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坂田さんが帰ってから自分でも不思議なぐらい上手く接客できている気がするし、楽しいと感じている自分さえいる。
ただ、この世界で身分を証明できるものを手に入れただけなのに。
「橋さん気をつけてお帰り下さいね」
「いやァ楽しかったよ穂花ちゃん。また来させてもらうよ、ありがとう」
「あ…ありがとうございますっ」
すまいるには初めて来たというお客様にそんな風に言ってもらえたのは初めてだった。今までどれだけ酷い接客だったんだと反省するのと同時にとても嬉しくて思わず笑みが溢れた。顔が緩んでいるのに気付かれたのか、次のお客様が来るまで待機するためにメイクルームに入ると化粧直しをしていた咲さんや他の先輩たちになんだか嬉しそうねと揶揄われてしまった。そんなに顔に出てるかなぁ。
「穂花なんか調子出てきたんじゃない?ちらっと見たけどさっきのお客さん、すごく楽しそうだったよ」
「あの、あの、お客様にまた来ると言ってもらえたんです」
「よかったね。アンタいい子なのにいつまでたっても指名取れないから不思議だってみんなで言ってたんだよ」
「皆さんが色々教えて下さったおかげです。これからも頑張ります…!」
「もぉぉぉホントかわいい!銀さんに何もされなかった?!大丈夫?!」
「アンタ銀さんのこと何だと思ってんの」
「ふふ、何もされてないですよ」
そうやって私を抱き締めてくれる咲さんは本当に暖かい。心も暖かいから、こんなに心地良いんだろう。早く帰りたいという気持ちに変わりはないけれど、こんなに素敵な人たちが沢山いるから少しだけ伸ばしてくれるその手を掴んでみたくなった。いつも悩んでることはないかと聞いてくれる咲さんに話してみたくなった。
そんな勇気は、到底持てそうにないのだけど。
「穂花さん、新規のお客様来店されたのでお願いします」
「あ、はい!すみません、行ってきます」
「頑張っておいでー」
ここにきて初めて本当に笑って咲さんたちと話が出来た気がした。いつも笑えているか心配しながら接していたから。ずっとこの気持ちを持ち続けられたら、私も変われるかもしれない。
「四番テーブルです」
「わかりました、ありがとうございます」
私はまだ指名を貰えていないから、新規で来て指名をしなかったお客様の相手をする。今日はこれで三人目だ。急いでテーブルに向かいながら名刺を取り出した。
「いらっしゃいませ。お待たせしてしまってすみませ、…あなたは、」
「ん?…ああ!君はこの前の」
言われたテーブルにいたのは坂田さんに身分証の依頼をした帰り道に出会った男性だった。まさかこんな所で再会するとは思わず驚きを隠せないでいるとにっこりと微笑みかけてくれた。
「あの時はありがとう。ここで働いてたんだね。和田です」
「あ、えっと、穂花と申します。…びっくりしました」
「僕もだよ。こんな所でまた会えるなんて」
そうやって穏やかな表情で話す和田さんは江戸で貿易の仕事をしているらしい。キャバクラは今まで来たことがなかったようで知っている人で良かったと言ってくれた。それから和田さんは、私が田舎から出てきたと言うと私の知らない江戸のことを沢山話してくれた。こんなに江戸が栄えだしたのは"攘夷戦争"という戦争が終結して天人たちが地球に来るようになったかららしい。宇宙の文化が沢山地球に入って来たからこれだけの発展を二十年ほどで遂げることができたんだそうだ。
そっか。この日本はずっと今のように現代的なわけではなかったんだ。私がいた日本と似ているようで似ていない、この世界のことを教えて貰えてなんだか少しだけ気持ちが楽になった気がした。ここが何処なのか、どういう世界なのか聞きたくても、誰にも聞けなかったから知ることができて心にちょっと余裕ができた。
今日は、すごくいい日になったなぁ。
橋さん同様、また来ると言ってくれた和田さんを見えなくなるまで見送って店内に戻ると店長に今日は人の出入りが少ないから早いけど上がっていいと言われた。時計を見るとまだ十二時を回ったところだった。
「え…こんなに早く上がっていいんですか?」
「今日頑張ってたみたいだしねェ。明日休みでしょ?帰ってゆっくり休みな」
「あ、ありがとうございます…じゃあお先に失礼します」
正直今日は、いつもよりも疲れていたので有り難かった。お言葉に甘えて咲さんたちよりも一足先に上がらせてもらって店を出た。普段は夕方か明け方に歩くことがほとんどであるかぶき町は、まだまだたくさんの人で賑わっていた。一人がいいけど独りではいたくなくて、私のことなんか気にも留めないたくさんの人がいる夜のかぶき町は少し落ち着きさえ覚える。高く広がるネオンのその先を仰ぎ見ると、見えるはずの淡い光が雲に隠れてしまっていた。
