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「いらっしゃいませ!」

 大学生活も落ち着いてきた私は、ベーカリーでアルバイトを始めた。チェーン店のような規則もなく、バイト仲間の年齢も近いので働く環境としては上々だろう。シフトはあまり入っていないが、バイト先には上手く馴染めているのではないだろうか。

 土曜日の昼下がりにレジ業務をしていると牛島君が来店した。私は叫び出したいのを堪え、笑顔で挨拶をするにとどめる。牛島君はあまり買い食いをしない。ベーカリーに来たのは、私が働いているからなのだろう。頬を緩ませていると、「苗字さん、この操作変わったから」と先輩に肩を叩かれた。

「えっと、これで合ってますか?」
「そうそう。苗字さん覚えるの速いね。佐々木さんとか三日経っても覚えなかったから」
「それ引き合いに出さなくてもよくないですか!?」

 私達は声を合わせて笑う。その声に、牛島君が顔を上げた。たまらず私は顔を引き締める。従業員の仲が良いのはいいことだが、お客様からしたら騒がれては煩わしいだけだろう。相手が牛島君だからいいが、一般のお客様ならクレームになりかねない。牛島君は惣菜パンを一つ取ると、トレイをレジに置いた。

「会計を頼む」
「はい、三○五円になります」

 レジには私しかいないのだからプライベートな会話をしてもいいが、牛島君はあくまで客として来ている様子だ。私も店員として振る舞うことに努め、牛島君にパンを包む。牛島君の背中を見送ってから、そっとため息を吐いた。多分、牛島君が私の彼氏だということは先輩達にはバレていない。バレたところでどうにかなるわけでもないのだけど、無意識に面倒ごとは避けたいと思ってしまった。


 バイトを終え、風呂とご飯を済ませてから私は牛島君に電話をかけた。牛島君は早寝早起きだ。あまり遅くにかけては出ない可能性もある。今日はまだ起きていたようで、「……はい」と低い声がした。

「牛島君、今日は来てくれてありがとう」
「ああ、その話か。美味かった」
「ふふ、私は作ってないんだけどね」

 牛島君からの褒め言葉にたまらず心が躍る。久しぶりの電話であるし、今日は今までのことを沢山話したかった。牛島君の話も聞いてみたい。

「そういえば今日大学でね、」

 私がそう言った時、私の声を遮って「すまない。もう時間になった」と声がした。

「あ……ごめん」
「悪い。また今度にしてくれ」

 電話が切れる音を聞きながら、私はベッドの上で固まる。牛島君が私の話を遮ったのは初めてだった。名前を知らないと言われた初回の告白でさえ、牛島君は私の話を最後まで聴いてくれたのである。きっと消灯の時間になっえしまっただけだと言い聞かせて、私は震える手でスマートフォンの画面を切り替えた。
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