8、探偵と彼女

奇妙な世界だと思った。現実にはありえない、何か大きな秘密が隠されていそうな場所だとも。ようやく脱出できたと思えば、僕はまた訳の分からない場所に閉じ込められて出られなくなっていた。…これからだって時に、振出しに戻された。壊したとばかりに思っていた壁がそびえるのを見て、目の前が真っ暗になった。どうすればよいのかわからなかった。
 そんな時に彼女が現れた。空っぽの人形のようだった。

 何かしら企んでいるものだと最初は警戒していた。彼女は「そういうものだから」と疑問には答えてくれず、自分のことはいつもひた隠しにして、感情がないロボットのように日々を過ごしていた。機械仕掛けの猫がそばで鳴き声をあげる。何も話さない彼女にじれったい気持ちになった。苛ついたことも少なくはない。
 それでも懸命に彼女に話しかけた。些細な動き、動揺や感情が漏れることを期待した。それ以上に彼女のことを知りたいという気持ちに動かされた。…一緒に脱出できたらと言ったとき、初めて彼女が見せた想い__深い悲しみを知ってから、僕は彼女に自由になってほしいと望んでいたのだと知った。世界に縛られることなく彼女としてあってほしいと思った。いつから疑いが哀れみに、そしてまた違う感情に動いたのかはわからない。きっと自然に、成り行きだったんだろう。ようやく自分の気持ちに区切りがついて、彼女を説得しようとした。それなのに。

「…春川さん。どうして君が」
「ずっとこっちに入る方法を試してた。学園から脱出するときにモノクマのあのライトのせいで意識がなくなったことは覚えてる?」
「…それは」
 
 混乱する頭の中で、じわじわと湧き上がる記憶。脱出を試みた僕らに、あれがライトを向けた。目前に立つ夢野さんをかばって…それで、僕はここに迷い込んだんだった。そうだ。…いや、そうならば、もしそうならば目の前に立つ、彼女とは。

「モノクマの手先じゃないよ。…あれは入間がつくったプログラムのキャラクター」
「…い、入間さんって」
「…私たちが実際に遊んだ世界とは別に、仮のゲーム世界を用意していたみたいでさ。…所々元と似てるの気づかなかったの?」
「記憶、不都合なところは曖昧にぼかしてたから。すごいよね。オーナーは何でも出来たんだよ」
「…黙って。殺されたいの?」

 入間さん。プログラム。…その産物。彼女がそれだというのか。事実を認識しないうちに春川さんが彼女を睨みつける光景を目の当たりにする。後ずさった彼女の目線の先には、鋭利な刃物。咄嗟に僕は春川さんの腕を引いた。鋭い眼光がこちらに向かうのも気にせずにまくしたてる。

「な、何をしようとしているの!?」
「決まってんでしょ。…ログアウトとか効かないから、手っ取り早いのはこいつを壊すこと。夢野が何とか向こうで出口を確保してる。セキュリティーが弱まっているうちに終わらせないと」
「…でも、彼女は何もしていない!僕と同じで、それ以上にこの世界に閉じ込められていて__」
「…まだ分からないの?この世界にあんたを引きずり込んだのは他でもないこいつなんだよ。故意だったのかは知らないけど、こいつがシステムの中枢なんだから原因はこいつに変わりはないわけ」
 自然に目線が彼女の方へ向く。否定も肯定もせずに名前さんは嬉しそうに空を見上げて微笑んでいた。この場に見合わない幸せそうな表情。僕をここへ連れ込んだのか、違うのか。僕は言葉を発することが出来なかった。
ガラガラと音を立てて崩壊する音が響く。空が、崩れていた。…天井すらプログラムされたものだったのか。ふと周りを見ると、干からびて茶色く染まった草や木々が泉を取り囲んでいた。『この世界の物は死なない』『ものは変化しない』絶対原則が、春川さんの言う『セキュリティーの弱さ』に関係してこうなっているとすれば、……ナイフは簡単に彼女の体を貫くのか。
 何とも思っていないのか、彼女は先ほど後退した足を一歩進めて見せた。一瞬の隙も見せまいと警戒する春川さんと後ろで立ち尽くす僕に、迎えるように大きく手を広げて静止した。

「…殺しなよ。それですべておしまい。この世界も、皆みんな」
「……名前さん、それだけは」
「何だっていうのさ。今までたくさんの死を見てきたんでしょ。人間じゃないプログラムが殺されたって、別に何か減るわけじゃない。…ほら、早くしないと君たちの精神はここと一緒に崩れちゃうよ?」
「…最原」

 …わかっている。春川さんも起きない僕のために必死に解決の糸口を探して、ようやくここまで来てくれたのだということも。機械が不得手な夢野さんもどうにかプログラムの世界と対峙しているのだということも。僕たちは前へ進まなければいけない。そう僕たちは決めたんだ。だけど、このままでいいのか?本当に?
 僕は春川さんの手を止めて前へと踏み出す。後ろから聞こえるため息とナイフを捨てる音。彼女もわかってくれたようだ。

「…少しだけ時間が欲しいんだ。名前さんと話す時間が」
「…やめておいたほうが良いと思うけど」
「彼女は僕たちを襲うようなことはきっとしない。…きっと、わかってくれるから」
「あんたもつくづくお人よしだよね。……勝手にしなよ。だけどもし相手が行動を起こしたら、その時は」
「……ありがとう」

 すぐ動けるように遠すぎない場所に距離を取った春川さんを見て、僕は名前さんに向き直る。彼女は既に無表情に戻っていた。彼女の意思に反する行動を取っているのだと嫌でも分かる。それでも僕は言わなければならなかった。…今なら、その無表情の先に隠している感情が見える気がするから。

「…一つ、教えてくれない」

 僕が声をかけるよりもはやく、そのままの瞳で彼女は僕に問いかけた。

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