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現世で言う夜が明けると、無一郎は兄の元へ行くと言って去ってしまった。無一郎の兄ももう亡くなっているようで、その話はたまに無一郎から聞いていた。一緒に暮らしていた、瓜二つの双子の兄。恐ろしいことに、そんな所まで私の知っている無一郎そっくりである。

暇を持て余した私は、もう一度川へ行ってみることにした。行ったからと言って元の世界へ帰れるわけではないが、何かヒントくらいは見つけられないだろうか。無一郎の行った通りの道をなぞると、この前よりいくらか流れの穏やかな川が視界に入った。相変わらず橋はなく、向こうに渡るには泳ぐしかないが、それは無一郎から止められている。

私は今の服装を見下ろした。私がこの世界に来る寸前の格好、温泉旅館の浴衣を一枚着ているだけだ。暑さや寒さを感じることはないものの、先程無一郎に指摘されたように着方がおかしくなっている。和装など年に数回しかしない現代人の浴衣姿は、無一郎のような昔の人からは滑稽に映ることだろう。

その時、私の頭の中を光が駆け巡った。私は今、何か大事なことを思い浮かべていた気がする。間違った和装、それを指摘する無一郎、この世界に来る直前の旅館の浴衣。次の瞬間、私の脳裏にとある日の無一郎の声が蘇った。

「左前は死人なんだ。浴衣は右前」

そう言って、浴衣の合わせを指摘されたことがあった。あの日もそのことを思い出しながら、間違っていると自覚しつつ左前で寝た。今私は、その浴衣を着ている。

もしかしたら。私は震える手で浴衣の合わせ目を掴んだ。もしかしたら、この合わせ目を直したら、私は元の世界に戻れるのかもしれない。

理解した途端、私は無一郎の住処へと駆け出した。どれだけ走っても苦しくならないこの世界の仕組みが有難かった。今は一秒でも早く無一郎に会って、伝えたい。何を、伝えるんだろう。今までありがとうなら後でゆっくり言える。私が恋愛的な意味で好きなのはこの世界ではなく現世の無一郎だ。ならば、私が走ってまで伝えたいこの想いは、一体何なのだろう。

分からないまま私は無一郎の住処へと着いた。無一郎は既に帰っていて、私の様子に疑問を抱いているようだった。無一郎が「一体どうしたの」と言い切るより早く、私は早口に告げた。

「元の世界に帰る方法が分かったかもしれない」