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この世界に来てから一月半程経った。一人になるのが嫌で、休めと言われても何かと理由をつけて休まず働いていたけれどさすがに怒られて久しぶりの休日だ。
「…っ!…はぁ、はぁ…」
体は正直なのか仕事が終わって家に着いてから倒れるように眠っていたけれど一時間ほどで目が覚めてしまった。
この世界に来た時からずっと同じ夢を見る。私は暗闇の中独りきりで、音もなく、本当に何もない。父や母を呼んでみても勿論現れることはない。そんな夢を来る日も来る日も見せられ続けて、あの夢を見るのが怖くなってしまってあまり眠れなくなった。
今日もほとんど眠れなかったな…
シャワーを浴びて気持ちを無理矢理切り替えたけれど、それでもやっぱり一人で家の中にいるのはどうしても嫌で散歩でもしようと家を出た。
まだ太陽が昇っていない外は薄暗く肌寒かった。けれど高々と昇った太陽に身を焦がされるくらいならこれくらいが私にはちょうどいい。あてもなく静かなかぶき町をただひたすら歩き回っていたらゴミ捨て場で見たことのある着物が見えた。
「……坂田さん?」
何かあったのかと思い駆け寄って肩を揺らして名前を呼んだ。もぞもぞと身体を捻らせた坂田さんはうねり声を上げながら目をゆっくりと開けた。
「んぁ、…あれ。穂花ちゃんじゃん。こんな所で何やってんのお前」
「えっ、いや、坂田さんの方こそこんな所で何やってるんですか…!」
大きく背伸びをした後ふらふらと歩き出したかと思えばうっと小さく息を詰まらせてそのまま蹲み込んでしまった。お酒飲み過ぎたのかな。
「坂田さん、大丈夫ですか?」
「ぅ、き、気持ち悪ィ…」
「お酒飲み過ぎたんですか?」
「いやぁ隣に座ってた親父と盛り上がってついつい…うっ、」
「あぁ…」
坂田さんはついに吐き出してしまって背中を出来るだけ優しく摩る。この前はあんなにカッコよく見えたのに本当、不思議な人。
「家まで頑張って帰りましょう?」
「むり、歩けない。穂花ちゃん送って」
「送りますから。ね」
「何この子天使に見えるんですけど」
時々吐く坂田さんを介抱しながら道を教えて貰って家に向かう。辿り着いたそこは、やっぱり私が思っていた所で間違いなかった。この世界に来た日、妙に惹かれたこの看板は、やっぱり坂田さんのお店だったんだ。
そっか、そうだったんだ。
「あー…ちょっとシャワー浴びてくるわ」
「あ、はい」
坂田さんがお風呂場に消えてからぐるりと部屋を見渡してみた。糖分と書かれた大きな掛け軸。あれ、なんだろう。甘いもの好きなのかな。その意外性がなんだかおかしくて笑ってしまう。
坂田さんはいつからここに住んでいるんだろう。ずっと一人なのかな。そういえば、一階にあるスナックお登勢の店主さんの家を間取りしてるって咲さん言ってたっけ。
そうやって意識しないようにいろんなことを考えてみたけれど、誰もいない部屋はとても静かで夢を思い出させた。いつまでもここにいるわけにはいかないのに、家に戻って眠りについたらまたあの夢を見ると思うと怖くて足がすくんで動いてくれない。嫌だな、こんな自分。この世界に来てからネガティブなことばかり考えてしまう。寂しいならそう言えば、優しいあの人たちはきっと手を差し伸べてくれる。でもこんな悩み、誰にも言えるわけがなくて、その事実が私だけがこの世界で異端だと教えられているようで、さらに寂しさが増していく。
寒い。心が、日に日に冷えていくみたい。
「あー気持ち悪ィ。…うぉ、そっか。お前いたんだった」
先程よりも少しすっきりとした顔をして現れた坂田さんは私がいたことを忘れていたようで驚いてみせた。コップに入った水を喉を鳴らしながら飲み干すと私の向かいのソファに腰掛けた。
「お前あんなとこで何してたわけ?仕事帰り?」
「あ、えっと、…はい」
こんな時間に一人であてもなく出歩いていたとバレたくなくて咄嗟に嘘をついた。坂田さんはふぅーんと私をジロジロと見てくる。気づかれてないよね…。
「じゃあ行くか」
「え?」
「え?って…家だよ家。帰るだろ」
