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 彼女は苗字名前と言った。そう微笑んだ姿は紛れもなく俺に気を許しているようであったのに、どこかよそよそしさを拭えない。今だって、いつも俺が乗ってくる位置とは別の場所にいる。まるで俺を避けているかのように。

「冴くん」と親しそうに呼んでいた名前の声が蘇った。名前にとって、冴はよくて、俺はダメなのか。頭に血が昇ると言うのか、俺は感情的になった。

「お前は俺のそばにいろよ」

 離れた位置にいた名前の腕を引き、そばに寄せる。近くにいた乗客数人が俺の顔を振り返ったが、無視をした。俺達の間に会話はなく、ただ電車に揺られていた。そんなつもりはなかったのだが、恋愛めいた空気になってしまった。少なくとも俺の体はそう認識しているようで、慣れないことに心臓がその存在を主張している。俺が、女のことでむきになるなんて。まるで別世界の出来事みたいだ。

「俺が話したいと思ったらお前はいつもいろ」

 一度始めた怒りを止めるすべもなく、俺は名前に当たった。名前はきょとんとしていたが、曖昧に頷いた。その手にあったスマートフォンをひったくる。

 俺が無言で連絡先を交換しているところを、名前はじっと見ていた。名前は嫌がらなかった。けれど、自分から連絡先を出すようなこともしなかった。俺は嫌がられているのか、それとも通学路の友達として適切な距離を築けているのか、わからなくなる。そもそも、俺は「通学路の友達」に収まる気があるのか。

 最寄駅に着いて、俺は電車を降りた。別れの挨拶はなかった。

 だというのに、俺が電話をかけると名前はまるで友達のような声を出す。既に暗くなった部屋に電気をつける。

「おーい? もしもし? どうしたの? 凛くん」

 俺の名前も、随分馴れ馴れしく呼べるではないか。なんとなく冴に勝った気になって誇らしくなる。

「別に、お前のアホ声が聞きたくなっただけだ」
「電車じゃできないような話?」
「んなわけねぇだろ」

 冴に勝ったのならもう名前に構わなくてもいいのではないか。そう思いつつも、俺は名前に引き寄せられるのだろう。それが俺自身の感情なのか、名前が冴の名前を出したからなのかわからなかった。なにしろ、冴と俺の間の感情は爛れている。部屋の隅にある写真立てを一瞥して、すぐに視線を逸らした。