりした。その人の襟には何処のか知らないが代紋のバッジが付いていた。その人がたまに聞かせてくれた話には、怖いものも多かったが、墨についても幾つか聞いた事があった。
「おう……何や、怖ないんか?」
テーブルから降りて纏わり付く名前に拍子抜けして思わず聞いていた。
「え?おお、背中に怖い顔があるね。般若?」
「は?ああ……まあ、般若やな。よう知っとるな」
「えへへ。ねえ、吾朗さん、触って良い?」
「へ?まあ、良えけど」
「やった!触ってみたかったんだぁ……おお、ちょっとザラザラしてるんだね〜。何だっけ額彫り?」
「せや。珍しいやろ」
「額彫りは初めてみる!吾朗さんの綺麗だねぇ」
「……え?綺麗か?」
「うん。綺麗、筋彫りも色も……忍耐力有るんだね」
「まあ……怪我の治りは早いなぁ。忍耐力は、有ると良えけど」
「ふふ、あ、お風呂入って良い?」
「おう、早よ入れ」
反応が予想と違いすぎて、思わず背中の彫り物を触るのを許してしまった。お風呂場から聞こえるお湯を被る音を聞きながらタバコをふかした。
「変わった子や……何歳なんやろ」

風呂上りの名前に聞けば驚きの九歳だった。
もう少し大人びて見えるのは、精神年齢でも高いのか?なんてあながち間違いではない事を考えていたが、真島と一つの煎餅布団で、すやすやと無防備に眠る顔を見て、無いか、と思い直した。

2019/02/03 up
2019/11/21 移動

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