2、独りよがりとこの世界

ここから出られない。シンプルで明快な一言を受け入れようとしない彼を引っ張って、私は旧市街地の端の端まで案内した。そこから見えた光景は予想以上のものだったのか、彼が息をのむのを何とも思わず眺めた。

「そ、んな…壁が…」
「言ったでしょ。ここから出られないって」
 そんなに驚くことなのだろうか。天井が見えないほど高く高くそびえる絶壁の壁は、私にはもう見慣れたものになっていた。唖然として空を見上げる彼の表情は完全に抜け落ちたようなものとなっている。

「悲しんでるの」
 …首をわずかに横に振る彼が不思議だった。悲しんでいないというのなら、どうして歯を食いしばっているのだろうか。どうして下を向いているのか。
 そういえば、と私は持っていた袋から物を取り出して彼に渡す。彼はちらりとこちらに視線を合わせたきり、投げやりにそっぽを向いてしまった。

「…いらないよ」
「おいしいよ?猫用じゃないから、ちゃんと君も食べられる」

 それでも拒否されてしまったので、もったいないから私が食べることにした。パキ、と金属音が響きわたる。サバの味噌煮だった。場にあわない匂いが立ち込める。 
 私はそっと彼の方を見る。うなだれて、ずっと視線を下に落としているのはやはり落ち込んでいるのではないのであろうか。そういえば、帰る場所があるんだった、と先ほどの彼の発言を思い返す。本当にこんなところで油を売っている暇はないのだろう。こちらに来てしまったのは本当に不運と言わざるを得ない。

「あのさ。…大丈夫だよ。多分はぐれ君なら大丈夫」
「大丈夫って、何が大丈夫なの?」
「うーん…ここから出ることができると思うよ。入ってこれたんだから、出ることもできるかもしれない」

 はっと視線がこちらに向いて、かちりとあう。信じられないというような、しかしその言葉への真偽を問うている瞳。本当だ、と言葉で伝えるのも何故かはばかられ、私はひたすら彼のそれをのぞき込んでいた。やがて、諦めたように彼はため息をつく。

「やっぱり、君は何かを隠しているみたいだね」
「…私は何も隠してなんていないよ?これは、ただの勘だから」

 ひとまず、彼はこの場所に身を置くことに決めたようだった。それでもできることならすぐにここを出たい、とまた調査に行こうとする彼を引き留め、自分が寝泊まりしている旧市街地のある一室を案内することにする。
 壊れた鏡に、割れた窓ガラス。外観はお世辞にも整っているとは言えないかもしれないが、きちんと掃除した中には危険なものはない。空いていると彼に寝泊まりすることを持ち掛けた一室も同様であった。

「寝るだけの場所として扱ってくれていいから。布団もあるよ」
「わかった。…でも、本当に泊まって大丈夫なの?」

 何を心配する必要があるのか。首をふって平気だと告げると、彼はわずかに頬を緩めて「ありがとう」と伝えた。…やはり、彼は素直な人なのだろう。そして、律儀だ。出会って間もない相手にそこそこの信用をおくものなのか。それでも、窓の外をぼんやりと見る彼は何だか悲しそうだ。まるで籠の中の鳥のような。

 なんだか消えてしまいそうな横顔に、小さく「大丈夫」と語りかける。彼は振り向くことはなかった。きっと聞こえていなかったのだろう。彼はきっとここから出る術を見つけて、出ていく。それはそう遠い未来のことでもないのかもしれない。何たって、外からのはぐれものなのだ。大切な人もいるのだろう。大切な思い出もたくさんあるのだろう。
 何だか目の前が霞んできて、私は静かに目線を逸らした。

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