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坂田さんの家に泊まったあの日から数週間が過ぎた。あの後も何度か坂田さんにすまいるで会ったけれど、お互いあの日のことには触れずに当たり障りのない話をするだけで、以前と何も変わらない。少し変わったことといえば、私のことを穂花と呼んでくれるようになったこと。たったそれだけのことなのに心が弾む自分に心底驚いた。

あと、あの日を境に真っ暗な場所にいるだけの夢から、元いた世界の夢を見るようになった。何故なのかはわからないけれど、まるで元の世界に戻れたような気持ちになって、もっと夢を見ていたくなって、前よりも少しだけ眠れるようになった。

これも全部、坂田さんのおかげなのかな。





「はい、穂花ちゃんこれ今月の給料」
「ありがとうございます!」
「穂花ちゃんそろそろ銀行の口座作ってくれないかい?」
「あ…そうですよね。わかりました」

休日に給料を貰いにすまいるに行ったら店長にそんなことを言われた。とりあえず当たり障りのない返答したけれど、銀行の口座なんて作れるわけがない。作るためには身分証が必要になる。どうしたらいいんだろう。

「あ、そうだ」

坂田さんにお願いしてみようかな。なんでそんなもの用意できないのか怪しまれるかな。でも、もう頼れるところはそこしか思いつかない。何を聞かれるかわからなくて怖いけれど、足は自然と万事屋に向かう。

坂田さん、いるかなぁ。


万事屋に着いて呼び鈴を鳴らすとだらけた返事が聞こえてきて扉が開いた。

「はいはいどちらさんですかー、って穂花か」
「あ、あの、こんにちは」
「どうした?寝れない…じゃねーわなこんな昼間に」

とりあえず入れば、と居間に通された。坂田さんはそのまま社長椅子にドンと腰掛けて私がソファに座るのをじっと見つめている。

「なに、座らねーの?」
「いえ…その椅子に座ってると、社長さんみたいだなぁって」
「いい椅子だろ、コレ。つーか社長さんだからね」
「ふふ、そうですね」

ソファには座らず、坂田さんの目の前まで足を進めた。なんて言えばいいんだろう。違う世界から来たから身分を証明する物を持っていませんとは言えない。なんとか上手く誤魔化さなければいけないけれど、私をじっと見つめるその瞳に怖気づいてしまって言葉が出てこない。

「何かあったのか?」
「…違います、あの…えっと、身分証、を…」
「身分証?」
「銀行の口座を作らないといけなくて…でも、私身分証を持っていなくて、それで」

ああもう。なんでこんなに下手くそなんだろう。坂田さんの眉間がドンドンシワが出来てきて苛立っているのが見てわかる。ちゃんと話さなきゃ、わかってもらえない。余計に怪しまれるだけだ。

「身分証、作って頂きたいんです。坂田さん」
「んなもん役所に行けば一発だろーが。なんでわざわざ俺なんかに言うんだよ」
「えっと、役所じゃ、ダメで…」
「…なんで」
「それ、は…」

理由なんて言えるわけもなく、口を噤んで視線を下に落としていると大きなため息が聞こえて、椅子を引く音が部屋に響いた。何も話さない私に、呆れてしまったのかな。こんな怪しい女、相手にする方がおかしい。自分でなんとかするしかないと諦めかけていた時、机の上にチラシの裏紙とペンが置かれて顔を上げた。

「この紙に今住んでる家の住所と名前と生年月日書け。ちょっと時間かかるが頼んどいてやる」
「あ…」
「まぁこんな街だしな。役所で身分証作れねー奴なんか山ほどいるから、そういうこと生業にしてる奴もいんだよ」
「すみません…」
「金貰えりゃなんでもするってお前に言ったしな」

ホラ、さっさと書け。とまた社長椅子に座って肘をつきながら言われて慌ててペンを取った。住所と名前を書いて、後は生年月日を書くだけ。きっと必要だろうと年の近い先輩に話の流れで西暦を聞いておいてよかった。自分の生まれた年とは全く違う西暦を書きながら、本当にここは平成ではないんだと実感した。

坂田さんも、私とは全く違う世界を生きる人。本来なら出会うことのない人。なのに、私の目の前で呼吸をして、眠そうにあくびをして、確かに生きている。それが本当に不思議で、私が違う世界の人間だと証明しているようで、本当は関わるだけで辛くてたまらない。けれど、何故だかこの人の側にいると気持ちが落ち着くのも本当で、矛盾だらけの自分が嫌になる。


「書けました。…宜しくお願いします」
「はいはい。出来たら連絡すっから。お前携帯は?」
「あ、えっと、まだ持ってなくて…」
「キャバ嬢が携帯持ってなくていいの?携帯くらい買える金貰ってんだろ。って、あぁ、身分証いるからか」
「はい…すみません…」
「…お前さぁ、」

坂田さんは呆れたようなため息を吐くと黙り込んでしまった。何か言おうとしていたのに、その言葉が紡がれることはない。気になって仕方がないのに聞くこともできず、送ってくれようとする坂田さんを制止してべったりと貼り付けた笑顔で万事屋を立ち去ることしかできなかった。


やっぱり、坂田さんにお願いするべきではなかったかもしれない。勘の鋭そうな坂田さんは、きっと私を怪しんだだろうし頼ってばかりの私に呆れたと思う。立ち去る前に見たのはそんな顔だった。

今度会った時もう一度きちんと謝ろう。

そんなことを考えながら歩いていたら道に紙が散らばっていた。拾って見てみると何かの書類のようでそこら中に落ちている紙を集めて歩く。誰が落としたんだろうと辺りを見渡すと私と同じように蹲み込んで書類を集めている人を見つけた。

「あ、あの、これ…」

素通りしていく人々の真ん中でただ黙って書類を集めるその男性に声を掛けた。地面から視線を上げて私を見た男性は時が止まったように目を見開いて固まってしまった。

「あの…この書類あなたのですよね…?」

私をじっと見つめて何も話さない男性にもう一度話しかけて拾った書類を差し出した。その人は書類に視線を移し、もう一度私の顔を見るとにっこりと微笑んで書類を受け取ってくれた。

「ありがとう。風で飛ばされてしまって、困っていたんです。助かりました」
「い、いえ。全部ありましたか?」
「えぇ。あなたのおかげで」

書類を綺麗にまとめると、立ち上がって丁寧にお礼をしてくれた。なんだかその誠実さに心が暖かくなるのを感じて立ち去って行く男性の背中から目を離せない。


その背中を見ていると何故だかふと坂田さんの顔が頭をよぎった。坂田さん、もしかして怒っていたのかな。何も話さない私に、なんて言葉をかけていいのかわからなかったのかな。坂田さんはいつも得体の知れない私を助けてくれるのに、私はあの人に何もしてあげられない。


坂田さんは、私のことをどう思っているんだろう。