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「今日は上手く行ったわ。いつものおにぎり一つ」

北さんの家から帰り、おにぎり宮を訪れた私は治の顔も見ずにカウンター席に座った。治は今日「は」という言い方に反応することはせず、おにぎりを握りながらも静かに口を開いた。

「今日はまた、難しい顔してんな」
「難しい顔ってどんな顔や」
「恋愛に悩んどる顔。前みたいに何もかもがつまらんみたいな顔よりはええんちゃう」

そう言って差し出されたおにぎりを私はゆっくりと齧った。治のことだから、北さんと私の間に何が起こっているのかなどお見通しなのだろう。それでも私に取引の大事な役目を任せるのだから肝の据わった店主だ。

「今度はちょい早めに行ってもええ?」
「おう、頻度は増やしてもらって構わんで」

またすぐにでも北さんの家に行きたいという私の気持ちをからかわずに治は言った。


指定の日が普段会っている月末より早いことに触れず、私と北さんの会合は進んだ。私は北さんに指摘された通りビジネスライクに話す。幸いあの時よりかは緊張はしておらず、今は緊張や動揺よりも期待の方が勝っていた。今日はこの後、どうなるのだろうと。

話がひと段落ついた頃、私は書類を机に置いてそっと北さんを見上げた。相変わらず北さんは何の感情も読み取らせない瞳で、私のことを見つめ返している。北さんの所に行っていいのかいけないのか、分からない。でも北さんならば平気な顔で私のことを「待ってた」と言うと思うのだ。

机の向かいに移動し、私は北さんの両肩を掴んだ。このまま距離を詰めるか、キスをしてしまうか。舞い上がった私の思考はどんどん鈍くなり、勢いのままに北さんの肩を強く押してしまう。

「もう押し倒すんかいな」

後ろに倒れる気配は微塵も見せないくせに、北さんの肩を押す私を見て北さんは冷静に突っ込んだ。あくまで時期が早いというだけで、私が北さんを押し倒すことについては何も思っていないような口ぶりだ。女が男を押し倒すのはどうかと思うのだけれど、北さんは意外とそういうことを気にしないらしい。

「そんなつもりじゃないです!」
「じゃあどんなつもりやねん」
「どうって……」

私が北さんのそばに寄った理由は、押し倒す理由とほぼ同じのような気がする。北さんはそれを知ってか知らずか、自分が突っ込んだ言葉の答えを待ち続けている。

「私は北さんが好きやから、そばにいたいって思い続けてますよ」

北さんの胸板にもたれかかりながら、私はそっと声に出した。遂に言ってしまった、という感覚だった。今まで私が北さんを好きなことは本人も重々承知だが、言葉にはしてこなかった。明言してしまったら、北さんは何かしらの対応をしなくてはならない。それによって、私達の関係が変わることもあり得る。北さんは私の手を受け入れるけれど、それは彼女でも何でもない関係性だからであって、もしかしたら元鞘には収まりたくないと思っているのかもしれない。私達が終わりなら、治には悪いことをした。脳内で治に謝っていた時、北さんがそっと私の体を引き離し、目を見て言った。

「やっと言ったな。お前がなかなか言わんからこっちがハラハラしたわ。俺もお前が好き、お前も俺が好き、ヨリを戻すんでどうや」
「へ……?」

まるで前から考えられていたかのような口ぶりに困惑しつつも、私は頷く以外の選択肢を持ち合わせていないのだった。