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後で話すから、今はとにかく大会に集中してほしい。それが真琴の言い分だった。俺も俺で水泳に思うことがあったし、ひとまずは泳ぐことに注力した。結果はリレーで入賞だった。江や渚の前でそれを喜んでから、俺は真琴を二人きりの場に呼び出した。
「何で教えてくれなかった」
二人で向かい合って、片方が激怒している。少し前、スポーツショップで凛と対峙した時のことを思い出す。凛もこんな気持ちだったのだろうか、と俺は他人事のように考えていた。
「勝手に言うわけにいかないだろ!」
真琴は真琴で、苦しんでいた。そうわかる表情だった。真琴だって俺に言いたいと思ったことがあるのではないか。
急に真琴に当たり散らしていることが筋違いに思えて、俺は項垂れる。
「ごめん」
「……いや、いいよ」
真琴は悪くない。勿論、ナマエも悪くない。全部ナマエをレイプしたという、コーチの男が悪いのだ。でも、俺に責任は本当にないのだろうか。俺が小学生の時スイミングスクールに誘わなければ、ナマエは中学で水泳部に入らなかったのではないか。そうしたら、ナマエは今でもスポーツを楽しんでいたかもしれないのに。ナマエに水泳を与えて、奪って、何がしたかったのだろう。
次にナマエと会った時、俺は無意識に「気まずい」表情をしてしまったのだと思う。それはナマエが事件以降何度も向けられてきたものだった。ナマエは俺が知ったことに気付いたようだった。あるいは、真琴から聞いたのだろう。
「もういいの。必死になって否定したところで逆効果だし、好きに言わせとけって感じ」
今までナマエが俺に対して張っていた壁のようなものが、一つ解けた気がする。ナマエは俺に事件を隠すために、どれほど気を遣っていたのだろう。
「私体なんて触られてないんだよ。ただ押し倒されて、好きだって言われた。他の部員にその場面を見られて、あっという間に広がって。気付いたら最後までしたことになってた。私ちょっとした有名人なんだから」
ナマエは自嘲気味に言った。普段より饒舌な口調が、ナマエの動揺を表していた。聞いているだけで耳も心も痛くなってくるようだった。
ナマエを好きな男として、ナマエの処女が奪われていないことは喜ぶべきなのかもしれない。でも、ナマエが最後までされたと噂され、水泳界を追い出されるようになっている時点で、何もめでたくはないのだ。
「俺が水泳なんか誘わなければよかったんだ」
俺はこの間と真逆のことを言った。どんな顔をしてナマエに水泳を再開するように言っていたのだろう。全てを知った今では、無神経にもほどがある。
「遙は悪くないよ」
テンプレートのような言葉。俺も当たり障りのない言葉を吐けばいいのに、俺は一歩踏み込んでしまう。だってナマエが、好きだから。
「じゃあ、俺が同じことを言ったら気持ち悪いと思うのか」
俺はナマエを試したいのか、告白したいのか、わからなかった。ただ一つ言えるのは、俺は被害者ではないということだ。本来なら俺がナマエをケアするはずなのに、動揺任せにナマエに俺をケアさせている。だってそうだろう。好きな子が水泳で性被害に遭っていたなんて、まだ十七歳の俺の心を滅茶苦茶にするには十分だったのだ。
「好きだ」
コンクリートの地面を踏む音が暫く響いた。やってしまったと思うけれど、今更後悔もしていなかった。何度今日をやり直したって、俺は同じ言葉を吐くだろう。
「過ぎたことはもうどうにもならないよ」
ナマエは歌うように言って、伸びた髪をなびかせながら消えていった。