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翌朝目覚めると、狭い私の部屋の中に甘いバターの匂いが充満していた。惹かれるようにキッチンへと向かうと、フライ返しを持った赤井さんがこちらを振り返る。
「おはよう」
「お、おはよう」
あの赤井さんにフライ返しはどこか似合わないようで、それでもこんな日常を私は夢見ていたはずで、目の前の光景に脳が混乱する。綺麗にホットケーキを裏返す赤井さんを見ながら、昨日のことは夢ではなかったのだと今更ながらに思った。目が覚めたら、また会社へ行って、赤井さんからはいいように扱われる――そんな毎日がまた始まると思っていたのだ。キッチンに突っ立って赤井さんを眺める私に、赤井さんは「口を開けろ」と苺を差し出した。素直にそれに従うと、苺の甘酸っぱさが口内に広がる。
「いい子だ」
赤井さんの柔らかい視線を受けながら、優しい赤井さんはどうにも調子が狂う、と私は目を逸らしたのだった。
出来上がったホットケーキは期待を裏切らず美味しかった。所謂男の料理というものならまだしも、ホットケーキを作っている赤井さんは私の中で激しく解釈の違いを起こしたが、未来では普通に作っているのかもしれない。少しの期待を込めて赤井さんを見ると、赤井さんは何も言わずに自分の蜂蜜のかかったホットケーキを一口差し出した。別にホットケーキが欲しかったわけではない。ホットケーキが欲しかったわけではないけれど、優しい赤井さんは欲しかったかもしれない。私は小さく口を開けると、幸せの味を噛み締めた。
私の支度が全て済むと、赤井さんは玄関まで私を見送ってくれた。
「行ってきます」
「気をつけてな」
まるで同棲しているかのようなやり取りに頬が緩む。エレベーターの前で再度振り返ると、赤井さんはまだドアを開けてこちらを見ていた。小さく笑った赤井さんに手を振って、私はエレベーターに乗り込む。これが現実だと言うには、あまりにも出来すぎている。
土曜の会社は空いており、普段よりいくらかは肩の力が抜ける気がした。今週の仕事があまりにも切羽詰まっているということで今日も出勤しているのだけれど、まるで仕事が進みそうにない。今朝や昨晩の出来事は本当に現実だったのか、家に帰ったらまた誰もいない自室が私を迎えるのではないかという疑問が私を渦巻く。そもそも、仮にあれが本物の赤井さんだとして、どうして彼はあんなに変わってしまったのだろう。勿論私にとっては嬉しい変化なのだけれど、今の冷淡な赤井さんからすれば不気味ですらある。未来の私は死の危機に瀕することでもあったのだろうか。そう考えて体に悪寒が走る。流石にネガティブが過ぎた。というのも、今の赤井さんの険のある態度のせいなのだけど。私は未だに既読もつかないメッセージ画面を思い出した。もし本当に、私に都合よく考えていいとするならば――未来の私は赤井さんに毎日愛され、同棲や結婚をしているのではないだろうか。現実と比べて落胆するだけだからあまり期待してはいけないと思いつつ、私の頭は妄想をやめない。何がきっかけかはわからないけれど、早く赤井さんが未来の赤井さんのようになったらいいのに。
鍵を差し込んだ時、中からドアノブが回されたことによって私は赤井さんの存在が夢ではないことを悟った。
「ただいま」
「おかえり。仕事はうまく行ったか?」
赤井さんは腕を伸ばすと、自然と私の手を取って中へ誘導した。一応家主は私だというのに、私よりこの家の勝手を知ったる顔で可笑しくなってしまう。もっとも、赤井さんにはこんな安いアパートではなく高層マンションの方が似合うのだが。
テーブルの中心で湯気を上げる鍋を見た後、私は口を開いた。
「話をしましょう」