ソファに掛けてあった着流しを取って立ち上がった坂田さんに置いていかれないように私も急いで腰を上げた。
ああ、あの家に帰らないといけないのか。今日は何して時間を潰そう。すごく眠たいけれど、怖くて寝る気にはなれない。でも部屋に一人で何もせずいるのも嫌で、どうしていいのかわからない。だから外に出たのに。
また、独りぼっちになるんだ。
立ち上がってもなかなか足を踏み出せずにその場に立ち尽くしていたら、いつの間にか坂田さんが目の前にいた。
「あ…えっと、私、」
「寂しくて仕方がねぇって顔してんな」
「…っ、」
不意に突かれた核心に時が止まった気がした。どうして寂しいってわかるんだろう。
「ホントは仕事帰りなんかじゃねーだろ」
「…どう、して」
「服、どう見ても寝巻きだし化粧もしてねーみたいだし?」
私がついた嘘も何もかも坂田さんにはお見通しだった。気怠そうな瞳に捉えられる。赤い瞳に映る私はなんて情けない顔をしているんだろう。そんな自分をこれ以上坂田さんの瞳を通して見たくなくて視線を横にずらした。
「クマ、酷ェな。あんま寝てねーのか」
ゆるゆると私に触れてくる坂田さんの手はとても暖かい。そっか、いつもは化粧で隠していたけれど今はすっぴんだからわかるのか。そんな簡単なことにも気づかないなんて心に余裕がないんだなぁ。
「これ、は…その、まだこっちの生活に慣れてなくて、それで」
「それで寂しくてこんな明け方に一人で出歩いてたってか。警戒心持てって言ったろ」
私にそう言葉を落とす坂田さんの手はずっと私の目の下を優しく撫で続ける。なんとか誤魔化そうと思うのに、その陽だまりのような手がそれを許してくれない。
「一人で、家に居たくなくて…」
「じゃあ俺が一緒に寝てやろーか」
そんなことを飄々と言ってのける坂田さんは一体何を考えているんだろう。すまいるで咲さんが私に言った言葉が頭の中で木霊する。だめだよ、流されちゃ。そう思うのに、本当なら冗談やめて下さいと笑って流すべきなのに、私の手を引く坂田さんの手を解けそうにない。
「ヤリたくなったらごめんね。まァ多分大丈夫だから。ねみーし。…多分」
気がつけば坂田さんと同じ布団の中にいた。あれ、どうしてこんなことになってしまったんだろう。恥ずかしくてずっと坂田さんの胸元から視線を上げられない。やっぱりこういうことはいけないんじゃないのかな。まだ出会って間もないのに、男女が一緒に寝るってだめなんじゃないかな。
「…あ、あの」
「つめった!おっまえどんだけ外いたんだよ!体冷え切ってんじゃねーか」
やっぱり帰りますと言おうと顔を上げたらそう言ってジト目で私を見てきた。薄暗くても坂田さんの赤い瞳ははっきりと見える。なんて綺麗なんだろう。このまま、瞳の中に吸い込まれてしまいそう。その瞳に見惚れていたら坂田さんは眉を下げて微笑んだ後、腕を引っ張ってきた。急な出来事にその勢いを止められず、私は坂田さんの腕の中にすっぽりと収まった。
あ、すごくあったかい。
坂田さんの鼓動の音が鼓膜に優しく響いてきて私を眠りに誘っていく。人の体温ってこんなに安心するんだ。
しばらくすると頭の上から規則的な呼吸が聞こえてきた。もう寝てるみたいだし、気づかないかな。少しだけ図々しさが出てきて坂田さんの胸元に顔を擦り寄せてみた。先程まであんなに怖かったのに、そんな感情どこかに消えてしまった。その代わりに安心感が胸いっぱいに広がって、涙が溢れ出てくる。
安心なんてしちゃいけないのに。この人に溺れるわけにはいかないのに。だめだとわかっていても、心はそれを無視をする。坂田さんの腕の中は、深くて暗い海の底に沈んでいくような感覚で、怖くなるはずなのにそれが妙に心地良い。
ーー寒い。
坂田さんに抱きしめられてとても暖かいのに、心はやっぱり冷え切って、凍えてしまいそうだった。どうしてなのかな。安心感で満たされているはずなのに、寂しさは消えてくれない。
咲さんたちは私には眩しすぎて、伸ばしてくれるその手を取ることさえできないのに、どうして坂田さんの意図の読めない優しさは、素直に受け入れることができるんだろう。
どうして、私の腕を引く前に笑った坂田さんをすごく寂しそうだと思ったんだろう。