▼ 4 ▼


食事の用意をし、風呂まで洗ってくれたのだからと私は秀一さんに一番風呂に入るよう勧めたが、秀一さんは譲らなかった。「家主である君が一番に入るべきだ」そう言われては従うほかない。本当は秀一さんはもっと豪勢なマンションに住むような人だと思うと、こんな小さなアパートで家事をさせているのが申し訳なくなってくる。他にやることがないというのもあるだろうが、今日も全ての家事をやってくれたのだ。洗濯物を畳まれた時は流石に抗議したが、「君は既に俺と付き合っているんだろう。何を恥ずかしがる必要がある」と言われあえなく引き下がった。

秀一さんは風呂を覗くような人ではないとはいえ、浴槽に浸かってもいやに落ち着かない。いくつかの壁の向こうには秀一さんがおり、今日から(厳密には昨日から)私は秀一さんと共同生活をするのだ。そう思うと気のはやる思いだった。昨日はまだ現実味がなかったからよかったものの、これからどうやって秀一さんと暮らしていいけばいいのだろう。口まで浴槽に沈めていると、軽いノックの音と「どうかしたのか?」という声がした。どうやら長く入りすぎたことにより、秀一さんを心配させてしまったようだ。

「今出ます!」

そう叫んでから、私は秀一さんが脱衣所を出るのを待って立ち上がった。


「長くなってごめんなさい。次どうぞ」

ヘアドライも終わり、私は寝間着になって居間へと向かった。秀一さんにすっぴんを見られるのは恥ずかしかったが、秀一さんの親し気な様子からすれば未来の私はとうにすっぴんを見せていることだろう。そう言い聞かせて私は秀一さんの前へ出る。案の定秀一さんはすっぴんであることに関しては触れなかったが、何度か鼻で息を吸うと私に近付いた。

「いい匂いがする」

「あ、今日トリートメントしたから……かな」
「そうか」

秀一さんはそう言って鼻を私の髪に埋めた。髪に自分の顔を擦り付ける秀一さんは子供のようで、母性本能を擽られる。ようやく離れたと思った時、もう一度私の頭に顔を近付けると柔らかい感触を残して秀一さんは歩き出した。

「それでは、風呂を借りてくる」

その足音が去った後、私は髪の毛にキスをされたという事実に狼狽した。キスに、それに髪の毛にされたものにいちいち騒ぐような年ではないことは重々承知だ。だが、乱雑なキスか前戯の一部としてのキスしかしてこなかった赤井さんにされたキスとなれば話は別だ。未来の赤井さん、恐るべし。こんなにも優しく温かいキスのできる未来に心躍らせながら、私は秀一さんが風呂を出るのを待った。

風呂上がりの秀一さんは、やはりと言うべきか艶に満ちていて性的だった。私がなるべく視界に入れまいと努力していることすら秀一さんは気付いているのだろう。秀一さんは手早くヘアドライを済ませると、私の隣に座る。

「待っていてくれたんだな」

はいと答えるのも、いいえと答えるのも恥ずかしい気がした。沈黙が答えだと思ったのか、秀一さんは胡坐をかくとその中心に私を座らせる。まるで猫のように抱き上げられながら、私は秀一さんに触れられている部分が熱を持つのがわかった。

「未来の君は可愛らしいよ。過去の君は、もっと可愛い」

いつかの質問に答えるように、秀一さんはそう言って私に頬ずりをする。確かに、今付き合っている恋人がいて、その恋人の過去の姿を目にしたら愛おしく思うだろう。私は、未来でも赤井さんと付き合っているということに安堵してすらいた。

「私、ちゃんと秀一さんと付き合えてるのかな」

秀一さんはその言葉には答えずに、私の腹の辺りに腕を回して抱きしめる。現在の、秀一さんにとっては過去の赤井さんにはされたこともない行動だった。

「今の俺は、君にとって冷たく他人行儀かもしれない。だが過去の俺のことも、どうか愛してやってくれ」

私はカーペットの模様を見ながら俯いていた。現在の赤井さんは、本当に付き合っているのかと言いたくなるほど素っ気ない。そのくせ、私が離れようとするような仕草を見せると激しく抱く。都合のいいように使われているだけなのではないかと思ったことも数知れない。それでも付き合っているのは、私が赤井さんのことを好きで仕方ないからだった。本当は、現在の赤井さんではなく未来の秀一さんと付き合えたらいいのに。声には出さないけれど、秀一さんのことだから私の考えなどきっとお見通しなのだろう。

「今日はもう遅いから寝よう。おやすみ」

秀一さんは私の頭頂部にキスを落とすと、私を解放した。私は秀一さんの足の中から立ち上がると、一度秀一さんを振り返って「おやすみ」と言った。秀一さんに見守られながら、私は居間を後にした。