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あの不思議な出来事からしばらくが経った。ヒュースの様子がおかしかったのはあの一時のみで、それ以外は至って普通の様子だ。あれから気まずくなるなんてことはなく、むしろ二人の間でなかったことかのようになっている。もしかしたらただ寝ぼけていただけだったのかもしれないと思う心の奥で、そうではないことを私は確信していた。あの時のヒュースの目を、私は忘れることができない。

だがそんなことに気を取られている暇もなくなった。これから近界人の大規模侵攻があるというのだ。ただでさえ厄介な大規模侵攻に今回は秘密裏に対処しなくてはならない。ボーダーのB級、A級部隊はてんてこ舞いだろう。勿論玉狛も例外ではなかった。未来の視える迅さんなどはいくらか違うかもしれないが、未来が視えるゆえに仕事量は人一倍多い。ボーダー中が駆けずり回る中、ヒュースは一人いつも通りに毎日を過ごしていた。

というのも、そう見せているだけかもしれない。私はこの機にヒュースがいなくなってしまうのではないかという不安がずっとあった。普段ならそういう時迅さんがアドバイスをくれたりするものだけど今回は何もない。つまりは自分で事を動かすしかない。

大規模侵攻の当日、私はオペレータールームに籠るふりをしてヒュースが出てくるのを待った。何故かヒュースが来るという確信があった。ヒュースはそれに気付いていたのだろうか、いなかったのだろうか、私の予想通りに玉狛の玄関へと訪れた。薄暗闇の中に「お前……」というヒュースの声が反響した。

「ヒュース、どこへ行くの?」

震えるかとも思った声は想像以上に強い響きを持って私の口から出た。無視すると思っていたヒュースもまた予想に反して私に答えた。

「オレの、あるべき所にだ」

それは近界のことなのだろう。もっと言えば、この間ヒュースが口にした――様のことなのだろう。何故か私は確信していたが、それは言ってはいけない気がした。言ってしまったら私達の何かが壊れる気がした。もっとも、これから出て行こうとする人物と何があろうともう関係ないのかもしれないけれど。それでも。

「ヒュース、行かないで」

私はヒュースにそう訴えかけた。オペレーターの私が力ずくで止められるわけがない。これはただのお願いだ。それでも私がお願いしたらどうにかなるんじゃないかなんて甘い考えが私にあった。

ヒュースは一度眉を寄せた後、何かを飲み込むように下を向いた。そしてこちらへ近付くと、私の体を両腕で包み込んだ。

「ヒュース……」

私はヒュースの腕の中で目を瞬いた。攻撃されることはあれど、まさか抱きしめられるなんて思ってもいなかったのだ。初めて感じるヒュースの体温に包まれながら私が何か言おうとした時、それより先にヒュースが口を開いた。

「何があっても守ってやる」

その次の瞬間、腹に鈍い感覚がして、私は意識を手放した。