あ、なんだか私みたいだ。
そんなことを考えて歩いていたからかもしれない。今日はいいことが沢山あったから油断してしまっていたのかもしれない。ネオンが背中の遠く向こうになった辺りで初めて誰かにつけられていることに気が付いた。
なんだろう。どうしよう。得体の知れない恐怖から足が震えて上手く動かせない。誰かいるのか振り返って確認したいけれど、それもできなくて気付いていることを知られないようにただ歩くことしかできない。
でも、このまままっすぐ家に向かう事も怖くて震える足をなんとか動かして直ぐ其処の曲がり角を曲がって走った。忍び足だった足音が大きくなって私を追いかけていることがわかる。こわい。こわい。誰かに助けを求めないと。絞り出すように声を出そうとした寸前のところで腕を勢いよく後ろに引っ張られた。
「なんだよ姉ちゃん逃げることないじゃん」
「ぁ…な、なん、ですか」
「ちょっとさー俺たちと遊んで欲しくってさあ」
「私、用が、あるので…っ」
ポツリポツリと等間隔に並ぶ街灯以外に光のない路地裏で二人組の男に囲まれてしまった。私の腕を引っ張った男はそのまま私が逃げないように腕を掴んで、もう一人の男が私の目の前に立った。
「俺たちずっと見てたぜ?アンタ今から家に帰るだけだろ?ちょっと相手してくれるだけでいいんだからよォ」
「そーそー。きっと気持ちよくなれるよアンタも」
「ぃ、いや…っ」
掴まれた腕を引いてもびくともしない。頭がどんどん恐怖に支配されていって涙が溢れる。やっと楽しいと思えるようになったのに、頑張ろうと思ったのに、どうしてまたこの世界のことを悪く思わせるようなことばかり起こるの。私が何をしたっていうの。
帰りたい。早く帰りたい。
やっぱりこんな所に居たくない。寂しさに心が潰されてしまいそうで苦しくて助けを呼ぶことも出来ない。腕を引っ張られて路地裏の奥に連れていかれそうになっているのにもう逃げようと思えない。孤独や寂しさに負けそうになっていた時、引っ張られていた腕を別の誰かに掴まれて声が聞こえた。
「オイオイたかが一人の女に二人掛かりでナンパたァとんだ草食系男子ですねェ」
「なんだてめーは…っ」
聞いたことのある声に息が止まりそうになりながら顔を上げると、そこには気怠そうな瞳をした坂田さんがいた。坂田さんは男の手を掴み、ギリギリと音を立てながら腕を高く上げて後ろへ放り投げた。先程まで私の腕を握り締めて迫っていた男は坂田さんの手によっていとも簡単に伸びてしまい、もう一人の男は逃げるようにその場を立ち去った。
突然恐怖から解放された私の体は地面に落ちていき、安堵から涙が溢れて零れ落ちては地面を濡らしていく。坂田さんが来てくれなければ私はあのまま何処かに連れていかれていただろう。その先にあったかもしれない可能性に体が震えて、私は自身を抱き竦めた。恐怖の余韻がなかなか消えずに、坂田さんに何も言えないでいると、私に近く足音が聞こえて、坂田さんのブーツが視界に入って来た。着物の擦れる音と共にほんのりと石鹸の香りが鼻をかすめて顔を上げると面倒くさそうな顔をした坂田さんと目が合った。
「お前ほんっと、どんだけ面倒事吸引マシーンなんだよ」
「ごめん、なさい…」
これ以上迷惑をかけないようにって思っていたのに、結局また坂田さんを面倒事に巻き込んでしまった。坂田さんの声色が怒っているように思えて風の音に紛れてしまいそうな程小さな声で謝罪すると坂田さんは大きく息を吐いた。
「お前さァ…」
何かを言いかけて辞めてしまった坂田さんは私から視線を逸らさない。その深い紅色の瞳は声色とは違って悲しさが見え隠れする。その瞳を見つめていると、ふと思い出すことがあった。
坂田さん、ずっと私に何か言いたそうにしてる。依頼しに行った時も、今日も、私に何か言おうとしてやめていた。何を言おうとしているんだろう。今度はちゃんと言って欲しくて、それが例え文句だったとしてもちゃんと受け止めようって、そう思って交わる視線に力を入れたら頬を両手で引っ張られた。
「ぃ、っ」
「あのね、穂花ちゃん。今お前に謝られたら助けた俺がいけねーことしたみてェだろーが」
「…っ」
「俺ァ別に謝って欲しくて助けたわけじゃねーよ。こういう時は笑ってありがとうだけ言っときゃいいんだよ」
あぁそうか。私、そんなに謝ってばかりだったんだ。この人は怒っているわけでも面倒くさがっているわけでもなくて、私のために行動してくれていたんだ。なのに、私は勘違いして迷惑かけてばかりだと後ろめたい気持ちでいっぱいになって謝罪の言葉ばかり口にしていた。
ーーそっか。こういうときは、
「…あり、がとう…ございますっ、助けてくれて…っ」
ありがとうって言えばこの人は今みたいに呆れた顔をしながらも笑ってくれるんだ。